LF1『雄鶏と錨』亭21 | 左団扇のブログ

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        第二十一章



 木の下に座るメアリー・アシュウッドの前に現れた者 — 正義の闘士

 

   ぎらぎらとした眼と張り裂けそうな胸で、言葉にならない憤怒に押し黙り、美しい娘(メアリー)はアスペンリー卿の最後の言葉が耳に届いた時の姿勢のまま立ち尽くしていたが、その間に、激怒した女々しい老人は、まるで足の不自由な猿が熱い焼き板の上を移動している身軽さと優雅さ(、、、、、、、、、)で、を引きずりつつ退散した。卿が姿を消して数分後、やっと彼女はものを考えたり口を開けたり出来る程に回復した。
 

「あの人が近くに居てくれたなら」と、彼女は言った。「あの閣下だって私をこんな扱いをしなかったでしょうに。先ずエドモンドの方がとても苦しい思いをしたでしょう。でも、ああ、神様御覧あれ、あの人の愛は私から失くなってしまい、救ってくれる人は誰もおらず、今の私は、哀れに嘆き悲しむ、見捨てられた女です」


 この様に言いながら、古い高木の下の草の生えた土手に腰を下ろし、絶望的な悲しみにひたすら身を委ねて涙を流した。自分の肩にそっとやさしく置かれた手の圧に、やっと彼女はこの抑え難い悲嘆の没我から意識を取り戻した。


「何を悩んでいるんだい、メアリーお嬢さんや」と、彼女の(そば)に立っていたオリアリー少佐が訊ねた。「さあ、お前さん、悩んでいないで年取った叔父さんに全部話して御覧、二十回に一回位なら、古ぼけた頭でも事を解決するだけの知力があるから。そうだ、そうだ、お前、可愛い眼を乾かして……、涙を拭きなさい。何だって涙がお前の頰を濡らしているんだね、可愛い姪っ子よ、お前は昔からそうだったね。だが悲しみがお前に訪れるのは未だ早い。私の可愛い子と、凡ゆる悲しみや危機の間に、この私が割って入りたくないと思うのかね。然らば、私を信じなさい。涙を拭いなさい、さもないと、きっと私まで泣いてしまう。眼を乾かし、私が何とかお前を助けてあげられるかどうか、その眼で御覧」


 老少佐の柔らかなアイルランド訛りが、その美しい姪の耳にこれ程優しく憐れみの響きで聞こえた事は今までに無かった。今その豊かな流れが、彼女の心を思いがけぬ優しさと慰めの言葉でたっぷりと満たした。


「初めて膝の上に乗せた時から」と、少佐は同じ様に優しく憐れみの籠もった口調で続けた。「お前はずっと私の可愛いい子じゃなかったかね、私のメアリーよ。そしてお前はヤクザなオリアリー叔父さんが好きじゃなかったかい。正しい事でも悪い事でも、何時だってお前の味方をして来なかったかね。それを今、私がお前を見捨てると思うのかい。だから、全て私に話をしなさい……、私は相変わらずお前の叔父さんじゃないか。さあ、涙を乾かして……、ここに愛しい人がおるじゃないか……、涙を拭って」


 この様に語っている間、心の温かい老人は慇懃さと憐憫と情愛とを感動的に混和させて姪の手を取り、彼女が幼かった頃に可愛がっていたこの子にした様に、沢山の愛情表現を振り撒きながら、何度もキスをした。哀れな娘は、その気立ての良い思いやりは誤解しようの無い、この幼い頃からの友人の優しさに心を動かされ、次第に落ち着きを取り戻し、彼女の極度の狼狽の原因となる、何かとてつもなく痛ましい事が起こったのだとはっきり感じ取った少佐の懇願に降参し、とうとう自分の悲しみや動揺の直接の原因を彼に語った。その話に耳を傾けていた少佐は憤りを高めて行き、話が終わると不自然な程に穏やかな口調でメアリーに質問したが、その口調には、怒りの余りとてもやかましくなるものよりも、遥かにぞっとするものがあった。
 

「お前さん、閣下が去って行った時、どっちの方に向かったんだい」


 叔父の顔を覗き込んだ娘は、そこに執念深い狙いを見て取った。

「叔父様、愛しい叔父様」と、彼女は取り乱しながら叫んだ。「お願いですから、後を追わないで……、お願いします……、後生ですから、どうか……」。叔父の足元に身を投げ出しかねなかったが、少佐は彼女を両腕で抱いた。


