LF1『雄鶏と錨』亭33 | 左団扇のブログ

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     第三十三章


  ヘンリー・アシュウッド卿がどんな具合に賭博を行いどんな具合に企み事を行ったかに就いて — そしてゴードン・チャンシーからの突然の呼び出しに就いて

 ヘンリー・アシュウッドは遺憾な事に、ゴードン・チャンシーから申し出のあった寛大な処置を活用しようと躍起になっていた。眼の前に迫った困窮を以ってしても、彼の心をよぎったかも知れない思慮分別や節約の考えは消えてしまい、新たな資金を得ては、新たな欲求と更なる途方も無い浪費が生じた。今や賭博への情熱は歯止めが効かなくなっていて、ほとんど一日の中断も無い程だった。時には、賭博運が盛り返し、信じ難い程の金額が彼の手に流れ込んだが、それも浪費散財で雲散霧消する定めであり、一時的に補充される資金に比べ、浪費の方は、やたらと放埓に、ずっと無謀に、増加して行った。思わせぶりな様子を幾らか見せた後、とうとう(しま)いには、移り気な幸運の女神も彼を見捨てた。毎晩毎晩、新たなそしてより厳しい災難が降りかかった。そしてこの幸運の逆転には、より放埓でより向こう見ずな無謀と、ますます多額の危険を招きかねない、際限無い放蕩と云う、切っても切れない付き物が伴った。これはまるで不運の犠牲者が、こうした必死の抵抗で気まぐれな迫害者を、脅したり痛め付けたりしようとしているかの様だった。未だ現金化していない利用可能な担保は、もうヘンリーにはほとんど残っておらず、今や彼も破滅の非情な締め付けが、自分に迫っている事をまじまじと感じ始めていた。

 彼は変わった、その精神も外見も変わった。心の奥底の熱狂の消えない炎が、彼の心臓と脳を蝕んだ。口で言い表せない恐怖が休息を奪い、夜も昼も彼を悩ませた。

「お兄様」と、モーリー・コートの古びた居間で、唇を固く結び、やつれた顔で、床をじっと見詰めているヘンリーに対し、片手で優しくその首を撫で、もう一方の手で兄の手を握りながら、メアリー・アシュウッドが言った。「愛しいお兄様、すっかり変わってしまったのね。病気なのよ。何か大きな悩みが心に重くのしかかっているのに、どうして御自分の心配や悲しみを私に隠すのですか。悲しみの理由が何であれ、慰めて差し上げたいです。全部教えて下さい、どうして悲痛の原因を私に隠すのですか。今ではお互いに心配し合えるのは、この世に二人きりじゃないですか」。そしてこう言いながらも、彼女の眼には涙が溢れた。

「僕が何に心を痛めているか知りたいのかい」と、少し沈黙した後、蒼白な顔の険しく見開かれた眼で、メアリーの顔をじっと見詰めながら、ヘンリーが言った。また暫く沈黙を続けた後、強い語気で言った……、「破産だ」

「何ですって、お兄様、何があったのです」と、兄の手をもっと優しく握りながら、哀れな娘が訊ねた。

「だから、僕達は破産したのだ……、二人共。僕は全てを失った。僕達は乞食同然だ」と、ヘンリーは答えた。「自分の物と呼べるものは何も無い」と、少し間を置いて彼は急に再び言い放った。「あの古い土地、インチャーデン[1] を除いてはね。でもほとんど無価値だ……、沼地、岩石、低木の茂み、古い家畜小屋しか無い……、全く無価値だ。僕達は破産した……、素寒貧(すかんぴん)だ……、全くの話」

「ああ、お兄様、未だ私達にはあの懐かしい場所があって嬉しいわ。ああ、都落ちしてあそこで一緒に暮らしましょう、静かな谷や、年ふりた緑の森に囲まれて。だって、あの心地良い木陰の中で私はこれからもう味わえない程の幸福な時間を味わいましたから。晴れた夏の日にまたあそこを散歩して、ずっと昔に聞いた、鳥のさえずりや、木の葉の擦れる音、曲がりくねった澄んだ小川のせせらぎを、また耳にしたいです。ここでは考えただけでも胸が張り裂けそうになる事でも、あそこなら沢山の事を考えられそうです。お兄様、あなたと何時も一緒に暮らし、二人共直ぐにこの悲しい世の中でも幸福になれるでしょう」

 彼女は両手を兄の首に回し、涙を速く静かに流しながら、やつれた蒼白い頰に何度もキスをした。

「ところで」と、ヘンリーが急に立ち上がり、懐中時計を見ながら言った。「街に行ってハイエナ連中……、僕に牙をむいた高利貸しに会いに行かなくちゃならない。刑務所には出来るだけ入りたくないからね」。そして、嬉しそうではない笑みを浮かべ、大股で部屋から出て行った。

