忍城(武蔵国・埼玉県行田市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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本当かなぁ・・・(笑)
ブログを始めたきっかけは、以前の仕事関係の仲間から勧められたことですかね・・・。
まさかこんなに長く続くことになるとは・・・。

さて今回は、現在の埼玉県行田(ぎょうだ)市にあった城、忍(おし)城です。
忍城は、続日本100名城の1つ(118番)に選ばれています。
また、2012年(平成24年)公開の映画「のぼうの城」の舞台としても有名ですね。

今回12年ぶりに訪問しましたので、当時のブログを再編する形でご紹介します。



忍城跡は現在、行田市郷土博物館や水城公園となっていて、秩父鉄道の行田市駅南口から徒歩15分程度で行くことができます。


行田市駅南口。
秩父鉄道秩父本線が乗り入れています。
行田市役所の最寄り駅で古くからの市街地にある駅ですが、JR高崎線の行田駅に比べて利便性が劣るためたか、利用者はあまり多くありません。
2022年(令和4年)からPASMOが利用可能になった際に無人駅となりました。

行田市は人口約8万人で、足袋(たび)の産地として有名です。
2006年(平成18年)には北埼玉郡南河原村を編入合併しています。


水城公園。
忍城の外堀跡を利用して整備された公園で、大きな池が特徴です。
春には桜、夏にはホテイアオイの花が楽しめる、市民の憩いの場となっています。
詳しくは↓↓
https://www.gyoda-kankoukyoukai.jp/spot/931


しのぶ池。
水城公園の中でも特に大きな池の1つで、釣りを楽しむ人々が多く見られます。

1847年(文明10年)頃に成田顕泰が築城した忍城は、広大な沼地に転々としていた島に御殿や櫓を建てて、橋でそれらをつないでいました。


公園内の通路。
当時もこんな風に土橋が設けられていたのかなぁとか想像しながら歩きました。


芝生の広場。
桜の季節には多くの花見客が訪れるのではないかと思います。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、石田三成率いる軍勢が28キロにもなる石田堤を築いて水攻めをおこないました。
当時、城主の成田氏長は小田原に参陣していて不在でしたが、城代の成田泰季ら残った家臣や農民、町人などが忍城に籠城して城を守り抜きました。
結果、小田原城が先に落城したために忍城は水に浮くとされ、「忍の浮き城」と呼ばれました。


時々、土塁跡のような地形がみられますが、遺構なのかどうかは分かりません(汗)


ゲートボール場。
手前に三重櫓跡の石碑があります。
現在の模擬三重櫓は本丸跡に建っていますが、往時の三重櫓は水城公園の一角に位置していました。
往時の忍城は、三の丸よりもさらに外側の郭に天守の代用となる三重櫓が建てられているという、かなり特殊な構造をしていました。


忠堯候 忠国候 御隠居所跡の碑。
1823年(文政8年)に伊勢国桑名藩から武蔵国忍藩へと移封になった松平忠堯(ただたか)と、その弟で同じく忍藩主となった松平忠国が隠居した屋敷があった場所に石碑が建っています。


行田市立忍小学校。
写真左隅に培根堂 洋学館 国学館跡の石碑があります。
忍藩の藩校であった培根堂、洋学館、国学館が、現在の行田市立忍小学校の敷地内にあったようで、その石碑が設置されています。


忍の時鐘楼跡の碑。
現在の冠木門付近に時鐘楼があったようです。


模擬冠木門。
城跡っぽい雰囲気を出すためか、冠木門が設置されています。


このあたりも水堀だったのだと思われます。

1590年(天正18年)に徳川家康が関東入封すると、忍城には家康の四男・松平忠吉が入り、以後は徳川家の親藩・譜代大名が城主となります。


模擬三重櫓。
1988年(昭和63年)に郷土博物館とともに建設されました。
模擬三重櫓の内部には、郷土博物館から渡り廊下を走って・・・歩いていくと入れます。
廊下は走ってはいけませんね。
忍城について詳しくは↓↓
https://chocotabi-saitama.jp/spot/19016


