さて。


以前も書いた…またまた津久井城のお話。

野球シーズンが終わると、毎年行きます。


手前、津久井湖。正面の山が津久井城…

全山が要塞化されてたと云う。

 


上の写真、津久井湖側の北面から。

下の資料館のイメージ図は逆の南面から。


戦国北条氏の山城です。

津久井城は武田信玄・甲斐国との国境線付近なんで極めて重要な城ですが…な、なんと、

続・日本百名城には落選!!…無念です。


他の重要な城、例えば付近の八王子城の城主は北条氏照、一門衆ってヤツですね。

津久井城は重要な城なんですが、城主は一門衆ではなく内藤氏…ここ重要です。


あれが津久井城山…不思議なのは…


毎年、登るごとに山が険しくなってる気がするんですよね、なんでかなぁぁ…笑。

今回、北側の津久井湖湖畔駐車場に車を止め
南側の根小屋地区の発掘現場へ。山裾周回コースを歩く。

津久井城は根小屋式山城と言って、これは山頂付近に戦闘用防御施設がある訳ですが、平時は裾野の住居、つまり根小屋で暮らす。

パークセンター資料館の模型

この山裾が城主屋敷含めた居住エリアです。
南向きですから陽当たり良好!こちらが城の
正面、大手口に当たるのかな、多分。

山裾周回コースにて。

上の模型で言うと山の左下裾野あたりです。
さらに進み、根小屋地区パークセンター。


なんか…地元のお祭りか。今回の11/24発掘調査公開もこのお祭りとの連動企画です。しかし、お祭りの方は全く興味ナシ…スイマセン!

祭り会場を突き抜けて、奥へ奥へと進む。
看板があった。。


しかし…現地説明会って名称はなぁ…。
なんか建売住宅ぽくないすか…笑。

発掘調査現場が見えて来る。


池跡!!…ここでアドレナリン急上昇!!

北条氏城郭研究において、庭園って今、トレンドなんですね。八王子城や、本城小田原、鉢形城等の重要な城で池を含んだ回遊式庭園が発見されてます。

北条氏の権力構造のシンボルとか、そこにおける上方文化の影響とか、さういう研究がされてる訳でして…津久井城にも庭園があったらしいという噂は聞いてましたが…その発掘調査だったのかぁ!!

しまったぁぁ…毎年公開してるのに…怠けて今まで来てなかった。後悔先に立たず。。

説明開始まで時間があったので、そばにいたベテラン発掘員のオジサンに色々と聞く。

庭園跡というのは確からしい。土器と書いて、かわらけと読む…そういう酒器が発見されている。小田原城からきてるとのこと。

当日の説明配布資料より

池はベンチのあたりまであったらしい。池跡は特定されたので埋め戻ししてます。

もう一度、現場写真。


正面山が借景になるらしい。そこに川が流れていて水音も聞こえる…つまり池越しに山と月を眺め、川音に耳を傾け…酒を飲む。

いいすねぇ、堪らんなぁぁ…これは…笑。

ちなみに正面借景の山が南側、山頂防御施設等は背後・北側となります。

色々と不思議なこともあるらしく…


通常、例えば八王子城だと北条氏照の屋敷、
御主殿と呼ばれてるのですが、そことセットで庭園は作られてます。しかし上図だと御屋敷と庭園が結構離れてる。こういう類例は近隣では無いらしい。

確かに…謎ですねぇ。。

この↓写真が馬場の上。この馬場の下に御屋敷があり、庭園はずっと左下の方です。


眺めいいですよねぇ…遠く丹沢を望み、信玄との激戦地、あの痛恨の三増峠古戦場もすぐそこに見えます。

説明会開始。学芸員の方が丁寧に解説。


池というのは水生植物化石が出るので池と特定できるらしい。現在の発掘調査のステイタスは池は特定できたので、池と借景位置から、それを眺めるための建築物の位置を類推して掘りまくってるみたいです。


まだ直接的な建築物発見には至って無いようですが、建築物に伴う玉砂利とかは発見されてるとのこと。ここも、微妙に謎か。

非常に興味深かったのは、この池や遺構は埋められてるらしい。直上の地層からソレは断定できるらしく…1590/天正18年に秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡する訳ですが、その時に、内藤氏が防御陣地構築等々で、庭園を埋めたのではないか、と…。

