LF1『雄鶏と錨』亭28 | 左団扇のブログ

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    第二十八章


 雷雨 — 黒檀の杖 — 見えざる訪問者 — 恐怖

 

 ついにリチャード卿の部屋の騒ぎが治まった。しゃがれ声の猛烈な独り言も、床を早足で歩き回る足音も、もう聞こえなかった。その代わりに聞こえるのは、古木の間を素早く吹き抜けて叫び声を立てる暴風と、時折、続けざまに重低音で鳴り響く雷だった。こんな騒音の最中(さなか)に、イタリアは揉み手をし、部屋をちょこちょこと行ったり来たりし、耳を鍵穴に押し当ててくすくすと笑い、再び歓喜の発作に揉み手をした。そして時折、強い歓喜の叫びを短く上げた……、まさに、いたずら悪鬼の化身と云った処だ。リチャード卿の部屋の物音が()んでから二時間以上経ったが、甲高い風音や野太い雷鳴は今なおピューピュー、ゴロゴロと音を立てていた。ナポリ男は興奮し過ぎて寝付けずにいた。そこで彼は、自室の床をのろのろ歩き続けた。時々窓から、黒ずんだ嵐の空や、青い稲光を眺めた。稲光は暗闇をまばゆい閃光でよぎり、一瞬、蔦の絡まった塀や揺れる木々、そして草原や丘を照らしたものの、それらは即座に再び大嵐の夜の闇の中に呑み込まれた。それから彼は開き窓に背を向け、ドア近くに立ち、リチャード卿の部屋から何か音がしないか熱心に聞き耳を立てた。


 前述の通り数時間が経過し、准男爵の部屋は静まり返っていたが、パルッチは突然主人の黒檀の杖が床を打つ、聞き馴れた鋭い音が聞こえた気がした。自室のドアに走って耳を傾けた。同じ音が激しくはっきりとした音で繰り返され、その後直ぐに、主人の呼び鈴の長くて猛烈な音が続いた。イタリア人は呼び出しの合図が余りに激しくずっと続くので、ついにドアの差し金を用心深く外し、ドアの錠を開け、こっそりと廊下に出た。音は止む事なく、むしろ大きくなって来ていた。つま先立ちで階段を昇ったが、中間で立ち止まった。主人が恐ろしい声で懇願するのが聞こえたからだ。


「今はダメだ……、今はダメだ、失せろ……、今はダメだ。ああ、神よ……、お助けを」と、聞き慣れた声が叫んだ。


 これらの言葉に続いて、何か重い体がベッドから飛び降りた様なすさまじい音がし……、それからもう一度すさまじい音がした。


 声が静かになった。その代わりに嵐が長く物悲しいうめき声を上げ、聞く者の心をひんやりとさせた。


何だこれは(マローラ)[1] ……、おったまげた(コルポ・ディ・プルート) [2] 」と、彼は声を潜めて言った。「何なんだ。また呼び鈴を鳴らすだろうか。(サント)ジェンナーロ[3] よ……、何か悪い事が起きた様だ」


 彼は怖いもの見たさの思いをしながら立ち止まった。しかし、杖の音も呼び鈴も最早繰り返されなかった。五分が過ぎた。しかし、嵐の咆哮、轟音(ごうおん)以外に物音は無かった。パルッチは心臓をどきどきさせながら階段を昇り、主人の部屋のドアをノックした。返事が無かった。


「リチャード卿、リチャード卿」と、男が叫んだ。「何か御用ですか、リチャード卿」


 やはり返事が無い。ドアを開けて中に入った。病人の便宜の為に寝室から化粧室に移された、巨大な棺台(ひつぎだい)の様なベッドの脇のテーブルで、蠟燭が燭台の受け皿の中で辛うじて燃えていた。かりは薄暗く、窓の隙間から入り込んだ渦巻く風にぐらぐらと揺れ、部屋の物体の上を光と影とが不明確に行き交っていた。ベッドの端の方で、一台のテーブルが倒れていて、その近くの床に何かが横たわっていた。寝具の山か、それとも……、いや、まさか……、そうだ、それはリチャード・アシュウッド卿だった。



