迎え酒をいつからするようになったのかは定かではないのですが、それを抵抗なくするようになっていた時にはすでにアル中になっていたのです。AUDITの項目にも迎え酒をするしないが項目として挙げられています。
まだ酒を飲み始めて間もないころから、私はしばしば深酒をしていました。当時から飲みだしたら止まらなかったのです。当然二日酔いに苦しめられるのですが、そこで「迎え酒をしたらいい」と言ってくれる人がいました。しかし、当時の自分は「酒の飲み過ぎで苦しいのにそこでさらに酒を飲むなんてとんでもない」そんな風に思ったものです。当時の私は実にまともな感性を持っていたのです。
しかし、毎日酒を飲みほぼ毎日二日酔いになるようになってみると、感性もぶれが出てくるようです。かつては体調が悪いから酒は控えようなんて思ったものが、風邪をひいたら酒でうがいをし、腹が痛いと思えば酒を飲んで温めようとするようになってくるのです。そして二日酔いで気分が悪いのも酒を飲めば、よくなるとは言わなくても、気分の悪さがを鈍らせることができるのでは、とつい思ってしまうのです。
そして二日酔いに対して迎え酒をします。その結果、すべての感覚があいまいになって、二日酔いで気分が悪かったはずが、すべてがもうろうとした状態になります。それで、とりあえず自分が二日酔いで気分が悪かった、という事実を自分の中でごまかすことができ、二日酔いには迎え酒が効くという「実績」を得ることになります。そうなれば、若いころの逡巡などはどこへやら、二日酔いとなれば迎え酒になってしまいます。
酒の効果を冷静に考えれば、二日酔いという酒の結果を、迎え酒という酒で、制することなどできるはずもないのですが、二日酔いという酔っ払いにはその冷静な判断すらできなくなっているのです。そして二日酔いはほぼ朝の現象であり、それに対する迎え酒は、朝酒になるのですが、朝酒という行為に対する倫理的抵抗もどこかにおいてしあっているところもアル中の行動そのものなのです。
そして、何もなくてもいつも飲みたいアル中にとっては、迎え酒という言葉も、朝酒を正当化して飲むためのキーワードにしてしまっているのでした。
まあ、迎え酒を臆面もなくするようになてしまったとき、アル中はかなり進行していることは間違いありません。
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