212熱狂(14-3) | 左団扇のブログ

左団扇のブログ

ブログの説明を入力します。

 母の言う事は実に正しく、その公正ぶりは何とも見事だった。私の中の最善のものに訴え掛ける事で、彼女は決断をさせると云う気高い動機で、私を煙に巻こうとしていたのではなかろうか。理性、良心。ああ、もし私が屈服するとしたら、その理由を説明するのに根負けだと言えば十分ではなかっただろうか。母にそう言うと、こう反論された。


「お前は自信が無さ過ぎよ、パスカル。お前が屈服するとしたら、それは一時的な落胆が原因ではなく、義務感からよ。お前はこの言葉にたじろぐの、義務感に対して屈服する事が恥ずかしいのかい」


 母は自分自身を掻き立てた献身の情熱を私に伝えようとしたが、私の心は血を流していて、犠牲に同意するには余りに私は傷付いていた。


「お母さん、僕がジュヌヴィエーヴと去って行ったら、どうしますか」


「お前が独りで行こうがジュヌヴィエーヴと行こうが、或いはここに残ろうが、私が決めた最終決定に変化はありません。私はサン=ジョルを離れます」


「サン=ジョルを離れるって……、この夏の間ですか」


「永久によ」


「永久にですって」
 

 私の心を動かす為の方便なのか、それとも孤独から来る私の悲痛を和らげようとする願望だったのか。全く理解出来なかった。


「だって、パスカル、人は私をペスト患者の様に扱い、ほとんど挨拶もしないし、大多数の女性は私に顔を背け、女友達ですら
私と一緒にいるのを見られまいとするし、私の訪問に対しお返しの答礼訪問をしてくれる人もいません。詰まる処、これは毎日屈辱と侮辱の小競り合いをしている様なもので、お前にはこれが我慢出来る事だと思うのかい。だって、独りで平穏に暮らすだけじゃ不十分で、何と言うか、皆んなからの尊敬が必要だし、こんな憎悪と軽蔑の環境ではもうこれ以上暮らせません。不祥事だらけで、人がひどく私達にかかずらっていて、通りを歩けば嘲りの対象みたいで顔は赤く汗まみれになるし、店の店主達に対しては卑屈になり、何処にいても自分が余計な存在だからと何時も謝まっている様です……。ああ、ダメ、もう終わり、無理だわ……」


 私は必死に母を抱き締め、こう言った。


「黙って、可哀想なお母さん、あなたは僕の心を引き裂きます。でも、僕が行くかどうかは僕次第です……、ええ、僕はジュヌヴィエーヴを諦めます、あなたに誓います……、でも僕は出て行きます……、僕が去れば全てが収まるでしょう、そしてあなたも落ち着いて暮らせます」


「お前が出て行っても、何も収まらないし、世間は寛容にならないし、私達三人はもう人から受け入れられない存在です。だったら、どうして彼等はそう口に出さないのでしょう。私の方も同じ、もう彼等は要りません。この方面に関しても、私には色々と分かった事があります。お前を私が責めていた時、私は人々がお前に向ける執拗さにうんざりし、彼等の憤慨の中にはしばしば偽善があるのを見て来ました。お前の事を批判するのは良いとしても、彼等にはお前が本当にしたいと思っている事を知る義務は無く、自分達が見たつもりのものでお前を判断します……。でも、お前の事を公然と非難して来たこの私を、何の理由で彼等は責めるのでしょう。何故私を攻撃し、何故匿名の手紙をお前の妹に送るのでしょう。本当に卑劣です」
 

 母はこう言ったが、彼女は自分の崇敬の念に対しとても厳格でとても頑固だった。母と張り合う為に、私も彼女を悲しませて来た自分の考えを捨て、私のとは異なる彼女の信念に従いたい気持ちになった。あんな風に語るとは、どれだけ母が苦しんでいた事だろうか。私は気高く冷静な様子の彼女を見て来たので、これにはすっかり面食らった。母は以前には用いた事が無い新しい言葉で自分の気持ちを表した。その心は開かれ、知性は拡大していた。ああ、より容易なより明瞭なものに先に到達するのは、私達二人の内のどちらだろうか。


あなたの人生が滅茶苦茶になり」と、私は母に言った。「今まで暮らして来た街を離れ、あなたは過去の全てと(たもと)を分かとうとしています。僕はあなたに随分悪い事をして来ました。それでも僕は自分に罪があるとは思いません」


「人は悪い事をしても罪に問われない事があるわ。お前は決して卑劣な事に従って来た訳ではないし、何時も自分に対して誠実で、真摯に人を愛しただけで、意に反して、或いは、知らぬ間に人を傷付けたりする事もありませんでした。お前には慢心も悪意も無く、誠実に自分の間違いを追求し、気(おく)れせずにそれを打ち明けます。パスカル、私の事で後悔する必要はありません、私達二人の運命が互いに食い違っていただけです。その内の強い方が勝っただけ、私は泣き言を言いません。同様に、お前が人々の怒りを買ったとしても、それはお前の落ち度と云うよりかは、お前が生まれた環境の落ち度です。とても知的で、地方都市の偏狭な考えにひどく反抗的な人間がここに住んで、世論を顰蹙(ひんしゅく)させずにはいられないと言う訳ではないけれど、その時には人と交わらずに距離を置いてらすか、もし人と交わるなら口を閉ざし猫を被っていなければなりません。それはお前の本性にそぐわない事でした。お前は何時でもありのままの自分を見せたがり、自分の考えを語りたがり、自分の熱狂を凡ゆる手段を使って露わにしたがります。でも、地方都市は熱狂とは相容れないものであり熱狂を場違いで、馬鹿げ危険なものだと考えます。それにお前自分の独立性考えだけでなく、行動でも示して来ました。心の底から愛し、自分も愛されていると信じながら、お前は行動して来なければならず、小さな都市では衝突は避けられませんでした。世間が自分達の伝統や規則を守るのはもっともな事です。これに対してお前は、自分の恋愛、幸福、生活を守って来ました……、私にはお前を責める(すべ)が分かりません……。でも……、でも……」


