212熱狂(8-2) | 左団扇のブログ

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 胸が張り裂けそうだった。どんな非難の言葉も、この物悲しい愛情表現程に私の心を揺さぶったものは無かった。どんなにかこう叫びたかった。「はい、分かりました、出て行きますよ」。母はその気持ちを察したのだろう、とても優しく言った。


「お前、私が多少とも自分の苦労を免れようと努力していると思わないでおくれ。自分の幸福だけだったら、私は何度でも犠牲にするわ、分かるでしょう、でも、もっと他の大事なものが関わっているの。お聞きなさい、パスカル、神様のお蔭で、あんたの眼中に無いフィリップが、昨日の朝からロンドンに行っていて、それも今度の騒ぎは知らされぬままに向かったのです。匿名の手紙が訴えていた、奥さんがクロ・ギヨームにいると云う件に多少驚いたけれど、結局ジュヌヴィエーヴから十分に説明を受けたので、あんたが、いいえ、あんたも、クロ・ギヨームにいたなどとは、つゆ疑ってもいないの。彼が帰国した時に、噂話で本当の事を探り出さない様にする唯一の希望は、事をもみ消し、私達が全てから遠ざかる事にあります。私達が人から見られなくなれば、人の話題になる事も減ります。ベルトから聞いて知っています、あんたが言った様に、今日の午後全てを彼女から教えてもらいましたよ、ジュヌヴィエーヴは旦那さんの留守中には姿を見せないと決めていると。それなら、誰がお前を引き止めるんだね。私達は夏を街で過ごしたから、私には転地が必要です、あんたの妹もね。一ヶ月ベルフィーユに身を落ち着けると云うのはどうだい」


 私に断る勇気は無かった。


「一ヶ月だけですか」


「ええ、一ヶ月、その間あんたはサン=ジョルにやって来ないと云う約束でね……」


「どう云う事ですか」


「当たり前でしょう。私が向うにずっといるのに、あんたが毎日午後に戻って来る様なら……。頼むから、パスカル、私にこの譲歩をしておくれ……、心配なのよ、怖いのよ……」


 私は二十枚に及ぶ励ましの手紙をジュヌヴィエーヴに書き、今後も一片の曇りも無い誠実を誓った。「これは僕達の最後の試練です、一緒に耐え忍びましょう。僕は今年の夏の喜びの全てを思い浮かべ、僕達を待ってくれている喜びや、あなたが約束してくれた喜びに思いを馳せています」


 そして自分の中に漠然とした計画の構想が出来つつあると追伸に加えた。「僕は五週間戻って来ません。ですから、フィリップの帰国と僕の帰還との間の、十一月十日頃、僕達の再登場が重ならない様に、思い切って散歩をする事を勧めます。追って連絡します」


 出発の朝に書いたこの手紙を送る方法を探していた時、外出の用意をしているクレールを見掛けた。


「何処に行くんだい」と、私は訊ねた。


「声楽の先生のお宅よ」


「レッスンの間に……、付き添いの女中が……、出来るだろうか……」。

 私が喋ろうとしていた文句が、突然ひどく真剣なものに響いた感じがした。クレールが訊ねた。


「お使いでもあるの」


「うん、手紙だ……、ただし、出来れば……、お使いに遣ってくれるのなら……、お前からと云う事にして……」


 妹はにっこりとした。


「私に頂戴、私が自分で持って行くわ、その方が好いでしょ」


 この申し出には腹が立ったが、それを断る訳にも行かなかった。それでも不安で逡巡していると、クレールが私の手から手紙を取り上げた。


「宛先を見ていないだろうな」と、私は彼女に言った。


 妹は肩をすくめ、家を出た。


 ベルフィーユでは暗い日々が続いた。ダルザ夫人への手紙で私が装った平静さは、空元気とでも言うべきものだった。私は優しい未来程には、彼女の口約束を信じておらず、自分だけを信じていた。


