LF1『雄鶏と錨』亭29-1 | 左団扇のブログ

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      第二十九章


 老婆たち — 遺体、そしてイカサマ師

 

 疲労困憊し、決して楽しい気分では無かったヘンリー・アシュウッドは、モーリー・コートの並木道を馬で登っていた。 

「俺が持って来るはずだった千ポンドの運命を親父が知ったなら」と、彼は思った。「きっとひどい話し合いになるだろう……、愉快な対面だ、畜生。どうやって切り出そうか。親父は狂人同様になってしまうだろう。畜生、飛んだ事だ……、しかし、何とか切り抜けなくては……、くそっ、俺は何を怖れているんだ」

 こんな風につぶやきながら、彼は(くら)から飛び降り、良く調教された馬を自分で厩舎に向かわせ、半開きの玄関から屋敷に入った。玄関ホールで使用人と出会ったが、考え事にかまける余り、その年取った召使いの真剣で怯えた表情に気付かなかった。

「ヘンリー様……、ヘンリー様……、どうか、しばしお待ちを」と、その男が言い、ヘンリーの後を追って引き留めようとした。

 しかし、アシュウッドはその制止に頓着せず、遅かれ早かれ訪れると信じた対面を、不必要に先延ばしにはしまいと決意し、召使いの脇を急いで通り過ぎ、階段を大股で素早く登った。リチャード卿の部屋のドアを開けて中に入り、部屋を見回して目的の相手を探したが見当たらなかった。だが、計り知れぬ程驚いた事に、三人の皺くちゃの老婆が暖炉の傍に座っていて、彼が入って行くと、何かの入った鍋を火で温めていた一人を除いて、立ち上がった。そしてそれぞれが、状況にとてもふさわしい悲痛な表情を取り戻した。

「えっ、これはどう云う事ですか。どうしてここにいるのです、看護婦さんが」と、若者は驚きの混じった好奇の口調で訊ねた。 

 彼が話し掛けた老嬢は泣くのが賢明だと考え、返事をする代わりに顔をエプロンで覆い、頭を反らして、言葉にならない悲しみを示すつもりで、中風の片手を相手に向かって振りかざした。

「何だと云うんです」と、アシュウッドが言った。「揃いも揃って口が利けないんですか。話して下さい、誰か」

「ああ、おやおや、憐れな方」と、二人目の老女が、首をひどく悲しげに振りながら言った。「でも、本当に憐れむべきなのはあの方。ああ、おやおや……、おやまあ」

「一体どうしたって云うんです。しゃべれないんですか。父は何処です」と、苛々した若者は当惑しながら繰り返した。

「聖人達と共栄光の中(天国)おられます」と、三人目の老婆が、中身が焦げない様に鍋を細かく動かしながら答えた。「此の世に天使がいるとすれば、あの方はその一人でした。まあ、まあ、その御褒美があるのが、確かに慰めです。栄冠を聖なる使徒と共に……、羨ましきはあの方……、天の高みにあって、たとえ余りに急に亡くなったのだとしても

 これに続いて半ば悲痛な首振りがあり、他の女達もそれに加わった。

 若きアシュウッドは急ぎ足でベッド脇に向かってカーテンを引き、寝具の間から眼を閉じたまま覗かせている、遺体の痩せこけて動かない顔付きを凝視した。その光景を眼にした彼がどんな感情だったかを分析するのは容易ならざる事だったろう。彼の固まった表情には、信じ難い程の恐怖らしきものが浮かんでいた。それまで長きに渡って(おそ)れ服従して来た老父が本当に死んでいるのか疑うかの様に、掛け布団の上に置かれた硬直した手に触れた。く感覚の無い感触に間違いは無く、見慣れた死に顔の良く知った特徴を見る時の、れの混じった好奇心でじっと眺めた。そこに横たわっていたのは、その獰猛な感情が、ない頃からヘンリーの日常的な不安の源になってい、幼少期には恐怖の源でさえあった存在で今後はそれが無かったも同然のものになる。腹黒で干渉好きだった頭が横たわっていが、もうその打算も悪知恵も役には立たない。今や、それがじっと乗る枕以上の思考力も影響力も無い。高慢で、俗物で、情け容赦無く、粗暴だった男が、冷たい粘土で出来た無感覚人形(ひとがた)化していて、これはこの世の物ではなくなった亡霊の新たな存在を示す、無感覚でぞっとする像になっていた。

「眼が閉じていたなら、美しい遺体なんですが」と、老婆の一人が近付いて来て言った。「実に綺麗に寝そべった遺体です」

「手が全体的にとてもすらりとしていますね」と、別な老婆が言った。「そしてとても華奢で、まるで貴婦人の手みたい」

「それは御自身が立派な主人だったから」と、老看護婦が頭をゆっくり振りながら言った。「この様な方は革靴を縫ったりしませんものね。ああ、でも今日はあなたの事で心が痛みますわ、ヘンリー様」

 盛んに身をよじったり顔をしかめたりして、搾り切ったレモンから最後の一滴をひねり出す様に、何とか片眼から涙を絞り出す事が出来た。そしてきっと人の眼に留まる様に、それを頰に残しておき、とても憐れみを催す様な表情で仲間達を見回したが、その顔にはくっきりとこう書かれていた。「私ゃ何て忠実で、優しい老女でしょうか。だから、リチャード卿が遺言で私に譲ってくれる遺産が、どんなにわずかな好意の表れでも、それがどれだけ私に相応(ふさわ)しいか」

「ああ、だったら、あの方を御覧」と、鍋係の女性がヘンリー・アシュウッドをとても感動的な憐れみの眼で見詰めながら言った。「遺体をどんな風に眺めているか。ああ、リチャード卿を崇敬していたのは彼なのよ。ああ、あの方、今日はどうなさるのでしょう。御覧なさい……、親を亡くしたのよ……、お可哀想に」

「皆んな出て行きなさい、私を独りにして下さい」と、急に彼女達に向かってヘンリー(今はヘンリー卿)が言った。「誰かまともな話が出来る者を寄越して下さい。パルッチをここに呼んで、あなた達は全部ここから出て行きなさい、さあ」

 不平をたらたら言い、怒った様に首を何度も反らし、威厳を見せる風に何度も鼻をフンと鳴らしながら、老女達は足を引きずりながら退室した。そしてヘンリー・アシュウッドが独りきりになったかと思うと、直ぐにパルッチの部屋に通じる小さな秘密のドアが開き、その召使いが中を覗き込んだ。