LF1『雄鶏と錨』亭37-1 | 左団扇のブログ

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    第三十七章


  清算 — チャンシーの大きな猫 — そして、乗合馬車

 

 

 朝が訪れ、約束の時刻にヘンリー・アシュウッド卿はホワイトフライアー街」で馬から降り、手綱を同行した馬丁に手渡した。

「さて」と、チャンシーの貸間がある荒れ果てた区域に入りながら考えた。「(いず)れにせよ、この件は手筈が整っている……、僕が絞首刑になる事はないが、とんでもない愚行をしてしまったせいで、その刑罰を受けるのは仕方が無いと思う気持ちも半分あるだが、まあ良いさ、簡単に忘れられぬ良い勉強になった。残りの事は今はどうでも構わない。破滅がどんな形で降り掛かろうが構わない……、幸運な事に、未だ体と魂を結び付けていられる」

 余り愉快では無い黙想をするのに立ち止まり、そして半ばつぶやく様に言った。

「僕は愚かだった……、夢の中を歩いていた様なものだ。世の中を幾らかは見て来た僕みたいな男が、あんな鬼婆にちょっかいを出しただなんて、考えるだけでうんざりする。まあ、結局の処、無償で知識が得られないと云うのは本当だ。もしも僕の修得が出費に比例するなら、今頃はソロモン王の様な賢人になっているはずだ」

 彼の呼び掛けに対し、ゴードン・チャンシー自身が玄関のドアを開けた。アシュウッドが部屋に入ると、チャンシーは慎重にドアの内側から錠を掛け、鍵をポケットにしまった。

「大事を取って用心した方が良いでしょう、ヘンリー卿」と、テーブルに向かって足を引きずりながらチャンシーが言った。まあまあ、用心に越した事はありますまい……、ねえ、ヘンリー卿」

「ええ、ええ、では、用件に取り掛かりましょう」と、椅子のある重厚な樅材のテーブルの端に急いで座りながら、若いアシュウッドが言い、ポケットから大きな革製の手帳を取り出した。「ここに……、借用証が置いてあるのですか」

「勿論……、ああ、おやおや、勿論ですとも」と、法廷弁護士が答えた。「保証書と訴訟委任状[1] 、まあこれは偽造文書ですがね……、それらは隣の部屋に、とても厳重にしまってありますよ……、ああ、本当ですとも」

 アシュウッドはチャンシーの態度や、言葉遣いや念を押す物言いに、はっきりとは言えないが、何か普通でない不気味なものがあると感じ、相手の顔を探る様にしばらく見詰めた。だが、法廷弁護士の方は引き出しの中をひっくり返して書類を見付けるのに大わらわだった。

「おや、どうしました、見付からないのですか」と、アシュウッドが苛々して訊ねた。

「気になさらずに、気になさらずに」と、チャンシーが答えた。「あなたがお金を清算なされば、保証書は十分間に合う様に手に入りますから心配御無用。でも、あなたが早く御自分の手に取り戻したいと願うのも無理はありません……、それでも大丈夫……、手に入りますから」

 アシュウッドは手帳を開き、ページをめくり始めた。

「結構です」と、彼は言った。「結構です。でも、静かに」と、少し顔色を変えて付け加えた。「隣の部屋で何か掻き回す様な音が聞こえます」

「ああ、おやおや、何でもありません、ただの猫ですよ」と、チャンシーが醜い笑いを浮かべて言い返した。

「お宅の猫はずいぶん重々しく歩きますね」と、アシュウッドが疑わしげに言った。

「そうなんですよ」と、チャンシーが言い返した。「重々しく歩きます。とても大きな猫でしてね、鉤爪が驚く程大きいんです。暗闇でも眼が見えます。素晴らしい猫です。鼠を仕留め損なった事はありません。そして、私は奴が眼力だけで枝から鳥をおびき寄せるのを見た事があります。素晴らしい猫です……、でも、お金の清算をなさって下さい、そうすれば、私は保証書の手続きをします」

 この奇妙な内容の話は、少なくとも同じ程度に奇妙な話し方で語られ、チャンシーは相手の意見や横槍を待つ事無しに、隣の部屋に入って行った。その足音が隣接する部屋を横切り、アシュウッドの耳に紙がカサカサ云う音が聞こえた。足音が引き返して来て、ドアが開けられたが、入って来てヘンリー・アシュウッド卿に対峙したのは、ゴードン・チャンシーではなく、ニコラス・ブラーデンだった。身体的な争いにおける個人的な恐怖など、若い准男爵に取っては未知のものであったが、今は全ての勇気、全ての力が卿を見捨て、彼には最も怖るべき者の出現を、死人(しびと)の様な蒼白の顔でぼんやりとした不快感を覚えながら見詰め、そして恐怖冷や汗を流していた。

