212熱狂(14-2) | 左団扇のブログ

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……ああ、焼ける様な日々。耐え難い想いをしつつ過ごした、最後の救いの機会が失われ行く暗がりの時間に、私は錯乱にちぎられた、儚い数分を繫ぎ合わせようとしてへとへとになっていた。ジュヌヴィエーヴの事をとっくりと考え、母への新たな質問を準備する為に、あらん限りの正気を集めた。目標に向かってたゆまず進んだ、よろめいても立ち直り、決してくじける事無く。そうして私の問いは痛々しくも次々と繋がって行き、小声でそれらを発しながら、その一方で、混乱した頭の中では、漏れ落ちそうな考えを何とか保とうとしていた。

「お母さん、ジュヌヴィエーヴは旅立たない事に決めたのですか。あなたにそれを約束したのですか、それとも、僕がもう一度試みたら付いて来てくれるでしょうかね」


 無関心を装った私の態度の下にどれ程の苦悶があった事か。母は全く返事をしなかった。玉の様な汗が私の体を濡らした。


「何故言い淀むんですか、物事はきちんと明らかにしなくてはダメです、もう決定的なんですね」

 

 すると母は断固とした口調でこう言った。


「いいえ、ジュヌヴィエーヴは自分の将来に心を傾けているけれど、それでも彼女とはお前が望む様に出来るかも知れないわ……、お前が望めば、付いて来るでしょう」


 本当だろうか[1] 。母は憐れみから僕を騙しているのではないだろうか。二日間、母の言葉を夢中になって考え、凡ゆる角度から検討し、自分も同調しようとした。そして(ほの)めかす様に母に言った。


「僕が彼女の気持ちに付け入るのは心配じゃないですか」


「何の事を言ってるの、パスカル(母がこんな風に言うのは、一昨日から執拗に同じ考えをほじくり回していた私の様な事が無かったからだ)」


「この前、ジュヌヴィエーヴに就いておっしゃった事ですよ」


だったら心配していません、お前が計画をあきらめると確信しているし、私は率直に行動してお前の分別に訴えたいと思っています。それにお前から発せられない解決策は一時しのぎに過ぎないでしょう。最終的な決断を下すのはお前です」


「もしも僕の決断が彼女と駆け落ちすると云うものだったら」


「結構よ、駆け落ちしなさい、私はもう反対しないわ」


 母は私を欺いてはいないと確信した。それに、母の誠実は実に見上げたものだと思ったので、彼女の手にキスをした。私にしてくれた事に対する感謝ではなく、称賛と敬意を示す為のものだった。


 ……ともあれ、体の具合が良くなって来た。母は私の眼差しに熱が籠って来ても、対話を途中で打ち切る事がなくなり、私は中断した所から再開した。


「もう反対しないって、どうしてそんな事が言えるのですか」


 母は私を注意深く見た。私はじっとしていた。母の返事はこうだった。


私はたっぷり苦しんだわ」


「ええ、今日僕があなたの為に苦しんだ位、あなたはこれまで僕の為に苦しんで来ました」


「ああ、お前を恨んじゃいないわ、ジュヌヴィエーヴを引き留めた事でお前が私を恨んでいないのと同様にね。私達は二人共出来る限りの事をしただけ」


「それなら、僕にした事をまたするでしょう、それは避け難い事です」


「いいえ、パスカル、お前は自由よ、好きにして良いと約束するわ」


「どうしてです」


「私がすべき務めには限界があり、お前の権利が始まる時点で私の務めが終わるからよ」

 

「僕の権利ですって」


「ええ、そんな言い方をするのが私だし、お前の恋愛に権利を与えるのも私です。私の行動は変わっていないのに、こんな風に納得したのは随分久しぶりです。お前の身勝手や俗な情熱を責めなくなってから久しいけれど、お前をとりこにする、熟慮の末の道理に合わない感情と云うものがあるのが分かりました。お前の行動の動機を理解した日から、もう私はそれが狂人や犯罪者の行動の様には考えなくなりました。私を支配する信条やお前が人から教わった信条、それらに反する行動をお前がすればする程、また、私も知っている、お前の繊細な心、優しくて実際には内気な本性に反する行動をお前がすればする程、この私は何か……、自分でも分からない何かの印象を持つ様になったわ……。ジュヌヴィエーヴと無関係な所では規則正しかったお前の生活、地中海への旅行、そこに留まるのに必要だった精神力、これら全てに困惑させられました。そして、今度の駆け落ち計画で私も悟ったわ、恋愛に関して眼から鱗が落ちました」


 母の話し声がくぐもり、少なくとも私が思うに、その顔が赤くなった様だった。


「何しろ、私は中産階級の暮らしをして来て、お前のお父さんを極く素朴に愛したけれど、それが本当に恋愛と呼べるものだったのかどうか。お前のものとは違うと分かっているわ……。恋愛に関しては小説の類で知っていましたが、それはせいぜい私達とは異なった世界の人達、特別な人種にだけ許されたものだと思っていました。でも、先日の朝、ジュヌヴィエーヴに会った時、私がその成長を見守って来たジュヌヴィエーヴに会った時……。ああ、顔色が死者の様に真っ青で、不安な気持ちになりながら駆け落ちの準備をする間、彼女は立っていられず、それでも自分の中にしっかりと頑張る力を見せていたわ。私がお前の名前を口に出す度に喜びで打ち震えていました……。そして、駅で事情を知った時のお前の表情……、お前の悲嘆、まるで殉教者の様な様子……」