忍城東門水堀。
綺麗に整備されていて、往時もこんな感じだったのかなぁと思わされます。


忍城東門水堀に架かる木橋。
再建された木橋とはいえ、やっぱりあると雰囲気出ますよねぇ・・・。


忍城東門。
忍城内にあった門を移築してきたようですが、どこの門だったのかは不明のようです。


門をくぐった先には、石垣が置かれています。
忍城には三重櫓が一棟、二重櫓が二棟ありましたが、その土台となった石垣の一部が展示されています。

1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が城主となると忍城の城下町の拡張整備がはじめられ、忠秋の孫・正武の時に御三階櫓の建設や城門土塀の修築などがおこなわれました。


忍城の鐘。
この鐘は1992年(平成4年)に造られたものです。
博物館内には、松平忠堯が桑名から移封してきた際に一緒に持ってきた鐘が展示されています。


行田市郷土博物館。
行田地域の古代から現代までの歴史について、様々な展示がされています。
公式HPは↓↓
https://www.city.gyoda.lg.jp/soshiki/kyouikubu/kyodohakubutsukan/index.html


忍城高麗門。
こちらの高麗門は現存の門らしいです。

1823年(文政6年)に阿部氏が陸奥国白河へ移ると、伊勢国桑名から松平忠堯が入ります。
以後明治まで奥平松平氏がこの地を治めます。


忍城櫓の石垣。
こちらも忍城の櫓を支えていた石垣です。
なぜ2ヵ所に分けて展示してあるのかは謎です。


伝 進修館移築表門。
こちらの高麗門は、忍藩の藩校・進修館の表門と伝えられていますが、実際のところは定かではありません。
旧芳川家の表門を移築・復元したということは分かっていて、行田市内で唯一現存している武家屋敷表門ということで、これはこれで貴重です。
なお、行田市内には進修館にちなんだであろう埼玉県立進修館高校があります。


本丸土塁。
本丸の西側に設けられた土塁です。


諏訪曲輪土塁。
案内板もなければ草もボーボーで、とても分かりにくいです。


忍城十五門の内 諏訪曲輪御門跡の碑。
忍城には15個の門があったとされていて、その内の諏訪曲輪御門がここにあったことを示しています。
石碑の奥の駐車スペースは、かつては堀だったそうです。

明治維新後の廃藩置県によって忍藩から忍県となると、忍城は廃城となりました。


忍東照宮の鳥居。
忍諏訪神社の鳥居も兼ねていて、鳥居には忍東照宮諏訪神社と書かれています。


忍東照宮。
忍東照宮は、母である亀姫から祖父・徳川家康の肖像画を受け継いだ松平忠明が、1625年(寛永2年)に大和国郡山城内に東照宮を勧請したのが始まりです。
その後、この東照宮は松平家が転封となるごとに移転し、1823年(文政6年)に松平忠堯が忍藩主となった際にこの地に遷座し、現在に至ります。


忍諏訪神社。
建久年間(1190年頃)に忍三郎・忍五郎家時らの一族によって創建されたとも、成田親泰が1491年(延徳3年)に忍城を築いた際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられています。
忍東照宮とともに忍城の諏訪曲輪跡にあるのですが、諏訪神社があるから諏訪曲輪という名前になったんでしょうね。


忍諏訪神社の鳥居。
諏訪神社の鳥居としてだけでなく、忍東照宮の鳥居も兼ねているように思えます。


田山花袋 田舎教師 ゆかりの料亭の碑。
群馬県館林市出身の文豪・田山花袋の小説「田舎教師」に、魚七という料亭があって、綺麗な女中のいる料理屋と紹介されています。
その魚七があった場所は・・・セブンイレブン行田商工センター前店へと変貌を遂げています(汗)
時代の移り変わりを感じさせられますね・・・。


武蔵野銀行行田支店(国の登録有形文化財)。
忍貯金銀行の店舗として1934年(昭和9年)に竣工した建物で、1944年(昭和19年)に行田足袋元売販売株式会社が建物を買い取り、戦後に足袋会館として利用された後、1969年(昭和44年)から武蔵野銀行行田支店の店舗となっています。
建物の右下には高札場跡の石碑もあります。
高札場は幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書いて、人目のつくように高く掲げておく場所のことをいいます。
高札場については↓↓
https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0222.htm
簡単に言うと、地域の掲示板みたいなもんですね。

さて、長くなりましたが、忍城についてはこの辺で。
最後に、↓↓に映画「のぼうの城」の情報を貼っておきます。
https://eiga.com/movie/55578/

では。


おしろまなぶ。