 彼が馬で街に乗り込む間、以前のレディ・ステュークリーに関する計画が、何度も彼の脳裏に浮かんだ。

「結局の処、それが唯一の救いの道だ」と、彼は思った。「五十回もそう心に決めたが、どう云う訳か、くそっ、どうも踏み切れなかった。あの女は二十五年位生きるだろうが、財産の管理はその命と同じ位容易に手放すだろう。彼女が生きている間はその家来に徹しよう……、奴隷だ。綺麗事を言っても始まらない、こっちには一シリングも自由にならないが、彼女の好きにさせておこう。我慢だ……、我慢するんだ、ヘンリー・アシュウッド、遅かれ早かれ死は訪れる、その時お前の祝典が始まるのさ」

 こんな思いを素早く頭の中で駆け巡らせながら、レディ・ベティー・ステュークリーの玄関先で馬を停めた。

 広いホールを抜け、堂々とした階段を登りながら考えた、「まあ良いさ、夫人と一緒でも、刑務所よりはマシだ」

 応接間にはレディ・ステュークリー、エミリー・コープランドそれにアスペンリー卿がいた。後の二人はどうやら人目も憚らずイチャついている様子で、夫人はスピネット[2] で曲を奏でていた。

 ヘンリー卿が入って行くと、このこぢんまりとしたパーテイーに眼に見える程の興奮が生まれた。レディ・ステュークリーはうっとりとはにかんで見せ、そわそわしていた。エミリー・コープランドは愛想良く歓迎の笑みを浮かべたが、それは自分とこの二枚目の従兄がお互いに完全に理解し合っていて、二人共結婚は問題外だと良く分かっていても、互いに、いわゆる恋心を抱いていたからだ。そしてエミリーは、ヘンリー卿のレディ・ステュークリーに対する著しい献身ぶりを、女性らしい気まぐれな嫉妬心で、秘かに、また、自分でもほとんど気付かぬまま、恨みがましく思っていたが、それでも、それと同時に、彼女の心はヘンリー・アシュウッドに対し、軽薄で単に浮ついた気持ち以上の好意を抱いた事はかつて無かった。一同の中で唯一アスペンリー卿がかなりまごついていたが、それも無理からぬ処で、自分とヘンリー・アシュウッドがどの様な条件で顔を合わせるか……、この若い紳士が普段通りに握手をしてくれるか、それとも即座にこちらの首を絞めて来るか、少しも見当が付かなかったからだ。だが、アシュウッドはモーリー・コートでの気まずい出来事に、何か要らない騒ぎ立てをするには余りにも世慣れていた。したがって、この小柄な貴族をよそよそしくもゆったりとした儀礼で迎え、そして背を向け、恋にのぼせた未亡人と直ぐに、生き生きとして幾分愛情の籠もった会話をし始めた。やがて立ち上がって別れを告げた彼に対する、夫人の最後の言葉はこんなものだった。

「明日の晩をお忘れなく、ヘンリー卿、早目に来て下さると期待していますわ。従妹のエミリーにも約束しましたでしょう、ねえ、エミリー。もし遅刻なされた場合は、最低一週間はきっと恨みますからね。私は独裁者ですから、謀反は許しませんよ。私はここではちょっとした女王であり、専制君主です。だから、悪い気を起こさない方が良いですわよ」

 ここで彼女は指を一本立て、自分の崇拝者に向かって脅す様に、それをおどけて振って見せた。しかしながら、レディ・ステュークリーには彼の時間厳守を疑う理由はほとんど無かった。もしも彼女が相手の実情を知っていたなら、ヘンリー・アシュウッド卿に取って自分は、毎日の食べ物と同じ位必要なものだと分かっていただろうから。

 したがって、翌晩、ヘンリー・アシュウッド卿はレディ・ステュークリーの応接間の、最も陽気な客の一人になっていた。彼の覚悟は定まっていた。豪華な部屋やその贅沢な調度品の数々を、既に自分のものであるかの様に眺め回した。おしゃべりをする者、トランプをする者、優雅なメヌエットを踊る者がおり、そして、決まった娯しみが無くグループからグループに移り、皆んなのくだらぬ事を順番に分かち合う者もいた。アシュウッドは無論専ら魅力的な女主人に専念していた。夫人は満面に笑みを浮かべ、溜息を()はにかんでヘンリーはあらん限り優しさと情熱見せた要するにその瞬間望んでいたのは即座に自分を受け入れてくれる様に相手に頼む機会だったそうして愛想良く振舞っていると、若い准男爵召使いに呼び止められ、うやうやしお辞儀銀の盆を差し出されその上には小さひどく汚れたしわくちゃの走り書き載っていたアシュウッドはそれに記された宛名直ぐに誰の筆跡か分かり人目に付く場所からそれを摑み取りチョッキのポケットに突っ込んだ