なるほどぉぉ…なんか…見えてきた。

説明会終わりで質問コーナーありまして…自分も初歩的な質問をしてみました。それは庭園造作において、池と建築物のどちらが前工程かということなんですが。

答えは池が前工程。…ですよねぇ。
掘り上げた土の処理もあるし、その土で築山とか作るかもしれんし、当地では築山は不要そうですが。

自分の考えた仮説というか、思いつきは…

この津久井城庭園は未完成のまま天正18年前に埋められたのでは…ということです。

とすると…もし今後、本格的な建築物遺構がでなくても、矛盾しないと思う。前工程の池は完成してる訳で。

もう少し詳しく解説すると…内藤氏が庭園文化を独自創造して、大北条王国の北条氏がソレをコピペすることは考えられない。

逆ですよね、内藤氏が北条氏をコピペ。権力構造からもそうなる。で、近所の庭園がある北条氏照城主の八王子城は、確定はされていないのですが、1582/天正10年頃から15年頃にかけて築城されたと言われています(八王子城オフィシャルサイト)。氏照はもともと滝山城城主でしたが、諸々の問題で八王子城築城・移転を決定。

天正10年に八王子城着工開始として天正18年に北条氏が滅亡…もっと言えば天正18年の前年には名胡桃城事件で秀吉と北条氏は手切れ…。

この短い期間に津久井城庭園が造られたと仮定すると、未完の可能性もかなりアリかと思います。八王子城庭園が完成に近づき、その庭園という発想を真似て、後追いで津久井城庭園着工なら完成せず時間切れの可能性大では…。

確かに、庭園が未完で何故、かわらけが出土するのか、という問は成立するかもですが…それはですねぇ…ともかく池が完成すれば、まずは一献、飲むか、つう話にならないですかねぇ…普通そうなる…笑。

なんか非常に魅力的な仮説な気が我ながらするのですが…笑…残念ながらこれは実証できないんですよね、多分。

考古学的な出土品からの年代特定って、一年単位とか二年単位とかでは不可能。もっと長いスパンになってしまう。立証するには史学的な文献アプローチが必要になる訳ですが…現状、津久井城庭園に関して記載された文献は一切、発見されていないらしい。

やはり、古城址はロマンの塊ですねぇ。
興味が尽きることナシ、です。


■昨年の調査終了報告はコチラ

上記、発掘調査主体の相模原博物館のブログです。で、当稿もいよいよ核心に入ります。二回に分けないですよおお…長いけど…笑。
上記ブログに極めて興味深い記載アリ。

※引用※
この場所で調査を長年継続している理由は、城域の外れで池を伴う庭園跡が発見されたからです。正に思いもよらないところから、予想外の遺構が発見された状況です。小田原北条氏の城館で、中枢の屋敷跡に伴う庭園遺構の発見は近年増えてきていますが、庭園に特化した平場の空間(曲輪 くるわ)、庭園のためにつくられた曲輪は例がありません。こうした城としての軍事施設とは関係ない曲輪を、里山ならぬ「山里曲輪」といいます。その起源は、織田信長の岐阜城や安土城に端を発しているといわれ、実際、岐阜城では庭園の曲輪が発掘調査されています。※引用終わり※

山里曲輪って言うんですね、屋敷と独立した庭園は。岐阜城や安土城に類例が見られる。つまり上方圏の先進事例か。なるほど。

なんか…またまた…見えてきたぁぁ…。

昨年1月の小田原でのシンポジウムを聞きにいってたのですが…そこで確か小野正敏教授の講演だと思うのですが…八王子城庭園と秀吉の聚楽第との建築手法の類似性が述べられていた。上方の庭園技術者の八王子城庭園造りへの参画可能性にも言及。

移動性の高い技能集団って、網野ワールド的で非常にインパクトあり、よく憶えてます。

もし仮に…そうだとするとですよ…

八王子城庭園に参画した上方技術者が、津久井城の庭園造りの初期設計段階にも参画していた可能性も…そして、山里曲輪という最新コンセプトを持ち込んだ…。

う〜ん、なくはないかなぁ。

近所の現場だし…この城で庭園ってどう?
と問われ…実は今の最新トレンドに山里曲輪というのがあるんですよぉ、内藤様…

とかとか…そんな会話があったのかも。。

ともかく、津久井城庭園は八王子城庭園以降の造作の気がするんですよねぇ。そして未完のまま歴史の闇のなかに埋められた…。関東北条王国の最晩期における幻の庭園…。秋の夜長に妄想はエンドレスなのでした。。

説明

説明名胡桃城