「まあ、まあ、お前さん」と、彼は叫んだ。「私は彼を(あや)めたりはしないまあそれに値する相手だがね……、大丈夫さ。お前がその命を救ったんだ。紳士及び軍人として、名誉に賭けて誓うが、今日のあの男の言動に照らして見て、彼に害を与えるつもりは無いよ……、これで満足かね」


「ええ、ええ。ああ、有難い、有難い」と、哀れな娘はしきりに叫んだ。


「だがね、メアリー、私は彼に会わなくちゃならん」と、少佐が言い返した。「彼はリチャード卿を脅してお前に働き掛けようとしたのだ……、私は会わなくちゃならん。これにはお前も反対しまいな、さっきの約束は守るから。私は……、私は彼を何とか説得したいのだ。彼にお前を准男爵との面倒に巻き込ませたりはさせない。リチャードと私は同じ母親から生まれたが、私達が同じ結婚生活を送っている訳でも、同じ性格をしている訳でもないからさ……、アスペンリー卿がお前の父親に自分の話を語るなんて、とても許し難い事だ」


「本当、本当、叔父様」と、娘が応じた。「私が逃れたり楽になったりする見込みはほとんど無いでしょう。何が起こったか父はきっと知ります。必ずや父の知る処となり、そうなると、粉飾や虚言を用いても、父の猛烈な立腹が私に(くだ)るのを防げません。その怒りを出来る限り耐え忍ぶだけです。神よ救い給え。でも、脅しでも暴力でも、私がアスペンリー卿にした返答を撤回する事や、彼との結婚に同意する事は叶いません」


 「結構、結構、メアリー」と、少佐が返した。「お前の心意気は気に入った。それを固く守れば、決して後悔する様な事にはならんだろう。そうしている間に、私はアスペンリー閣下にその会話力を働かせて、数分間の短い会談を試みるつもりだ。もしも期待通りに理性的な人物だと分かれば、私の出しゃばりをお前が残念に思う様には決してならないだろう。そんなに(おび)えた顔をするんじゃない……、約束したじゃないか、紳士の名誉に賭けて、お前との会談での言動に対して彼を刺したりはしないと。突き剣[1] を枕や下っ端役人に突き刺すのはどうって事のない行為だが」と、彼は熟慮しつつ続けた。「当の立派な老人の様に、這いつくばった有毒のヒキガエルに唾を吐きかけても、それは奇特な行為に他ならないものだろう。天上の凡ゆる聖人達の好みを満足させる行為であり、此の世に正義があるのならば、私は聖人の仲間入り出来るだろう。だが、心配無用、私は手を出さないさ……、小物が逃げるのを黙って放っておくよ、お前の望み通りに……、このオリアリー少佐がそう言った以上、お前はくよくよ心配するには及ばない。さようなら、可愛い子よ、涙を乾かして、一時間経たない内に、過ぎ去った最も楽しかった日々の時の様に、お前の楽しそうな様子を見せておくれ」


 こう言いながら、オリアリー少佐は彼女の頬を撫で、その片手を優しく両手で取り、こう付け加えた。


「きっとこの件には、お前が話したいと思う以上のものがあるのだろうね。お前の快活な性格をこれ程、物寂しいものに変えるとは、癒してあげようにも私の力で及ばない何かがあるのだろうと、ひどく心配しているのさ。それが何かは詮索しないが、覚えておきなさい、お前が友達を必要な時には何時でも、この私の中に信頼出来る友達を見出す事が出来るだろう」


 この様に言い終えると、彼はメアリーに背を向け、急ぎ足で遊歩道を下って行き、やがて、生い茂り形の整った生垣が、先を見通せないその緑の幕で、退去して行く彼の姿を隠した。


 少佐の宣言の態度や流儀は奇妙なものだったが、その発言には優しさや、誠意があり、メアリーは確かに彼の中に友達を見出せたと思った。せっかちで、激しやすく、粗暴な所があるものの、その誠実や行動力には期待出来そうだった。彼女と同じ思いをし、彼女を哀れんでくれる存在が一人いた事は、彼女の心を動かし彼女の高潔な精神を感動させる発見であり、幼い頃はこの老少佐から甘やかされていた女の子だった彼女が、彼に対して真剣な気持ちを抱いた事はこれまで無かったが、今はその彼がかつて他の誰からも得られなかった様な強くて熱烈な、愛情や感謝の感情でもって評価されていた。動揺し、心痛を覚え、興奮していた彼女は、その面会の場所を急いで離れ、高ぶった感情を自分の部屋の静けさと隔離の中で癒そうとした。



[1]   17、8世紀に決闘やフェンシングで使われた、突く為だけの先細りの剣。