ふるさとはもうない。 | 幸せに気づく日記

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音楽と、物語と、なにか大切な幸せなものについて。

昨日、いつも通っている線路沿いの田んぼ道が来月から工事で通行止めになるという看板が設置された。
車道を通らなくて良いから一番安全な道だったけど、
区画整理に伴う工事で、ついに通行止めになる。

その前にもやっぱり田んぼの中の道が通れなくなったし、
酷いなと思ったのは、
子供の頃に習字に通っていた道沿いの小さな祠がある日突然亡くなってしまった事。

なにか特別な神様が祭られていたわけではないかもしれないけど、
小さな頃からずっとあって、神様がいるところって思っていたのが、
移転もなにも、案内なくつぶされてしまった事にショックを受けた。
同じ町内だからお知らせぐらいあっても良いのに。
そのまえにあったイチョウの巨木も切り倒されて、近くの企業の駐車場になっていた。

自分の住んでるところも道路の拡張にともなって移転せざるを得ない。
それは昔から知らされていたけど、正直、この年齢になって、そういうことでごたごたするのも面倒くさい。
移転先は決まっているから、そこに自分が死ぬまで暮らす空間を作れれば良いと思う。

自分はあまり地元意識はなくて、あまり知り合いもなく、近所付き合いもないけど、
子供の頃から知ってる近い年代の人達をたまに見かけることがある。
自分の同級生のお兄さんは3つぐらい上で、早朝家の庭に椅子を出して座っていたり、犬の散歩をしてたりする姿を見かけるけど、3つ上なのにえらい老人に見えて驚く。
子供の頃はスポーツマンって印象を持ってたけど、もしかしたら病気でもしたのかもしれない。

うちから線路を越えた農家の人は4つか5つ上だけど、この前救急車が来て運ばれていった。
今は病院に通っているみたいだ。
そう歳も違わない気がするのだけど、4つ、5つというのは大きな差なのかな。
自分がその年齢になったころに、救急車で運ばれることがまだ想像できない。

昨日は電車に乗って帰ったのだけど、駅のホームで老人たちが、歳をとって歩けなくなった、という話をしていた。
70才、80才ぐらいだろうか。

自分もその年齢になったらそういう話をするのか。
そんな先の話でもない。

***

HARUKAZEで、この宇宙をふるさとと思えばよいと言われて、
確かに広い視野でみたら、そうなんだろうと思った。

そこから見たら、自分の存在なんてちっぽけなもので、自分の目からみた蟻と変わることはない。

だけど、やっぱり自分には自分という意識があって、
その時々で感じるものや、思う事がある。
歳をとったから、そういう事に気が付いたのかもしれない。

だったら年齢を重ねることも、そう悪いことでもないと思う。

***

神様の祠が壊されたときに、
自分はふるさとがなくなったと感じた。

でも、まだ自分は生きているのだから、ふるさとは無くても、どこかに自分のよりどころを見つければ良いのじゃないだろうか。

だから出逢いを求めてる。