【モブログ】妙本寺  | いろいろといろ

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 8月13日は台風8号メアリーのおかげで、外出は整体と1週間分の買い物だけで終わりました_| ̄|○。

 

その分、本日はフル稼働。

午前中、二宮くんと満島ひかりちゃんが主演している「TANG」を見に行き、山手横浜西洋館の百日紅を見に行きつつ、いざ鎌倉。

 

ぽってりフラワー百日紅

 

 

 

一本だけなんですが、背後の緑と調和して、存在感があります。

 

 

 

 


 

本日の「鎌倉殿13人」は比企一族が北条氏に討たれる回でした。

 

今日の紀行は名越切通と妙本寺

 

本覚寺から距離があるのかなと思ったら、本覚寺の前の恵比寿橋を渡るとすぐ総門が見えます。

 

 

 

 

 

 

屋敷跡は祖師堂に向かいます。

 

 

祖師堂

 

今、改修を始めるようで足場が組まれていました。

真正面の欄間(というのかな?)

 

 

 

技術を持った人が限定されるし、時間がかかりそうです。

 

祖師堂の左手には日蓮上人

 

 

 

日蓮宗のお寺になった由来が妙本寺さんのサイトにありました。

(抜粋)

比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。

 

日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。

(抜粋ここまで)

出典:妙本寺由来

 

本殿に行くまでに「長興」とあったのですが、能員氏の法号だったんですね。

 

祖師堂の右手の手水舎があり、その背後の左側に見えるのは、比企一族のお墓だそうです。また、右手の大きな石碑は焼け跡に残っていた源頼家の嫡男一幡の袖の塚だそうです。


※今回、午後に出向いたので、午前中に鎌倉にくることがあれば、きちんと見ようと思います。

 

 

妙本寺の本殿に続く階段


 

鐘楼

 

本殿

 

鬼瓦をよく見たら、源氏の家紋 笹竜胆によく似ています。

 

御朱印もいただいてきました。

※新型コロナ感染症対策のため、書置きで拝受しました。

初穂料300円。

 

 

 

それにしても、中世からの日本人のまめさがすごいと思います。同時期の海外だと、例えば、フランスの聖バルテルミーの虐殺のときには遺体はかなり長い間捨て置かれたようです。宗教戦争だったこともあって、どちらも引き取らなかったのかもしれません。

 

#宗教の狭間の無縁仏…アセアセ(勝手に想像)

 

フランス革命のときには、ルイ16世、マリー・アントワネットともども共同墓地にいっしょくたに野ざらしになっており葬られており、蝋人形作りに長けていたマダム・タッソーはその墓場でルイ16世、マリー・アントワネットの首を探すことができたほど…(詳しくはこちらの記事で)。

 

ヨーロッパでは18世紀でさえ、「革命」という一大事件の場合はそんな惨状なので、「吾妻鏡」という書籍の中に記録を残し、お墓を残してきたのにはすごいと思うんです。

 

また、鎌倉市の石碑を残した大正時代の鎌倉町青年団の方々もすごい。

 

石碑には大正12年3月「鎌倉町青年団建」とあるので、関東大震災を生き抜いてきた石碑なんでしょう。大正の「後世までしっかり歴史を残そう」というマインドセットにあやかりたいと最近つくづく思います。