 私が座る肘掛け椅子に、顔を輝かせながら身を屈め、母は深い感情を籠めて語った。その姿は息子の行動に評価を下す母親と云うよりかは、ものを理解したり、記憶したりする女友達に近く、その心は恐らく少し憂愁のヴェールで覆われている様子だった。


 母はささやく様に言った。


そう、そこには何か神聖なものが、特定の場合や特定の障害に対して抵抗する権利があります。人が大事にすべきもの、それは幸福です」


「それは何よりも第一です、お母さん、だって全てに優るものだから」


「ええ、ええ、私もお前を自由にさせます。争いを続けていたら、私の務めを超えてしまうでしょうから」


「では、お母さん、ジュヌヴィエーヴを連れて行く事を許してもらえますか」


「そんな事は起こらないわ、パスカル、お前が自分であきらめるわ」


「あきらめるですって、どうして」


「もう終わった事だからよ」


 何も言わずにうなだれてしまった事を覚えている。ああ、それがもう終わった事を私は分かっていなかったのか、あの事態の急変がもう年貢の納め時だと分かっていなかったのだろうか。その日の美しい青空や、開いた窓から入る空気の香りや、広場から登るウルシの木[2] の強烈な匂いも覚えている。ああ、それらの素敵な感覚も今となってはひどく虚しい。


 母は更に念を押す様に言った。


「お前が愛する様なやり方で、ジュヌヴィエーヴはお前を愛していないのだから、お前はあきらめる事になるわ。同じ位愛してはいるけれど、そのやり方は違っていて、お前には無い、ためらいや、良心の呵責や、遠慮した気持ちや、不安を抱いています。去って行くのに当たって、お前は自分を何一つ犠牲にはしませんし、それどころか、
そもそもお前は自立生活に向いていて、先入観を超越して生きられるのだから、自分の心に従うだけの話です。ジュヌヴィエーヴの場合はそうは行きません。私同様中産階級の出で、お前がけしかければ、一時的に真の本性から逃れて、お前の導く所に付いて行く事が出来るでしょうけど、実際はずっと同じ先入観に縛られ続ける事でしょう。もし駆け落ちするにしても、それは自由に、事情を心得てするのではなく、衝動に拠って、お前の権限に服従し、お前の苦悩を心配し、最終的には強制されて付いて行くのです。過度の苦悩や愛情の高まりから、初めてそれを無視するのならば許されます。でも、それを繰り返すのは罪な事です」


「でも、お母さん……」


「お前の良心に問い掛けてみなさい、それはお前の眼の前でお前の中に作られた良心、それは以前私が馬鹿にし、今は敬意を払う準備のある良心です。私がお前の私に対する務めや、ジュヌヴィエーヴの夫に対する務めを持ち出しているのではない事や、私がかつて無い程にその価値を信じている、家族や礼節や宗教や社会に対する全ての務めを持ち出しているのでもない事を、しっかり心に留めておきなさい。いいえ、私はただお前の視点に立って考えているだけ。お前に自分自身に対し全ての権利があるのは良しとしましょう。でもジュヌヴィエーヴに対しても全ての権利があるのかい。彼女の真の本性を犠牲にさせる権利がお前にあるの。彼女の意思に反して連れ去る権利がありますか」


「彼女の意思に反してですって」


「そうよ、意思に反してね、それを試すのは簡単な事です。お前の計画をあきらめなさい、それでもジュヌヴィエーヴが出て行こうとお前に頼むかどうか見るのです。更に言えば、彼女を見放して御覧、そうすれば請け合っても良いけど、彼女はお前にまた会おうとして一歩たりとも足を踏み出しはしないでしょう。何処かの片隅で泣きながら待ち続けるでしょうし、ひどく不幸になるでしょうが、そこには彼女の過去があります。教育、習慣、本能や嗜好のセンスと云ったものです。


「それらを振り払うのが僕じゃないのですか」


「とんでもない、それらを変えられない事は良く分かっているでしょうし、お前が同じ人生を送る様に作られている訳ではない事も分かっているでしょう」


「人はお互いを愛しているなら、何時も、同じ人生を歩むのに向いているものです」


「愛し合っている間はそうでしょう、でもその後は。お前は何も無かったかの様に、同じ道を進むでしょう……、ではジュヌヴィエーヴはどうなるの」


「僕はずっと彼女を愛し続けます」


「お前の性格なら、ずっと愛し続けるには未だ年齢が若いわ」


「ああ、お母さん」と、私は言った。「僕はいっそ何もかも失い何も出来なくなった方がマシです。あなたは僕に希望を与えてくれ、僕の分別や良心に就いて語ってくれましたね。今の僕はそれらに耳を傾ける状態にあるでしょうか」


「お前の存在が危うい瞬間にそれらに耳を傾けないなら、一体何時耳を傾けるんだい」


「僕にはそれらに従う気力がありません」


「逆らう気力だって無いでしょう」



[1]  原文では引用文を示す印(「—ティレ)が付いているが、内容からすればパスカルの独白なので、地の文に訳す。

[2]  東アジア原産で、フランス語ではvernis du Japon、英語ではJapanese (または Chinese) lacquerと言う。