【モブログ】養源院 | いろいろといろ

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 9月4日未明に四国、近畿地方に上陸した台風12号による風雨の中、大河ドラマ観光ツアーを決行。
今回の行先は、淀君が父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に建立した養源院(浅井長政の院号)に行ってきました。

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 明治まで、一般市民は入れなかったお寺だそうです。それもそのはず、将軍家の菩提寺だったそうで、決まった日にご参拝されていたそうです。今も、入り口には徳川家の葵の御紋があります。


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 将軍家のお墓があるのは、東京の増上寺じゃないかと思っておりましたが、なぜ、そうなっているのでしょうか?




 その後、火災に遭って一部焼失したのを、淀殿の妹で、二代将軍・徳川秀忠に嫁いだ小督(於江与・江)が、落城した伏見城の遺構を移築して再建し、以後、徳川家の菩提所となったそうです。再建された時期は、徳川秀忠と崇源院との娘・徳川和子(後の東福門院)が、後水尾天皇に入内(元和6年・1620年)した翌年。その後の養源院は、東福門院の要請で兄の3代将軍家光により守られ、歴代京都所司代のお役目に引き継がれれていったそうです。

 展示してあるものは意外にも、豊臣のゆかりのものばかり。伏見城の中の御殿を移築したものだそうですが、豊臣秀吉の修養の場とした部屋、石川五右衛門が盗みに入ってとらえられた部屋、そして、秀忠、江、家光そして以降の15代将軍の位牌がならんでいる部屋。豊臣と徳川の結びつきを感じられるお寺です。また、私は確認できませんでしたが、江と夫の2代将軍徳川秀忠の位牌には、天皇家を表す「菊」、徳川家を表す「葵」、豊臣家を表す「桐」の3つの紋が刻まれているのだそうです。


 また、淀君、秀頼の肖像と江の肖像もこのお寺に保管されていました。淀君と秀頼の死後、彼女の妹たちは亡き姉と甥を供養していたのかもしれません。当時の現物なので、夏の陣での壮絶な自刃後、この絵を見る人たちの悲しみのようなものをひどく感じてしまいました。

 外にあるのは樹齢40年のヤマモモの木。この木はなんと豊臣秀吉がお手植えされたものだとか。

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ご参考:
養源院のヤマモモ


 さて、この養源院の本堂の廊下の天井には、『血天井』と呼ばれている廊下があります。徳川家康が会津攻めに向かったその後を守っていたのは、鳥居元忠ひきいる2000名の家来達。ところが、慶長五年(1600年)7月19日に石田光成は4万の軍勢で伏見城を攻めてきます。20倍もの軍勢に対し14日持ちこたえましたが、とうとう8月1日、中殿に残った380名余りが自刃しました。


 ところが、その後、その城は9月15日の関ヶ原の合戦まで、石田三成の手中にあったため、遺体をひきとることができず、そのまま放置された遺体から流れ出た血、脂が廊下の板にしみついてしまい、鑢をかけてもとれなくなったのだそうな。

 そこで、鳥居元忠、そのほかの家来達を供養するため、伏見城の廊下をそのまま、養源院の天井とし、これが血天井と呼ばれるものになったそうです。

 鳥居氏の最後の姿がその手足、刀を差しているところまで、くっきりとその痕が残っています。9月、石田軍を倒し、伏見城に入った徳川軍は、伏見城を守った兵士達、鳥居元忠のすさまじい死にざまをどんなふうに思ったことでしょうか。

『戦乱のない世の中を』と願う江の気持ちがうかがいしれるような・・・。

大河ドラマのように、くどくどと口に出して言っていたかどうかはわかりませんが、当時の人たちの思い、悲しみを感じることができます。

 でも、人間は物忘れがはげしいのか40年ごとに繰り返し同じ過ちを繰り返して生きるものだなぁと、江戸時代が終わったあと、日本が仕掛けた戦争を思った1日でした・・・。

■関連リンク■
養源院(ようげんいん)