「こっち側は一人ぼっちで、他の皆んなは向こう側だ」と、私は思った。


 そしてこの人々が、秘密裏に進めていた私の計画を挫折させる為に、どれだけ不思議な力を持っていた事か。どれだけ目敏(めざと)い憎悪で付き纏われた事か。以前、ベルフィーユへの密かな行き来が露見し、国外追放の罰を受けた。以来、人々は全ての色事見張、アルマンド・ベルティエの部屋や、ヴォノワーズ川までの道を尾行し、恋愛を激しく非難し、ジュヌヴィエーヴを震え上がらせ、クロ・ギヨームでの逢引を目撃し、そして更には、夢が叶いそうになった瞬間に、街からの逃避を私に余儀なくさせた。


「ああ、邪悪な奴ら、偽善者達め、捕まえたら容赦しないぞ」


 この威嚇は誰に向けられたものでもないが、眼に見えぬそれらの手強い敵に対する憤慨の中で、私は母やジュヌヴィエーヴの様に自分の気持ちを表す様になった。「人が私を監視し、人が私を追跡し、人が私の邪魔をする」。そして、彼女達の様に不安な気持ちを禁じ得なかった。


 或る日クレールから電話があった。


「サン=ジョルからよ」


「彼女に会ったんだね」


 私のためらいはすっかり消え去った。妹からの慰めの言葉を得る為なら、自分の恋愛の話を全て打ち明けただろう。


「ええ、郵便局の近くで会ったわよ」と、クレールが答えた。


「何か言っていなかったかい」


「別になにも言わなかったわ。話をする事が出来ずに、私にキスをするだけで、泣いているみたいだった」


「そうだろう、きっと泣いていたんだ」と、私は自信を持って言った。


 そんな事が私達の会話の本題であり、直接的では無いにせよ、ほのめかしの形で何度もそこに舞い戻った。


「人は僕が幸せになる事を望んでいないんだ、クレール……。幸せが手の届く所にあるのに、僕がそれを手にしようとすると、人はそれを取り上げてしまう」


「へえ、だったらもう一度摑まえれば」


「いいや、もう終わりさ、これ以上期待していない」


「だったら、諦めるって云うの」


「僕が、まさか」


「だったら、期待しなさいよ、諦めていないのだから」


 混乱した頭を整理するのに、理屈に適った言葉があれば事足りる。クレールは私の興奮を鎮めてくれた。妹の論理的な精神や、彼女の自主的かつ内省的な性格から私が感じるものには、しばしば驚かされた。思えば、彼女の事は殆ど分かっていなかった。自分の事ばかり考えて生きて来て、直ぐ隣で成長する子供に関心を持たなかった。彼女は十七歳
[1] になっていた。どんな趣味どんな願望を持っているのだろう。こんなぼんやりとした疑問がその時初めて頭をよぎったが、それを考慮する余裕は無かった。それでも、悲しい心を妹に打ち明けるのを好む様になった。


 その月が終わると、私はパリに一週間行くと告げた。母は必死に止めようとした。


「ここで年を越す気は無いのかい」


「それは無理です」


「だったら、家に戻りましょう」と、母が言った。「今日は火曜だから、土曜には家に戻っているわ。あんたはその前に戻れないかい」


「家にですか、いいえ駄目です」と、私は顔を赤らめながら断言した。


 母は断固とした口調で続けた。


「これだけはお前に警告しておくけど、パスカル、私の意図は、是が非でもジュヌヴィエーヴに会って、しっかりと睨みを利かせる事です。必要ならば毎日会って、彼女に忠告し守ってあげるわ。これが警告よ」


 夕暮れ時に、私が乗った列車がサン=ジョル近くの丘の間を抜け出た。街灯の灯りの中を、街の大きな全体像が展開していた。心臓が締め付けられた。私はジュヌヴィエーヴを征服しようと再び駆けつけたのだ。


 私は自分の弱さを自覚していたし、それに伴って、幸福を求める私達二人の弱さも認識した。どんなに謙虚でどんなに孤独な人間にも、自分に対して嫉妬に狂う大勢の者がおり、彼を知る人々の敵意や無関心な人々の反感があり、しきたりや約束事にうるさい不屈の民衆がいる。それでは百人の間で分かち合うべき幸福は一つしかないのだろうか、また、誰かの犠牲が無ければ幸福にはなれないのだろうか。


[1]  小説の冒頭で、クレールがパスカルの七年後に誕生したとあるので、パスカルはこの時点で二十三、四歳と云う事になる。