212熱狂(15-4) | 左団扇のブログ

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 ああ、どうしてフィリップはそんなへり下った様子をしていたのか。私が彼に服従する用意があるのが、私が服従しようと願っているのが、そして、私の運命、彼の運命、母の運命、ジュヌヴィエーヴの運命に関して、私に決定を強いるより、むしろ私から決定権を取り上げるべきだと、彼には分からなかったのだろうか。まあ、そうだったのだろう、彼はじっと待っているだけだった。彼の苦悩に同調し、私の青春期の手に負えない成熟に因って、周りの大切な人達に及ぼしていた重圧を取り除くか、それとも、ジュヌヴィエーヴを要求し私の幸福の権利を強要するか、それは私次第だった。


 私は自分の義務及び願望、そしてフィリップの願望を同時に叶える打開策を、執拗に模索し始めた。それで一体どうなるのか。私の中に芽生えた雑然とした見解は、何かの犠牲が必要であると云う論拠も無しに、全て自分勝手な結論に達した。荒れ狂ってはいても明白な言葉で、私が理性から受け取った命令は、抵抗しろ、自分に対して論理的であれ、そして、多くの苦難を経て追求して来た任務を、いざ実現させようとする時に放棄してはならないと云うものだった。そして私の存在の奥底から、また、本能や嗜好から、そして官能や想像力から、実に多くの類似した助言が伝わって来た。


「君はサン=ジョルを離れるんだね」と、フィリップが繰り返して訊ねた。


 私は同情で打ち震え、初めて見るかの様に彼の顔を見詰めた。ああ、何とも(しな)びたこめかみそこに刻まれた皺の一本一本、それを深くしたのはこの私であり、同様にして、私の恋情の欲求がその頭髪を変色させ、まぶたに皺を作り、肩を丸くさせた。気の毒なフィリップ。私の幸福の来歴が彼の痛手や哀しみに充ちた顔に刻まれていた。そして私は、眼の前に自分が数年間苦しめ続け、その生活が私の生活如何(いかん)なっている男がいる事に気付いた。その上、彼は母の友人であり、幼少期の私を見知っており、思い掛けなかった事に、善良で、寛大で、気高い心を発揮出来、感謝や献身の考えに素直に従う人物だ。ならば、私から敬意を払われる権利を持つには、私と同類の一人と云うだけで十分ではなかっただろうか。


 大きな街道を、若い連中、頑健な連中、無遠慮な連中、熱狂的な連中が、空を見上げたり情景の美しさにうっとりとしたりし、笑いかつ歌いながら闊歩しているとしよう。道は閑散としていて、その先は見渡す限り人気(ひとけ)が無い。彼等は自分達の猛烈な行程の後を追うまるで呼吸する空気が無く、自分達を導く光無いかの如くに、よろめきながら進む者達の事が眼に入らない。それは避け難い行列、凱旋車[1] に繋がれた奴隷や敗軍の王の一団だ。幸福とは征服の事だ。それは何らかの不正が無ければ、悪弊や暴力が無ければ、少なくとも、他人の権利の侵害が無ければ成立しないものだ。ならば、人は自分の幸福に注意を払う様にしなければならない。人は幸福になればなる程、幸福で無い様に振舞わなければならない。そして、自分が進む道に気を懸け、周りに明敏な視線を投げ掛けなければならない。日向(ひなた)にいる者は、自分の影が、誰かから一筋の光の恩恵を奪わない様に気を付けなくてはならない。


「パスカル、君はサン=ジョルを離れるんだね」と、またもフィリップが不安げな声で繰り返した。


「はい」と、愛情で狂おしくなりながら私は叫んだ。「はい、明日発つつもりです」


「ジュヌヴィエーヴにもう二度と会おうとはしないのかい」


「もう決して」


「それを君の母親の命に懸けて誓い給え」


「母の命に懸けて」


 それで終わりだった。フィリップの溢れんばかりの善意が、私の本能の最後の抵抗を奪い去った。私の心にあったらしい、高潔になろうとする願望が、理性のいかがわしい勧告を抑えた。これに対して私は満足感とちょっぴりの誇りとを覚えた。


 しばしの沈黙の後、彼は友人の様な口調で言った。


「去って行く方が良いよ、君が居るべき場所はサン=ジョルじゃない」


 彼は私に対し一切非難がましい事を言わなかった。どうして私達はこれまで、手を握り合ったり優しい気持ちを抱いたりする事を互いに拒んで来たのだろうか。確かに、それが叶ったとしたなら、彼の腕の中で泣いていたのは私、そう、この私であり、私を慰めていたのは彼だっただろう。何故なら、たった今私が誓いを立ててから、私達の間にはもう私の苦悩以外に苦悩は無くなり、彼は自分の苦悩を忘れて私の苦悩を分かち合う様になっていたからだ。


 フィリップは立ち上がり、ランプを手に取った。


「送って行くよ、パスカル」


  私が自分の約束を十分実感する前に、そして恐らくは、私が犠牲を払う事で、相手の眼の前でちょっとした優越感に浸る前に、彼が余りに性急さを見せ、私に約束の完遂を促したのは間違いだった。 


