LF1『雄鶏と錨』亭20-1 | 左団扇のブログ

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     第二十章


 

 下宿屋 — 若き憂愁と老いの記憶 — モーリー・コートのイチイの生垣の中での出来事

 

「もう疑いは無い……、希望ももう無い」と、外套に身を包んでゆっくりと家路を辿りながら、オコナーが言った。「最悪の事態が真実だった……、彼女はすっかり僕から遠ざかってしまった……、どれだけ騙されていたのだ……、何て全く盲目だったのだ……、だが、考えたって誰に分かると云うのだ。能天気、自惚れ、役立たず……、これらが全てであり、全てが真実だ……、僕の此の眼が全てを見て来た。だが、これも堪えなくてはならない……、精一杯、男らしく。確かに、僕は惨めな程に騙された」。そして、彼は悲痛な激しさで続けた。「僕には何が残っているだろう。思えば僕はのぼせ上がっていた……、自惚れていた馬鹿がこうして眼を醒ませば、何もかも失ったのが分かる……、だが、悲しんでいても何の役にも立たない……、眼の前には名誉ある労苦の道が沢山あり、名誉ある死に繋がる道筋も沢山ある……、人生の大望は終わった……、今後は世の中からもらうものは何も無い。不運な誕生のこの国を去ろう……、永久に立ち去り、立派に人生を終えるとしよう、……、神よ、直ぐにお聞き届け下さい……、僕が愛した唯一の人から遠く離れ……、僕を裏切った女性から離れて」


 足を進めながら、こんな考えがオコナーの脳裏を曖昧かつ漠然と、素早くよぎった。しかし、機械的に向かっていた『雄鶏と錨』亭に到着する前に考え直し、尊敬すべき友人、オードリー氏の家の方向に進路を変えた。氏は全ての宿屋に頑迷な偏見を抱いていて、それらは例外無く、湿ったシーツ、南京虫、枕探(盗っ人)リウマチ熱[1] 等に取っての、特別な聖域であると主張し、既に週極めの下宿に身を落ち着けていた。


「ふっ、ふーん、馬鹿な子だ」と、オコナーの沈鬱で熱烈な言葉に対し、老独身者がかなり力を籠めて叫んだ。「馬鹿げた話だ、愚劣だ、不条理極まりない……、そんな風に続けられたらこっちが気塞ぎになっちまう……、一体全体、外国での軍務や外国の墓に何を望むのだね……、私がここにやって来たのはその為だと思うのかね、間抜けめ……、くだらん、くだらん……、お前さんや、他の若造どもと同様に、恋愛が何かは私も知っている。言っておくが、私だって恋に落ちた事もあれば、振られた事もある……、そうさ、振られた時には、振られた事をしこたま考えたが、生きているのか死んでいるのか、悲しみに沈むばかりで、何も事態は良くならなかったものさ」。ここで、小柄な紳士は無鉄砲にも拳骨でテーブルを叩き、両手を膝丈ズボンのポケットに突っ込んで、椅子から立ち上がり、厳粛な足取りで部屋を歩き回った。「もしもレッティ・ボドキンに会った事があれば、きっとお前さんも愛とは何かが分かっていただろう」。氏は息をひどく荒くしながら続けた。「レッティ・ボドキンは私を振ったが、私はそれを克服した。私はカミソリも、大砲の弾も、外国での埋葬も求めなかった。その代わりに、私は実業家らしく、こつこつ帳簿を付け、会社の会計で多額の延滞金を増やし、憤りを発散させたよ……、そうとも、恋やつれの三週間に、私は刺激材料の無い一般男性が一年間で為すよりも、勘定や簿記で上手い具合にやったのさ」。ここでまた間があり、氏は声を和らげて続けた。「だが、レッティ・ボドキンは並の女性ではなかった。ああ、こん畜生、お前さんが彼女に会っても、ものにする事も繫ぎ止める事も出来なかっただろう……、彼女に出来ない事は無かった。私の男性用胴着(ウェストコート)に刺繍をしてくれた……、ャッホー、緋色のゼラニウムとパセリの葉だ……、それに彼女は、まるで……、まるでバネ板の様に踊ったものだ……、池の中のアヒルみたく滑る様にメヌエットを踊り抜き、「サー・ロジャー・ド・カヴァーリー[2] 」を跳んだり跳ね回ったりして踊ったさ、鉄板の上で熱せられた栗の実の様にな。それに彼女は歌も唄った……、ああ、その歌声たるや……。コキジバトやツグミ、それから、凡ゆる種類や大きさの鳥の鳴き声を私は聞いた事があるが、「背が高く魅力的なキャプテン」や「恋に焦がれる女羊飼い[3] 」の歌声には、小夜鳴鳥(ナイチンゲール)も及ばなかったものさ」。そして、ますます熱狂的になりながら続けた。「何時何処であろうが、彼女と半時間も一緒に、立ったり、座ったり、歩いたりして、年寄りの馬鹿みたいにならぬ男はいなかった……、彼女は私と同じ位の年齢だった、もしかすると一、二歳上だったかも知れない……、もうかなり変わってしまっただろうかな……、ヒャッホー」


