212熱狂(12-2) | 左団扇のブログ

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 クレールを魅了してやまぬ、カトリーヌに否応なく道徳教化の体験をさせる、この熱心な勧誘(プロゼリティスム)[1] の欲求が彼女(カトリーヌ)長所と短所を整頓し、好都合な性向を伸ばし、或る種の不品行の危険がある他の性向を矯正し、その心を気高くし、この()の為に予想する生き方の条件に調和させようと努める事になった私の役割は本を貸したり、特に素晴らしいページを朗読してやったりする事だった。私とクレールの選択はどちらかと言えば控え目なものだった。カトリーヌの性格上それなりの配慮が必要であり、余り大胆に接するのは危険だと感じたので、私達は用心深く進めた。


 だが、母を通じて、カトリーヌをその父親の愛情から奪い、有害な読書や会話等で堕落させているとして、サン=ジョルの人々が私達を非難している事を知った。



 母が最後まで言い切れなかったのを記憶している。恥ずかしさで泣いたのだった。




 私は腹が立った。


「どんなに馬鹿げた噂も原因が無ければ生まれないと、あなたは何時も言っていますが、では、原因は何処にあるのですか。いや、それは噂を立てる連中の、愚かさと卑しさにあるのです。僕達がカトリーヌにある、新鮮で若々しいものを尊重するのにどんな気配りをしているか、あなたは御存じ無いでしょう」


「私はそう確認しているわ、パスカル、でも人の考えはそれを言い表さなくても伝わるものです。カトリーヌは悪影響を受けているに違いなく、年齢不相応な口の利き方をしたり、父親に口答えをしたり、自由奔放に振舞ったりして来ているわ……。今あの()はサン=ジョルの街を独りで歩き回っているんじゃないのかい」


「それはそうかも知れませんが、他の事は、卑劣な中傷じゃないですか。人はどうしていい加減に僕達を誹謗するんですかね」


「ねえ、あんたは、自分自身を責めるべきなんじゃないのかい。これまであんたは世評を無視して来たのだから、あんたがする事を何でも、世間が悪く見ても仕方ないわ……。それにあんたにはどうでも好い事じゃないのかい」


「僕だけじゃない」と、私は母に言った。「クレールもいるし、カトリーヌもいるよ。そして腹立たしいのは、その中傷が何処から来ているか分からない事です……。ああ、それが分かれば」


   その晩、世間の反感がとても激しく姿を現して以来初めて、私は社交クラブに行った。私の到来が何か動揺を惹き起こすと予想していたが、状況はそれ程までに人の心が苛々(いらいら)している事を示していた。だが、上流社会の人間は、直接的な攻撃をしてはならないと云う、猫かぶりの法則に服従している。よそよそしさや当惑した空気、話し掛けられまいと私の視線を避けようとする傾向、以前の仲間達の間で、私と関わり合うと自分まで評判を落としかねないと云う秘かな危惧、これら全ては今に始まったものでは無かった。私は失望した。何か衝突でもあった方が気が楽だったろう。

  

   彼等はトランプ、ビリヤード、バックギャモン、ドミノをやり続けていて、彼等を自分の前に集めて私はこう叫びたかった。


正直に言って下さい、私を何で責めるのですか。ねえ、あんた、四十年間肘掛け椅子に座ってトランプをいじくり回して来た御老人、それから、あんた、新聞すら読まずアルファベットを忘れたと自慢するお馬鹿さん、そして、古くからの愛人が他の男達と遊ぶと云うので、早く帰宅するのを禁じられ、明け方までここに居座るあんた、それから、女郎屋しか受け入れないあんた、そして、あんた達皆んな、私にどんな不平があるんですか。調べてみようじゃないですか。私の幸福に反対しているのは、何故なんです。あんた達に何をしたって云うんです」


