LF1『雄鶏と錨』亭36 | 左団扇のブログ

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   第三十六章


  宝石、食器、馬、犬そして家族の肖像画に就いて — 及び約束の時間に就いて

 

 ほとんど狂乱と云った具合の状態で、ヘンリー・アシュウッド卿はモーリー・コートで馬から飛び降りた。彼が絶対に大丈夫と頼みの綱にしていた財源は、完全に期待外れのものになった。最後の賭けに打って出たものの負けてしまい、破産と云う最も恐るべき局面が彼の眼前に迫っていた。

 無闇に飛ばして来たせいで、踵から頭まで泥が跳ね返っており、顔は死人の様に蒼ざめ、服は乱れたままで、古い大きな客間に入ったが、ほとんど自分が何をしているのか分からないまま、ドアを乱暴に閉め、差し錠を掛けた。頭がひどくぐらぐらしていて、床がまるで海の様にうねったり揺れたりしていた。レース飾りの付いた帽子と、(ダブリンの半数の伊達男達の羨望と称賛の的である)見事な(かつら)床に投げ捨て、刈り上げたむき出しのこめかみ両手でがっちり摑み、歯を食いしばり、絶望を絵に描いた様な雰囲気を漂わせながら、部屋の中央に立っていた。んな状態だった彼、ドアを開けようとする何者かに拠って我に返った。

「誰だ」と、まるで警官の一団が突入して来ると思ったかの様に、跳ね退いて、剣を抜き放ちながら叫んだ。

 その当事者が誰であったにせよ、入って来ようとした試みは二度と繰り返されなかった。

「僕は一体どうしたんだろう……、頭がおかしくなったのか」と、ぞっとする様なためらいの後、剣を部屋の向こう端に投げ捨てて、ヘンリーは言った。「そこに転がっていろ。僕は時機を逸してしまった……、出来たかも知れないのに……、ゴルディオスの結び目[1] を断ち切れば、万事解決だった。どうやって僕はここに来たのだろう」

 彼は部屋を見回し、やっと自分が何処に立っているか気付いた。

「くそっ、この肖像画達め」と、彼はぶつぶつ言った。「全部生きていて……、僕の方に向かって来る」。ヘンリーは椅子に身を投げ出し、両眼を指で押さえた。「息が出来やしない……、ここは息が詰まる。ああ、神よ、気が狂いそうだ」。窓を開けて、まるで竃口(かまどぐち)に立っているかの様に(あえ)いだ。

「何もかもが熱く奇妙で物狂おしくさせる……、堪え難い……、頭も心も破裂しそうだ……、まるで地獄だ」

 紛れも無く狂気に近い興奮状態で、開いた窓辺に立っていた。その甚だしい興奮が鎮まり、思考や回想が出来る様になるまでには、かなりの時間を要した。やっと窓を閉め、部屋を端から端まで長く重たい足取りで歩き出した。花が生けられた陶器の鉢が載った、窓間(まどあい)テーブル[2] の脇で立ち止まり、鉢に両手を入れて水を頭や顔に浴びせ掛けた。