 これだけ述べると、オードリー氏は瞑想状態に入り、そこから、記憶を振り絞って、覚えている「背が高く魅力的なキャプテン」を歌おうと、気が遠くなりそうな、かなり骨の折れる努力を始めたので、オコナーは老紳士の許を去り、仮住まいの宿に戻り、虚しい思い出、後悔、それに絶望の、眠れぬ夜を過ごした。


 先に描写した、劇場で起きた幾らか騒々しい場面の翌朝、メアリー・アシュウッドは何時も通り、父親のリチャード卿の化粧室で静かに憂愁に沈んで座っていた。准男爵は階下で朝食を取れる程に元気を取り戻していなかった。もっとも、当時の朝食はとても早い[4] ものだった。珍しく長い間黙っていた後、老人が急に娘の方を向き、ぶっきら棒に言った。「メアリー、もう何日かアスペンリー卿の事を見知って来ただろうが……、卿の事をどう思うね」


 その質問に少なからず驚き、娘は視線を上げ、今聞いた事が本当だったのかどうか(いぶか)しんだ。


「おい、アスペンリー卿のお人柄に就いて、もうそろそろきちんとした判断が出来る様になっただろうと訊いたのだ……、どう思うかね……、気に入ったか」と、リチャード卿が続けた。


「本当の処、お父様」、とメアリーが答えた。「卿の事は余り注視していませんでした……、とても尊敬に値する人物かも知れませんが、何か意見を言える程には未だ十分お付き合いしていません。それに、もしそれが出来たとしても、私の意見は卿や他の誰に取っても、ただのどうでも良い話になるに違いありません」

 

「この点に関してのお前の意見は」と、リチャード卿が厳しい口調で応じた。「どうでも良い話にはならんだろう」


 再びかなり長い沈黙が続いたが、その間にメアリー・アシュウッドは、父親の今の短い話や、その口調が、実に不快な疑念を抱かせるものだと、たっぷり熟考する暇があった。


「アスペンリー卿の物腰はとても感じの好いものだ、とても」と、リチャード卿は黙想する様に続けた。「実際、魅力的だと言っても良いだろう……、とってもな……、そうは思わんかね」と、卿は娘の方を向いて、ぴしっと付け加えた。

  

 これはかなり当惑させられる質問だった。その娘はアスペンリー卿を軽薄な老伊達男としか考えた事が無かった。だが、そんな事を言えば父親を怒らせるのは明白だ。そこで彼女はこの様に込み入った場合の、単純極まりない方便を採用し、困った様子で沈黙を保った。


「実は」と、娘の顔をしっかり見る為に少し身を起こしながら、リチャード卿がゆっくり(いかめ)しく言った実はだなこの件に関してはっきりとさせておいた方が良かろう儂はお前がアスペンリーの事を好く思ってくれる様に願っている要するにお前が卿を好きになる事が儂の願望であり喜びでもあるのだ。言っている事が分かるかね……どうか理解してくれこの言葉は、相手に誤解されない様に強調を加え発せられ間を空けて更にけられ差し当たり急いで向かって、楽しんで来なさい……そして……しばらくいて……閣下に昔の段庭(テラスガーデン)お見せなさい……宜しいかねさあ、もう一度言う早く行きなさい


 そう言うと、老紳士は冷ややかに娘から顔を背け、振鈴(しんれい)激しく鳴らした過ぎ去った全て余りに驚くものだったので、自分が何をしていたかほとん分からぬままメアリー・アシュウッドは部屋を離れたが何処に向かって何をするのかはっきりとした考え無かったそんなだから、ホール入って最初に出会ったのがアスペンリーそのだった時にも、彼女の混乱未だとても解消されてはいなかった。卿は三角帽子小脇に抱え幅広レースの襞飾りを直していたが、これ程までに醜く見えた事は未だかつて無かったメアリーが広い階段を降りて来る間彼は彼女のの方に立っていて口が裂けそう程に大口を開けて微笑み、これ以上無い深々と騎士のお辞儀をしたが、その骨と皮ばかりのレモン色のそして冷ややかでキラキラとした彼女の方に向けた……メアリーは思った人の形状がこれ程までにうずくまった痩せヒキガエルに似通う事は不可能だと


[1]  溶血性連鎖球菌の感染に因って起こる全身性炎症疾患。上気道炎に始まり、関節炎や心炎に至る。

[2]  イギリスのカントリー・ダンスの一つ。向かい合った二列(の男女)が踊る。名前は『スペクテーター』誌に載った随筆の架空の人物に由来。狩りで追われる狐の様にスキップし続ける。

[3]  どちらの曲も調べて見付からないので、多分、作者の創作タイトル。キャプテンは、大尉か船長か

[4]  一説には、当時の貴族の朝食は六時から七時頃だったと云う。