 パルッチはひれ伏した人物に近付いた。仰向けに寝ていて、顔は固まっていて蒼白く、眼は虚ろに見開いており、顎がだらっとしていた。卿は死骸(むくろ)になっていた。イタリア人は屈み込んで死者の手を取ったが……、それは既に冷たくなっていた。主人の名前を呼び、体を揺すったが、何もかも無駄だった。そこに横たわるのはずる賢い策謀家、性急で気の荒い道楽者、衝動的で仮借の無い暴君、不信心で思慮分別に欠ける俗物、不気味な一塊の土だった。


  此の世の邪悪な住人が突然恐ろしくも、眼に見えない永遠の住処(すみか)召喚され、生命の無い(むくろ)になった姿を、ナポリ男は不思議な気持ちで眺めた。


「くたばった……、お陀仏だ……、片付いた……、全部おしまいだ」と、彼はゆっくりつぶやき、まるで命の炎がしっかり消えている事を確認するかの様に、死体を足で踏んだ。「すっかりくたばっちまった。嫌な奴め(カンケロ)[4] 、見苦しい死にざまだ……、何かあったんだ。何と話をしていたんだろう」


 パルッチは大階段に通じるドアに向かったが、そこは普段通りに差し金が掛かっていた。


「ちぇっ、何も無かったか[5] 」と言い、再び死体に近付きながら、恐る恐る部屋を見回し、自分を安心させる様に否定の言葉を繰り返した。「いや、いや……、何も無かった、何も無かった」


 再び恐ろしい光景を黙って数分間見詰めた。


何て事だ(コルベッツォリ)[6] 、これで終わりだ」と、やっと彼は叫んだ。「冗談はおしまいだ。ほら、見ろ、胸がはだけていて、アルディーニ[7] 短剣(スティレット)の痕が二つある。悪党(ブリッコーネ)め、悪党め、何と手に負えぬヤツだったか……、腹黒(パンツァネラ)で、綺麗な足首と黒い瞳の女の為なら、悪魔相手でも物ともしない。こいつはたまげた(ロット・ディ・コッロ)、顔が動いているぞ……、ちぇっ、灯りが揺らめいているだけだ。いやはや(ディアーミネ)恐ろしいだ。何に向かってしていたんだろう。何もいなかったじゃないか……くそっ、何もここに来られやしまいに……そうだ、そうだ、何も無い


 この様にしゃべっていると、何か大きなものが襲い掛かって来て、入室を求めるかの様に、風が激しく窓に吹き付け、ひと吹きで蠟燭を吹き消した。突風が長く物悲しい声になって立ち消えたが、あたかも大気の力の王自身が開き窓に向かって怒鳴り声を浴びせる様に、再び唸り声を上げて窓に突進して来た。そして再び、青くまぶしい稲妻が部屋を一瞬照らし、その後、より深い暗闇がそれに取って代わった。


「へっ、稲妻のヤツ、硫黄の様な匂いがするぜ。畜生(サングゥエ・ドゥン・ドゥア)部屋の中何か音がするぞ


  パルッチは恐怖に負け、大廊下に出るドアによろよろと近付き、冷たくなった震える指で差し金を引き、階段にさっと飛び寄り、助けを求めて懸命に叫び、その甲斐あって、たちまち家の者達の半数が死者の部屋に集まった。



[1]  malora )。イタリア語で「破滅、滅亡」の意。

[2]  corpo di Pluton 伊)。プルトンはギリシャ神話の冥界の神。ローマ神話ではディース(Dis)。コルポは「肉体』の意。

[3]  (?−305)。聖ヤヌアリウスとも。イタリアのベネヴェントに生まれ、15歳でカトリックの司祭に、20歳でナポリの司教になる。ディオクレティアヌス帝のキリスト教弾圧で処刑される。遺体はナポリに運ばれ、ナポリの守護聖人になる。

[4]  canchero 伊)。「不愉快な人物(事)、癌」

[5]  部屋が密室状態だったから。

[6]  corbezzoli )。元は「セイヨウヤマモモの木(イチゴの様な赤い実を付ける)」の意。

[7]  不詳。