 私は眺めた、狭い(ひたい)[2] 、無表情の小さな眼、眼窩に近い所で止まる視線、まるで皮膚が無いかの様に何時もポカンと開いた口を。私の運命をほしいままにしたのは、これらの連中、またはそれに類した連中だ。私達が自分の生活を自分で望む様に決める絶対的な権利を、連中はジュヌヴィエーヴと私から奪い取ろうとしていた。壁よりも高く真実よりも強いもの、ゴシップや、害悪の根拠の無い肯定や、拡散されたデマ、それらの信者の作り話等で、私達を分断した。どんな曖昧な理由に拠って、連中は私の人生にこれ程に決定的な作用を及ぼそうとしたのだろうか。母の評価に従って言えば、それは本当に私の個人的な過ちの結果だったのだろうか。


 隣のテーブルで遊んでいる者達は手を止めた。或る者が他の誰かの話をしたのだ。直ぐに連中の顔が興味を露わにした。眼は表せられるものを全て表していた。声が熱を帯びて来た。私は理解した、彼等や他の大部分の人間に取って、他人に関心を抱く娯しみに匹敵する喜びは無いのだ。隣の男に関して黙っているよりも、それをこき下ろし、痛め付け、打ち負かし、時に賛同したりさえする。そしてそれらの四人は喜んでそれに取り掛かった。隣のテーブルの連中も加わった。そして、彼等は逸話を打ち明け、首を縦に振ったり横に振ったりし、寛大なふりを見せ、言い訳を探し、嘆き悲しんだ。「何て残念な……、名誉ある家庭なのに……、気は確かでしょうか……」


「ええ、そっちこそ気は確かですか」と、私は思わず声を大にして言った。


   この予想外にぶしつけな発言に驚いた面々の中で、私はこう続けた。


「何ですか、情け無い、何も残ってやしない。あなた達は色々断罪していますが、自分に無関係なものに首を突っ込んだり、いい加減な主張をしたり、証拠も無しに結論付けたり、おしゃべり好きの管理人並みに告げ口をしたりするのが、果たして結構な事ですか。何が本当で何がそうでないか、あなた達は知っているのですか。知らないのなら、何故悪口を言うのです。何の必要があると云うのですか」


 連中は啞然として顔を見合わせた。それからプレイヤーの一人がトランプをシャッフルし、こう言った。


「誰から配ったら好い」


 そしてたちまち私の周りで暗黙の了解が成立した。わたしの弁舌が耳に届かなかったかの様に、彼等は沈黙を保とうとした。私に取ってこれ程不快な事はあり得なかった。それでも平然として、煙草に火を点けて静かに吹かし、結局の処、自分のしでかした事に満更不満でも無く、私は外に出た。


   私が置かれた状況では、それが自分のせいであれ、情勢のせいであれ、愚かしい事態を避ける(すべ)は無いと思った。自分には愛する資格の無い女性を私が愛していて、それを誰もが知っており、誰もが私の裁き手になり、私の敵になっている。辛抱し続けるにはどうしたら良いのだろう。


   クラブでの出来事はかなりの尾鰭(おひれ)が付いて広まった。母はそのとばっちりを受け、人から冷遇された。訪問から戻った母は私にキスをしなかった。


 正直言って、ジュヌヴィエーヴなら私の苦悩を癒してくれたかも知れないが、彼女にはもう会えなかった。フィリップとの間には何が起きていただろうか。彼女を部屋に閉じ籠めていたのは、夫の命令だったのか、それとも彼女の恐怖心だったのか。


 それまで特に私に好都合だった、サン=ジョルの二、三の地区に居場所を選んだ。物乞いに適切な場所を選び、その姿が自分のいる背景に溶け込んでしまう、そんな乞食達の様に私もなった。彼等と同様に、私は運命に施しを懇願し、眼を光らせ、街角に姿を見せる人に飛び掛かろうと身構えた。ジュヌヴィエーヴか。いや違った。時々はそうだと思い込んだが、そんなちっぽけな希望と大きな失望との入れ替わりが私を大いに苦しめた。