「使いの者が御返事を待っています」と、召使いが小声で言った。

「何処だね」

「玄関ホールでお待ちしています」

「それでは直ぐに会おう……、そう伝えてくれ給え」と、アシュウッドが言った。レディ・ステュークリーの方を向いて優しく慇懃な言葉を二言三言語り、作り笑いをし、後ろ髪を引かれる様な表情を浮かべた後、部屋から抜け出した。

「それで、一体何を書いて来たんだろう」と、ロビーの沢山灯りが降り注いでいる真下に身を置いて彼はつぶやき、しわくちゃの走り書きを急いで取り出した。それには次の様に記されていた。

ヘンリー卿へ

悪い知らせがあります、これ以上無い程悪いものです。何処にいらしても、何をしておいででも、これを受け取られたら、直ちに私の所においで下さい。さもないと、あなたは明日逮捕されるでしょう。ですから直ちにおいで下さい。ボビー[3] ・マッカークがこれを届けますので、彼に付いて来れば、今私が居る所に御案内出来るでしょう。私はあなたのお役に立ちたいと願っていますし、人間()せる(わざ)れが可能ならば、あなたをこの窮地に巻き込まれない様にしたいと願っています。           

敬具

             ゴードン・チャンシー

御注意を(ノータ・ベネ)! これはあの忌々しい手形関わるものです、どうか急いでおいで下さい

 アシュウッドはこの書き付けを、さして恨みがましい思いもせずに一瞥した。それを可能な限り細かくちぎり、玄関ホールまで降りると、そこにはあの尊大なマッカークが、相変わらず顎を突き上げ、片腕を腰に当てて気ままに闊歩しながら、何か勇ましいメロディを口笛で奏でていた。

「書き付けを持って来てくれたのかね」と、アシュウッドが訊ねた。

「光栄にもそうさせていただきました」と、マッカークが上品ぶって答えた。「准男爵ヘンリー・アシュウッド卿ではございませんか。(わたくし)めはマッカークロバート・マッカークございます。ヘンリーお近付きになれた光栄お手にキスさせて戴きます

「チャンシー氏は部屋においでかね」と、アシュウッドが訊ねたが、彼にはマッカークが礼儀正しいと思って語った言葉を聞いていた様子は無かった。

「おや、いいえ」と、小柄な男が答えた。「我々の友人であるチャンシーは、現在シップ街[4] の賭博酒場『オールド・セイント・コルムキル[5] 』で、瓶ビールをがぶ飲みしながら、安い()タバコ[6] を吹かしています。ヘンリー卿、ダブリンの他の店と同様に居心地が良くて、とても安いです、全くの格安です。ウェールズ風トースト[7] が一ペニーです。黒プディング[8] 、パン一切れ、それにポロネギ三個で、幾らだとお思いですか」

「チャンシー氏が何処にいるかはともかく、どうか私を氏の所に案内して下さい」と、アシュウッドが冷ややかに言った。「付いて行くので……、さあどうぞ」

「それでは、ヘンリー卿、おっしゃる通りにします……、おっしゃる通りに……、お供出来るのは喜ばしい事です、ヘンリー卿」と、ゴマすりのボビー・マッカークが叫んだ。おしゃべりな案内人の後を、(かたく)なに沈黙をりながら付いて行憂鬱にだらだらと歩いたヘンリー・アシュウッドは人生で初めてただしこれが最後とはならないのだが、オールド・セイント・コルムキル』屋根の下に辿り着い



[1]  不詳。架空の地名か?

[2]  ピアノの前身であるチェンバロの一種で、小型のもの。16〜18世紀のヨーロッパ、特にイギリスで流行した。(再掲)

[3]  本名はロバート。ボビーはその愛称。

[4]  Ship Street)。シップ・ストリート・グレート(時代に拠って、ビッグ・シップ・ストリートとかグレート・シップ・ストリートとも呼ばれた)と、シップ・ストリート・リトル(これも、リトル・シップ・ストリートとも)があり、両者はダブリン城の南西30メートル位の所で交わっている。また、1733年頃には両者を合わせてシップ・ストリートと呼んだらしい。




 

[5]  (521−597)。聖コルンバとも。アイルランドの聖人で、各地に修道院を建てた。

[6]  細くねじって巻いたタバコ。その形から、豚の尻尾(pigtail)と呼ぶ。

[7]  ビール、牛乳、チーズ、香辛料等を溶かし、トーストやクラッカーに塗ったもの。

[8]  豚肉、乾燥させた豚の血、獣脂等が入ったソーセージ。