てるさんのしあわせイノベーション -951ページ目

CSRにおける責任の意味

CSR=Corporate Social Responsibilityは、社会から押し付けられた「責任」ととらえるよりも、社会への「応答(レスポンス)」する能力と考えるべきだと思う。

「責任」と考えると押し付けられた義務のように考えがちだが、英語の”Responsibility”の「責任」にはよりポジティブな意味が込められているようだ。


「ラテン語入門 言葉の歴史をたずねる旅」というWEBサイトに面白い記述があった。
http://www.kitashirakawa.jp/taro/eigo49.html

「責任」という日本語に対応する英語としては、responsibility が思いつく 。この言葉の語源はrespondere(レースポンデレ) というラテン語で、意味は「応答する」というものである。車やバイクのアクセルの「応答性」がよいことを「レスポンスがよい」というが(英語では responsive という)、この response という英語も、ラテン語の respondere が語源である。アクセルを踏むと車がすっと前に出ていき、ゆるめると車は減速する。同様に、ある行為を行うと、その結果が必然的に伴い、行為を行わないと何の結果も生じない。両者にはイメージの共通性が見られる。

「責任」という日本語は、どちらかといえば「義務」という意味で用いられるが、英語の responsibility は、今述べたように、アクセル、ブレーキ、ハンドルをコントロールするドライバーの「責任」をイメージした方がわかりやすい。すなわち、responsibilityは、その語源に照らせば、自分の意志を忠実に反映した自由な行為というイメージと結びついている。

たとえば、車のハンドルを握る人は、安全に運転する「義務」とともに、運転の「自由」と「喜び」を感じることができるが、電車に乗るとき、乗客に安全運転の「責任」はない。それゆえ昼間から車内で居眠りすることもできる。このように「責任」を伴わない行為は、「安全」であるが、面白くない。このことに関連してバーナード・ショーは次のように述べる。「自由とは責任のことだ。だから人は自由を恐れる("Liberty means responsibility" That is why most men dread it.")」と。
以上の言葉の分析をふまえ、わたしは、政治や教育についても、個人の「責任」の所在を問題としたい。政治不信を言う前に、政治を人任せにしていないだろうか。学校教育への不満を訴える前に、教育を人任せにしていないだろうか、と。政治家の無責任を言う前に、有権者の低い投票率が問題なのである。「自分一人くらいどうってことない」という意識は誰にでもある。しかし、その意識が観光地の空き缶の山を作るのではないだろうか。同様に、有権者の多くが「自分一人くらい」と考える癖がつくと、政治の世界にもたくさんの空き缶の山が出来上がるのではないだろうか。
日本が立派な国になるためには、国民の一人一人が「責任」という言葉の意味をよく考える必要がある。かのチャーチルも「偉大さの代償は、責任だ(The price of greatness is responsibility.)」と
述べている。繰り返すが、英語の発想において、「責任を取る」とは謝罪を意味するのでもなければ、義務の遂行を意味するのでもない。むしろ、各自が自分の判断で自分の行動を律する態度を意味している。まずは、ひとりになって考えることから始めたい。自分流の生き方、物の考え方、感じ方を確かめるために。

ここからも、CSRとは押し付けられた義務として、受動的に果たすべきものではなく、もっと主体的・能動的に行なうべきものであることがわかる。


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