 結末は間近だった。猛烈に身震いしながら私は思った。


「結末だって、だが、ほら、全てが大詰め、もう終わりだ」


 神よ、私はもうたっぷりと苦しみました。三月の或る晴れた日、私とクレールはバルコニーにいた。私はうんざりしていると打ち明けた。カトリーヌのお蔭で初めて幸福な思いをしていたクレールが、その娘が自分に示した優しさや信頼の喜びを私に語ったのを覚えている。すると突然、広場の反対側にジュヌヴィエーヴとフィリップが姿を現した。私は直ぐに下に降り、彼等の後を追った。


 最初二人は大通りを歩いていて、暖かい陽気の午後に沢山の散歩人がいたせいで、彼等と度々引き離された。間隔が大きくなる毎に、楽しい気分が洪水の様に押し寄せて来た。それから彼等は目抜き通りに出た。郵便局の前でフィリップが妻を残し、一人で中に入った。


 ジュヌヴィエーヴが独りになった。私はためらう事無く、彼女の(もと)に駈け寄った。


「あっちに行って、パスカル……、フィリップが……、フィリップがいるわ……、電報窓口に……」


「うん、行くよ……、でも一言……、何時来れるの」


「無理だわ……、フィリップの眼があるもの……、私達最悪の状況だわ……、ああ、行って……、あの向かいの女性達、お菓子屋の所の……」


「ダメなんだね、ジュヌヴィエーヴ、もう来れないんだね。じゃあ、さようならだ、これでお別れだ……」


別れるですって」


 彼女はこの言葉をもう少しで大声で言いそうになった。そして憤慨の余り私に飛び掛かり、私の両手を震える程の力で握り締めたが、それでもサン=ジョルの女性達の事を気に掛けていた。


「別れないわよね、ダメよ、パスカル……、あなた無しで私が生きられるかしら。逢いに行くわ……、何とかして行くわ……」


 彼女の本心が分からなかった。


「来てくれるって、ジュヌヴィエーヴ……、何とかして……」


「フィリップよ」と、彼女が言った。


 彼は正面階段を降りて来た。私達を見た。彼は胸をさっと起こした。それは怒りの動作なのか、それとも苦悩の動作だったのか。ジュヌヴィエーヴと私は身じろぎせず、ただ単に手を離しただけだった。一言も喋らず、彼は妻の方に向かって行き、亭主然としてその腕を乱暴に摑んだ。


 ジュヌヴィエーヴは腕を振りほどいた。


「おや、パスカル、妻に挨拶しないのかい」


 私は彼がジュヌヴィエーヴに飛び掛かるのではないかと思ったが、その時、男の子と御婦人が立ち止まり、私達に注目したので、彼は自制した。


「付いて来なさい」と、恐ろしい位に蒼ざめた彼が、小声で言った。


 彼女を引っ張って行こうとした。再びジュヌヴィエーヴは彼を押しのけ、私に近付いて来たので、私は両手を差し伸べた。


「さようなら、パスカル、また近い内に」


 そして、うんと小声でひそひそと付け足した。


「明日ね」


 彼等は去って行った。


 劇場の観客の様に、二、三十人がこの光景を見詰めていた。彼等はまるで二階桟敷席、一階後部席、一階ボックス席の観客達の様に、ぐるっと周りにいた。彼等に挨拶するか嫌な顔を見せるか、どっちかをしたかったが、私は喜びに酔い痴れていた。ジュヌヴィエーヴの行為は、彼女がそれまでに与えてくれていた愛情のとても顕著な証拠となり、私を興奮させた。か弱いジュヌヴィエーヴが激情に駆られ、愕然とするサン=ジョルの人々の前で、主人(あるじ)に対し反乱を起こしたのだ。ああ愛の奇蹟だ。愛情は受け身女性から宿命的恐怖を取り除き隷属的だけどズルい妻をほんの一瞬だけ、自由で大胆な恋人に変えた



[1]  プロゼリティスムは、普通は宗教や政治の面での勧誘に関して使う言葉。元々は宗教上の改宗を促す事を指した。

[2]  西洋の人相学では額が狭い者は頭が悪いとされていた。