「恐らく」と、私は母がためらった胸の内を代弁しようと、彼女に言った。「恐らく、僕はそれらを守るのに、余りにガサツだったのでしょう。人は兎角(とかく)忘れがちです、自分が世の中で独りきりではない事、他にもお母さんを含め他にも人が存在している事、そして、その人達も自分と同様に幸福にも不幸にもなり得る存在だと云う事を。僕は気付き始めました、私達幸福になる権利は、他人の権利に拠って制約されていると云う事を、そしてその制約は不確定で変化するものであり、それを判別するのが自分の務めだと云う事を」


「私が言いたかったのはまさにそれよ、パスカル、人が石を幾つか水に投げると、波紋が互いに衝突し、一番大きな石の波紋が他の全部を押し流します。お前は一番大きな石だったのよ。若くて、熱気と活力に満ち、四方八方に溢れ出し、私を()き立て、ジュヌヴィエーヴやベルトやその他の人々巻き添えにし、世間の皆んなを大混乱させました。パスカル、これはお前の過ちです」


「僕にそれが避けられたでしょうか」


「勿論よ。お前が何をすべきだったか、何をすべきではなかったとあげつらうつもりは無いけれど、他人にも自分達と同様に、個人の権利に踏み込まれないで済む安心を持つ権利があると、知っておく必要があります。この考えがお前にはありませんでした」


「僕は恋愛に夢中になっていました」と、私は母に言った。「その事があなたの判断力を奪ったのです。僕がどれだけジュヌヴィエーヴを愛しているか分かってくれさえすれば済むのに」


「分かっているわよ、それを私は(ねた)んでいました」


「ああ」と、私は大声で言った。「そんな風に認めると云う事は、彼女と僕の間で全てが終わったと確信しているんですね。いいえ、そうは行きません、僕は彼女と別れません……、彼女無しで生きるなんて。この

六年間彼女は僕の人生そのものでした……、いやずっと以前から……」


「お前の人生だって、パスカル。お前には自分の人生を女性の愛情で埋める以外の願望が無いのかい」


「それが唯一の幸せなんです」


「だったら幸せになるにはそれが全てですか。過去を捨てて未来に眼を向けなさい。お前は沢山愛し、激しい感情と云うものを体験し、その結果、感受性が増し、判断力が深まり、素晴らしいものを直ぐにそれと認める性格になり、心は向上を望む様になり、より多いもの、より素晴らしいものに夢中になり得る精神を持つ事が出来ました。それらを自分に取って無駄な事にならない様にしなさい。他に眼を向ければ、お前はかなり時間を無駄にしてしまい、これからその埋め合わせをしなくてはなりません……。今は自分の生活を築き上げ、何時までも廃墟の中に留まらない様にしなさい……」


「ジュヌヴィエーヴは……」


ジュヌヴィエーヴの事はお前の最も美しい思い出、倦む事が無く終わりも無い愛を体験した事になるでしょう。お前達が愛情を断ち切るのではなく、運命が二人を分けるのよ。何時までも心の奥底で彼女を思い出す事が出来ます。そして、一時の幸福の為に彼女を犠牲にしなかった自分の立派な行動を、何時までも良心の奥底で思い出せるでしょう……」


「ジュヌヴィエーヴが……、思い出に」


 涙が流れて止まらなかった、それまでで流した最も苦い涙だった。それは少しも悲しみを和らげるものではなかった。何故ならどんな希望もその源を()らす事が出来なかったからだ。


「僕を慰めて下さい」と、私は懇願した。「思い出にするなんて考えは僕の頭をおかしくさせます……、遠くに行きたい……、二十年でも……」


「では、パスカル、あきらめるのかい」


「お母さん、そんな嫌な言葉じゃない、僕はあきらめない……、だって僕はとても幸せだったし、人から放っておいてもらえたら、どれだけもっと幸せになれたかも知れません。それなのに、全てを放棄しなくてはならないなんて、ぞっとします……、考えたくありません……、僕を守って下さい……、ああ、僕が心地好くいられるのは、ここであなたの腕に抱かれている時だけです……、ここにずっといます」


「愛しいお前」


「ええ、お母さん、ジュヌヴィエーヴも僕の事をそう呼びます。あなたが彼女と同様に呼んでくれるのは結構な事です……、僕は彼女を深く愛しています、御存じでしょう、とても純粋にね……、その事に就いて語りませんか。あなた方はお互いに手紙を書けば良いでしょう……」