212熱狂(8-1) | 左団扇のブログ

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    Ⅷ

 

 それは家から家へと広まり、何処かでは停滞し、別の何処かでは途切れるとかで、往々にして、誰もが知る前に消え去ってしまう様な、噂話のもたもたとした伝達では無かった。それは爆発であり、街全体がそれを耳にしたか、或いは少なくとも、その反響を聞いた。
 

 事は明白だった。五百人もの人々が、パスカル・ドヴリューが丘を転がり、楽団の真ん中に落ち、ずたずたになった洋服と無帽で、群衆を掻き分けて進む姿を目撃したのだ。一体何処から来たのだ。何故知り合いに何も説明せずに退散してしまったのだ。背景には何があったのか。あれこれ取沙汰された。そして、それぞれに尾ひれが付いて回ったが、最終的に確かな情報として広まったのはこうである。「ドヴリューの(せがれ)は旧市街の上から飛び降り、岩の上を転がった後、狂人の様に逃げ去った」
 

 隕石の様に空から落下したと云う様は驚異的であり、遊歩道を通る人々は誰もが、崖の切り立った壁を驚きの眼で見ずにはいられなかった。今日(こんにち)でも、あなたはその場所をこう案内されるだろう。
 

「ドヴリューの倅が降りて来たのはあそこからです」


 フィリップの眼から逃れられた事にすっかり満足したドヴリューの倅ことこの私は、自分の色恋沙汰の嘆かわしい結末をつゆ疑わず、それに続く二日間、全く平穏な意識の若者の様に、往来を歩き回った。しかし、三日目の晩、訪問から戻った母親が、がっかりした声で叫んだ。


「全部知っているのよ、パスカル、全部教えてもらったわ」


「何を御存じだと云うのです」と、半分本気で私は言った。


「何をお言いだね、日曜日の騒ぎは、サン=ジョル(じゅう)の物笑いの種で、寄ると触るとその話題で持ち切りよ


 私は鼻で笑った。


「他の事に構っていれば良いんですよ。人は何時だって自分に無関係な事に口を挟むものです。


 母は憤慨した。


「お前は笑うのね、街中(まちじゅう)がお前の奇行を目撃したのよ、岩山を転げ落ち、人々を突きのけて泥棒の様に逃げ出したのに、お前は笑うのね」
 

「だって、滑稽ですよ」


「じゃあ、誰も事情が分かっていないと思っているのかい。ああ、情けない、皆んなに知られているのよ、クロ・ギヨームでジュヌヴィエーヴがあんたに逢っていた事、日曜日にフィリップがやって来たからあんたが逃げ出した事、そして、あんたの十分後に、百メートル右の方から、ダルザ夫婦が丘の坂道を降りて来て、遊歩道を迂回して去った事もね」


 私はもう笑えなかった。


「誰から聞いたのですか」


「フィリップが来たのは偶然では無いでしょう……。午後四時に彼は使いの者から匿名の手紙を受け取ったそうで、そこには、クロ・ギヨームの方に散歩に行く様に勧めていたそうよ」
 

「ベルトの仕業だ」と、我を忘れて私は叫んだ。「匿名の手紙を書いたのは彼女だし、今日お母さんに警告したのも彼女だ、それ以外に有り得ない、何て卑劣なんだ」


 母はうろたえた様子を見せた。どうして私はランドール夫人をファーストネームで呼んでしまったのだろう。母はぶつぶつと言った。


「ああ、お前はベルトの恋人だったのね」


 その落胆ぶりを人が見れば、他人が声を潜めて語る様な、一族の名誉を(けが)す恐ろしい事柄を、母が発見したと私が思っても無理は無かっただろう。心を動かされた。

「お母さん、あなたはまるで聖女です」と、私は彼女に言った。「その禁欲と純潔とで常に賞賛されて来たあなたは、自分の人生越しに他人の人生を見ています。そして、恋愛はあなたをまるで大罪の様に傷付けるのです。ねえ、僕がランドール夫人の恋人だったかどうかは、あなたに何の関係があるのですか」
 

「私が悲しいのは、お前の火遊びまみれの生活、あんたが多かれ少なかれ絡んでいる話の全部です。日毎に新たな過ちが持ち込まれます」


「ああ、悲しい事に、僕の行動の全てがあなたにはずっと過ちに見えるでしょうね、僕達の物の見方の相違がそうするのです。それならあなたを傷付ける事無しに生きるのは不可能です。僕がその事でどんなに悲しい思いを知っているか分かってもらえたなら」