   彼は念を押す様に言った。


「どうなんだい、パスカル」


   憤りと不安の余り、私は言い返した。


「何です、少しは辛抱出来ないんですか。未だ一晩あるでしょう。それに、一つだけ条件があります、奥さんにお別れせずには旅立ちません」


「何を馬鹿な事を」


「いいえ全然……、極く当たり前の条件ですから、どんな理由があっても諦めたりしません、少なくとも……」


「何だって……、何だって……、君はそうしたいのか」


 ああ、彼の不安そうな顔。私の逆ギレは一気に消えたが、最高の喜びの可能性がかすかに見えたので、少し気兼ねしながらうんと小声で言った。


「会いたいです……、お別れを言うのは当然です」


「いや、ダメだ」と、彼はテーブルを拳で叩きながら言った。「いやダメだ、ダメだ、あいつに会わせられない、お断りする」


 重い時間が私達にのしかかった。二人の内のどちらも道を譲る気は無かった。フィリップは歩き回り、椅子に座り、苛立った仕草をしながらまた歩き出した。私は突然船が難破した者の様に、頼みの綱にしがみ付き、それを手放そうとしなかった。その場面が一層明確なものになった。長い白服を着て、恐怖に顔を蒼ざめながら、ジュヌヴィエーヴがドアを開けてくれる。「さようなら(アデュー)」と、私は彼女に言。「さようなら、もう会う事は無いでしょう、さようなら」。そして、私達の視線、私達の手、私達の心が終生結び付く事になる。その様な心の中の情景の記憶と別れる事が、本当の別れになるだろうか。


 ランプが消え、夜明けが自分の力を窓に試そうとし始めた。街が賑やかになって来た。


 とうとうフィリップが私に言った。


「君はそうしたいのか。もし僕が拒んだら、君はサン=ジョルに残るのかね」


「済みません、フィリップ、でもそうしなければならないんです、それは当然の事です」


 彼の怒りは余りに激しく、私は新たな攻撃に身構えた。


「だったら、来なさい」


 使用人達に気付かれない様に、私に足音を立てない様に合図をして、彼は長い廊下を私の前に立って進んだ。彼は細心の注意を払って進もうとして、片方の足ともう一方の足とで交互にバランスを取らざるを得ずにいた。それは滑稽かつ痛ましいもので、私は彼に対してよりも自分に対して恥ずかしくなった。 自分の幸福に固執する余り、私は彼にひどく屈辱的な仕草を強要し、自分の思いやりの衝動と云う商品を、どんな代償で彼に売ろうとしていたのか。


 彼は立ち止まり、私は不安と寒さとで震えていた。


「ノックし給え」と、彼は聞き取りにくい声で言った。「自分だと知らせるんだ」


 フィリップは壁に(もた)れかかっていたがその脚はぐったりしていて、彼の心が私のそれと同様に苦しんでいるのが分かった。やれやれ、それが何とも恐ろしく思われた。おまけにジュヌヴィエーヴがそこにいた。ドアの向こう側でひざまずいて、すすり泣いていた。最後にもう一度愛しい彼女に会うのを諦めるべきか。この瞬間に試練を開始し、別な男性を救う為に自分を犠牲にすべきか。


「無駄にする時間は無いよ」と、フィリップが口籠って言った。「従業員達がやって来る……、だからノックして……」


 私はドアに触れ、ジュヌヴィエーヴに呼び掛けようとした。だが、何て言ったら良いのだろう。夫の前で何と呼んだら良いのだろう。


 私は振り向いた。フィリップは身動きしていなかった。窓から斜めに差し込む光で、彼の蒼白な顔が見えた。


 そこで彼にこう言った。


「行きましょう、フィリップ」


   彼はしばらく困惑して立っていたが、それから私をとても優しく見詰めた。私が手を差し伸べると両手でそれを挟み、二言三言たどたどしく言った。


「行きましょう」と、私はもう一度、より断固とした口調で言った。今度は私が彼の前に立って進んだ。


「ジュヌヴィエーヴ……、ジュヌヴィエーヴ」と、私はつぶやいた。一歩毎に、そして階段の一段毎に、私は哀しい音節で自分を苦しめた……。ジュヌヴィエーヴ……、ジュヌヴィエーヴ……。それでも私は挫けずに顔を上げて進んだ。


 玄関でフィリップは私を追い越し、鉄門に向かって走ったが、召使いや従業員達に出会っても、もう無頓著だった。私は中庭を横切り、フィリップの前でしばらく立ち止まり、そしてこう言った。


さようなら(アデュー)、フィリップ」


さようなら(アデュー)」と、彼は言い返した。


 彼は乱暴に鉄門を閉め、私は鍵で錠を掛ける素っ気無い音を耳にした。


 私は振り返りもせずに人気(ひとけ)の無い通りを去って行った苦しみ愛情善良憐れみ嫉妬そして心を(すさ)ませたり服従させたり交互行って来た相反する本能云ったものは最早私の心には無くその代わりに何にも増して意思を決断べき時が来たと判断し意思を抱いて決断する人間新しくて大きな生まれていたそれは犠牲や諦め関わる事では無く正し必要だ自分が認識したものに対する男らし断固とした同意であり、たとえそれがどんなに残酷なものあったせよ、運命の判定対する尊重であった。過去は私の全ての喜び全ての幸福もろとも消え去ったさあ、これからは未来に向かって生きるだけだ。未来自分頼って来る者に対し無尽蔵の喜び幸福を約束してくれる


 私は勇ましく進んだ。眼に涙は無く、苦しみを直視しているかの様に、視線が定まっていた。そして、より一層の誇りと自尊心とを感じていた。


 それでも、心の奥底では尽きる事無く繰り返していた。


「ジュヌヴィエーヴ……、愛しい人……、僕のジュヌヴィエーヴ……」

 


                    (完)


[1]  古代の戦争では、敗軍の兵士や王が奴隷にされて連行された。