 相手の卑劣漢は、冷笑としかめっ面と云う、ぞっとする組合せをその下品な顔に浮かべて腕組みしながら立ち、その態度に名状し難い歓喜を見せつつ、愕然として怯えている餌食に向かって、野蛮な、ほくそ笑む様な視線を投げ掛けていた。銅像の様に固まったまま、両者は数分間じっとしていた。

「ホー、ホー、ホー、怯えている様子だな、若いの」と、ブラーデンは馬の様な馬鹿笑いをして叫んだ。「まるで絞首索が首に巻かれている様な顔をしているぜ……、死刑執行人に襟を摑まれているみたいだ、全くな……、ホー、ホー、ホー」

 アシュウッドの血の気の無い唇が動きかけたが、言葉は出て来なかった。

「言葉を発するのは困難だ」と、ブラーデンが残忍な喜び方をして続けた。「死刑囚が最期の言葉を流暢に言えた(ため)しは無い……、喉が詰まりそうになるらしいな……、教誨師(きょうかいし)や死刑執行人の姿を見ると死刑囚はひどく気分が悪くなってしまうらしい……、それに棺桶はひどく不恰好で、群衆[2] が大勢いて騒がしく、死刑囚はどぎまぎしてしまうのさ……、ホー、ホー、ホー」

 アシュウッドは(ひたい)に手を当て、呆然とした恐怖の表情で見詰めた。

「おや、此の前の晩劇場にいた時の威勢はどうしたんだ」と、ブラーデンが続けた。「どう見たって、そんなに偉そうには見えない。何だか少し具合でも悪そうだ。私が一緒なのが嫌みたいだな……、ホー、ホー、ホー」

 相変わらずヘンリー卿は呆然として沈黙を保っていた。

「ホー、ホー、お前は絞首索の準備が出来て、絞首台用の板も鋸で切られたと考えているみたいだな」と、ブラーデンがまた話を始めた。「遂に苦境に立たされたと思っている様だが……、俺も同感だ、全くな」と、怒鳴りまくった。「何しろ、俺はお前の喉笛にしっかりロープを巻き付けていて、お前が一ヶ月も(とし)を取らない前に、きっとギャロウズ・ヒル[3] で、何も無い上で踊らせて見せるさ。聞こえたか、おい、ペテン師め。ええぃ、この前科者、名うての偽造犯、盗っ人、カラスの餌食[4] め……、今、勝ち札を握ってるのは誰かな」

「保証書は……、保証書は何処だ」と、辛うじて聞き取れる声でアシュウッドが言った。

「お前の大事な保証書が何処かだって、偽造犯、絞首台の晒し者よ」と、ブラーデンが狂喜して叫んだ。「お前さんの偽造保証書……、(おのれ)の首をへし折る事になる保証書……、一体何処にあるんだろうな。なあに、ここさ……、俺のズボンのポケットの中だ……、ここにそれがある。ここなら安全だと思うんじゃないかい……、絞首台の房飾り[5] さんよ」

 命に関わる証書[6] を取り戻そうとする本能的な衝動で、アシュウッドは剣を引き抜き、勝ち誇った野卑な迫害者に突進しようとした。しかし、ブラーデンはそれに対しても準備怠りが無かった。電光石火外套のポケットから拳銃を取り出し、その間にも、一、二歩急いで後ろに逃げ、臆病者の彼は死人の様に蒼ざめて振り返り、銃先を若者の胸に向けた。そして両者 はしばし身じろぎせずに、執念深い敵意を露わに立ち尽くしていた。


[1]  弁護士に依頼して、借金の回収を弁護士に任せる為のもの。

[2]  この当時は死刑執行は公開で行われていた。

[3]  「絞首刑の丘」の意。固有名詞と云う程のものではなく、絞首刑台を設置する為に人工に作られた低い台地と云った処。後の方の章には、レディ・ステュークリーの屋敷が近くにある、スティーヴンズ・グリーン内にあるとされている。これは歴史的事実でもある。次の「何も無い上で踊らせる」とは、絞首刑でぶら下げる事。

[4]  絞首刑の後、吊るされたまま晒し者になる罪人の事。

[5]  これも絞首刑でぶら下がる事を揶揄したもの。

[6]  チャンシーの口車に乗せられて、借金の保証書を偽造したが、この当時は文書偽造も死刑の罪状の一つだった。