「自分がどうしたいのか」が分からない事に気が付いていない場合 | 狭間和恵の人生を創造する数秘とコンサル【野生児的人生の歩き方】東京・品川

こちらの記事の続きです。


「良かれ」と思って、いる時は、自分が置き去りな時 


良かれ、と思って。。。と言っている時は、自分自身が我慢していたり犠牲になってる気持ちがある事が多い、と言う事を書きました。
「良かれと思って○○したんだけど、文句言われちゃってさ。。。(せっかくやってやったのに。ブツブツ)」みたいな感じですかね。


相手や状況など、自分とは別の物のために
「こうした方がいいだろう」と、自分が思ってした。
と言うことですよね。
そして、報われなかった時に、なんだか理不尽な気持ちになっている。という状況です。



空気を読んだ、とも言い換えられると思います。
往々にして頼まれたわけではない場合が多い。


こうしてあげたら喜ぶんじゃないか?
うまく行くんじゃないか?
感謝されるんじゃないか?


と思ってしてみたけれど、そうはならず、逆に文句を言われたりスル―されたり。

他にも、迷惑かと思って連絡しなかった、とかやらなかった、とかいう場合もあると思います。



そして
今度は自分が文句を言いたい気持ちになっている。





グーグル先生に聞いてみました。

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他人の意見を無視して、自分だけでよいと思い込んでいること。また、そのさま。どくぜん。「―な(の)言動」
【独りよがり】

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独りよがりだそうです。


相手がある事なら聞いてみればいい事ですよね。
そして、そもそも、なぜそう考えて行動をしたのか考えて見ると、自分の気持ちが出てくると思うのです。
やらないと言う選択肢もあったはずなのに、する、としたのはなぜなのか?




喜ばれたいから。
文句言われたくないから。
感謝されたいから。



など、「自分がやりたかったからやった」と言うことが出てくると思います。
でも、そうならなかった。
つまり、予測が外れたわけですよね。


そして、これはもうしょうがないというか、人それぞれ違うので、自分の中のこうすればこうなる、は、人も同じとは限らないということだし、むしろ迷惑な事もあるということでもある。
なのでね。
相手に聞かないのなら、変に深読みしたり良かれと思って無理をしてもしょうがないと思うのです。
それよりも自分の為には、ではあなたはどうしたかったのかと言うところが大事なんじゃないのかな。




自分がどうしたいのか?

と自問自答した時に、他人や状況の事ばかりで自分の気持ちが出てこない時は、もう選択の全てが「外側が基準」になっている可能性があります。


例えば
「何が食べたい?」

と言われた時。
子供のように、毎日でも、ハンバークWハートと帰ってくるのは自分が基準
とっさに、朝パンだったから…じゃあご飯もの?となるのは、外側の基準
それとも、あなたは何が食べたいの?と、相手ありきで考える?
自分が今何を食べたいのか?は置き去り。

結局ご飯ものや相手の食べたいものを食べるにせよ、
サンドイッチが食べたい。でも、朝パンだったので二番手のかつ丼にするか。
とか
パスタが食べたかったけど、あなたの食べたいうどんも悪くないね。
とかだと楽ちんなのかな、と思います。


とても小さなことだけど、自分が選んだと知っているのと、やらされた(選ぶ余地がない)と感じているのとの違いなのかな、と思います。



人に合わせる場合も、自分が合わせたくて合わせているのと(自分で選ぶ)合わせるしかなくて(と思っている)合わせているのとでは、気持ちの負担に大きく違いがあるのだと思います。
さらに言えば、表面的にはやらされた、と思っている事すら、本当にはそんな事は無くて、結局自分が自分で、何かのメリットがあってそちらを選んでいるはずなんですよね。
(命がかかっているとかの場合は例外)


じぶんがどうしたいのか?って、小さなころから外側の基準で生きてきたりすると、麻痺しててわからなくなっていることが結構あるのです。



じぶんがどうしたい?ってなんだろう~???え?


みたいな(笑)
いや、笑えないですよ、これ。

そうなっている時の共通点は、自分に責任がないことですね。
その選択が良くない方向へ行った時、必ず自分以外に責任がある。
そんな楽さを同居させています。



そしてね。
こんなこと言ったら身も蓋もないのだけれど、私はどっちでもいいんじゃないかな、と思ってます。
嫌な事や理不尽な事が多いけれど、責任は全て外にある、という楽さを生きても、自分の想いを汲んで楽しく生きているけれど、何かあれば自己責任、という生き方でも。

結局は、自分がどう生きて行きたいのか?と言うところに着地する。


自分の人生だもん。好きに生きて行ったらいいよ。


究極、こんな思いが根底にいつもある。



※2016.1の記事をあげています。