「悪い事をするより悲しむ方がましよ」


「僕は悪い事などしていません、あなた他所(よそ)人が僕をどう判断するかに従って僕を判断しているだけです」


「どうしてそんな無分別で他人を煽る様な真似をするの」


 母に懇願した。


「お母さん、眼をつむって、他人の話を聞かないで下さい、彼等の意見など何も重要じゃありません、ああ、僕の好き勝手にさせて下さい。ジュヌヴィエーヴの件でも、お願いですから、世間の人達の様に、僕達の間に割って入らないで下さい……、僕は愛しています……、彼女の事を愛しているんです……」
 

「だけど、パスカル」と、母は私の言葉を撥ね付けて言った。「お前は私がフィリップと懇意にしているのをお忘れかい、彼を結婚させたのは私ですよ、それなのにお前は私に浮気の片棒をかつがせるんだね。でも、私の務めを邪魔するものは何もありません、きっと私はとことんやり抜くでしょう」


 私達は互いに顔を見合わせ、まるで仇同士の様に立ち尽くしていた。どんなに愛し合う者達の間でも、殆ど憎しみに近い、怒りの瞬間があるものだ。母は自分を抑えて言った。


「未だ時間があるわ、私はお前がジュヌヴィエーヴの恋人になってはいないと思います。あんた方を非難する噂には未だ一貫性がありません。お前はここを離れなさい、旅行に出るのです。これは命令よ」
 

「僕は離れません」と、私はきっぱり言った。


 私達の視線、私達の意思がぶつかり合った。母は顔を紅潮させた。精神を集中させて、私の抵抗を打ち破る、脅し、懇願、或いは策略の文句を探っていた。この反抗的な息子に対し、無限の道理で武装しようとしていた。だが、私を服従させようとして母に何が出来ただろう。彼女は力無く引き下がった。


 母の敗北宣言にとても悲しくなった。それでも、私は重々しい口調で言った。


「四年前にも一度、幸せだった僕にあなたは同じ命令[1] をし、僕は国外追放でひどく苦しみました……。僕の中で、幸福はとても現実的なものであり、それが壊されるのは、生き物が喉を掻き切られるのに等しいものです。今度と云う今度は、何者に対しても自分を守る覚悟でいます。あなたに対してもです、お母さん、あなたには僕の幸せを邪魔する権利が無いからです」


「そう言うお前は、私の幸せを邪魔しているんじゃないのかい」


 良心の最も弱い部分を突かれ、私は口答えをした。


「何ですって、おっしゃる意味が分かりませんが……」


「お前が私にしてくれているのがどんな人生だと思っているんだね。私はのべつ(、、、)不安状態よ。あんたが外出すると、私は心に思うわ、『誰かに跡をつけられて、見付けられるじゃないか……。明日になれば、また新たな醜聞が起こるのでは……』ってそして、友人達の皮肉……、私達の周りで感じられる悪意や嘲り、広まる陰口の数々……。ああ、あんたは随分と私の幸せを気遣ってくれてるわね」


「済みません、お母さん、でもどうして幸せをそんな馬鹿げたものに位置付けるのですか。僕には人の口を塞ぐ事は出来ません」
 

「人に自分の事を無理やり語らせる事も出来ないわ」


「それでは、僕は自分の心を無にし、青春を犠牲にしなくてはいけないのですか」


「あんたは私が犠牲になる方を選ぶのかい」


「比較なんか出来ませんよ、お母さん、あなたは僕に人生を犠牲にしろと言っているんですよ、ええ、この愛は僕の人生そのものです、こんな素晴らしいものには二度と出会えないでしょう……、僕は、僕はあなたに求めるのは、ちょっとだけ先入観を控えて欲しいと云う事だけです」


もしもそんな人生が、私の人生にもなったなら」と、母は私の両手を取って叫んだ。「もしもお前が言う先入観が私の存在の一部だとしたら、どうして私が犠牲にならなくちゃいけないんだい」


 私は長く黙っていて、それからぶつぶつと言った。


「それじゃあ、お母さんは他人の意見に耳を傾けずにはいられないのですか」


「人から尊重されなければ生きてはいけないよ」
 

「でも、今のあなたは尊重されていますし、これからもずっとですよ」


「ああ、パスカル」と、母が言った。「お前がもしも人から尊重されずにいて、それで私が幸せにいられると思うのかい」



[1]  第四章参照。