「ふうむ……、ふうむ。僕はこんな逆境に負けたりはしなかったものだ」と、彼は言った。「考えを集中しさえすれば、あのひどく忌々しい保証書位どうにか支払えるさ……、それを完済する手段は未だあるに違い無い。それさえ払い終えたなら、破滅がどんな形で来ようが平気だ。さてと、家具だ。それから、肖像画がある……、その内の幾つかは価値のあるものだ……、とても価値がある。それから、馬や猟犬達だ。そして更に……、そうだ、食器類[3] がある。全く、やれやれ……、僕は一体何を夢見ていたのだ。食器だけでも半分は何とかなる。それから……、何がある。さてと、全部で六千四百五十ボンドだ……、他に何がある。支払いに使えるものは他に無いだろうか。食器……、家具……、肖像画……、そうだ、何て馬鹿なんだ、一時間も考えてどうして思い付かなかったんだ……、妹の宝石があった……、全く、これで全て解決する……、どうして今まで思い付かなかったのか。まあ、これで結構だ……、もしも前に思い付いていたなら、とっくの前に消え去ってしまっていただろう。まあ、まあ、これでまた息が出来る……、とにかく、これで絞首刑の縄から首を外す事が出来た[4] 。今直ぐクレイヴンを呼びにやるとしよう。あいつは取引契約が好きで、明日の日暮れ前に一つ決めてしまうだろう。そうなったら、あの忌々しい保証書は灰になってしまう。メアリーの宝石は二千ポンドの価値がある。さて、クレイヴンにはそれを千五百ポンドで引き取らせよう。そして残りは肖像画、食器、家具、猟犬、そして馬、これで奴は交渉する。あの宝石類が僕を救った……、絞首刑執行人を抱き込んだと云った処だ。処刑さえ免れたら、何時どうやって死のうが構わない。あと一ヶ月もしない内に、十中八九僕は頭を銃で撃ち抜いて自殺する。太く短く生きるのがアシュウッド家の家訓だ。僕の浮かれ騒ぎはすっかり終わり、そろそろ引き際を考える時が来た。お前は十分食べ(サティス・エディスティ)十分飲み(サティス・ビピスティ)十分遊んだ(サティス・ルシスティ)今は去る時だ(テンプス・エスト・ティビ・アビーレ)[5] 、何を嘆く事があろう。今為すべき務めがある……、だったらそれをやろう……、男らしくやってやろう……、生きている間は元気に行こう」

 クレイヴンは取引契約を気に入り、ヘンリー・アシュウッド卿に翌日正午にお金を滞り無く渡すと約束し、卿は直ぐにこの有能な代理人に別れの挨拶をし、次の様な短い書付をゴードン・チャンシー弁護士に書いた。


拝啓

もし御都合が宜しければ、明日一時に、特別の用件でお目にかかりたいと思います。私に弁済の用意がある、例の証券を御用意願えればとても有難く存じます。           

敬具

            ヘンリー・アシュウッド

 

「これで」と、半ば身震いしつつ、この書状を折り畳んで封をし、ヘンリー卿は言った。「ともかく、絞首刑から逃れられそうだ。明日の晩は、破滅没落を無視して安眠が出来る。確かに、僕には休息が必要だ。署名をして、あの呪われた保証書を手放して以来、僕の全存在は、寝ても覚めても、忌まわしく恐ろしい悪夢に過ぎなかった。今この瞬間に、あの忌々しい証書の切れ端が手に入るのなら、喜んで手足の一本でもくれてやる。だが辛抱だ、辛抱だ……、あと一晩……、たった一晩……、熱にうかされ苦しくてぞっとする悪夢の夜……、最後の夜を過ごせば……、それで……、また再び自分の思う通りに出来る……、自分の人格も安全もまた僕の手中に収められる……、そして、再び以前の様にそれらを危険にさらしたりすれば、僕は死んでも構わない……、あと一晩だけだ……、ああ……、朝になれば良いのに」



[1]  ゴルディオスは古代フリギアの王。彼が戦車の轅(ながえ。馬車等の、前に延びた二本の棒)と軛(くびき。馬や牛を繋ぐ横木。ここでは牛)とを結んだ紐の結び目は複雑で誰も解けず、それを解いた者がアジアの王になると彼は予言した。後に、アレクサンダー大王がそれを剣で断ち切り、予言通りアジアを征服した。

[2]  窓と窓の間で、壁に懸けた鏡の下に置く、小さなテーブル。

[3]  ここでは、銀製の皿等。

[4]  これは大げさではなく、当時のイギリスやその支配下のアイルランドでは、今日では有期懲役刑に相当するものでも死罪になった。強盗、恐喝、有価証券・紙幣偽造、そして借金の踏み倒し等。その為、「血の法典(bloody code)と呼ばれた。

[5]  ラテン語。