岩出山城(陸奥国・宮城県大崎市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

急に涼しくなってきて、風邪など引いていないでしょうか?
インフルエンザが猛威をふるっていて、学級閉鎖になっている学校も多いと聞きます。

感染予防には、石鹸(ハンドソープ)を用いた手洗いや、うがい薬を用いたうがいが非常に有効です。
また、こまめな手指消毒やマスクの着用などできる限りの感染対策をとって、感染しないように努めたいですね。

さて今回は、現在の宮城県大崎市(旧玉造郡岩出山町)にあった城、岩出山城です。



岩出山城跡は城山公園として整備されていて、有備館駅から徒歩10分ほどで行くことができます。


有備館駅。
JR東日本の陸羽東線が乗り入れています。
IC乗車券は使えないですし、単線ですし、ディーゼル車両ですし、めちゃくちゃローカルな路線です。
大崎市は人口約12万人で、2006年(平成18年)に古川市と遠田郡田尻町、志田郡三本木町、松山町、鹿島台町、玉造郡岩出山町、鳴子町の1市6町が合併して新設された市です。


有備館正門。
国指定史跡で名勝の旧有備館および庭園の石碑が設置されています。
有備館は仙台藩の学問所で、仙台藩(宮城県)の小学校教育の祖となった場所です。
公式HPは↓↓
https://yubikan.jp/top.html


こちらが有備館の現在の入口です。
月曜日に訪問したので、生憎の休館日・・・。


ということで、有備館の敷地の脇から進んでいきます。


二ノ構橋。
だいぶ立派な橋が架かっています。
ここをさらに先に進んでいくことになります。


内川。
有備館の裏手にある川で、岩出山城の堀としての役割を担っていました。
二ノ構橋がこの川を渡る橋となっています。


玉造郡役所跡・岩出山町役場跡。
江戸時代には馬場として用いられていた場所で、1902年(明治35年)に玉造郡役所が置かれました。
1923年(大正12年)に郡制が廃止されるまで岩出山町や東大崎村、西大崎村、一栗村、真山村、温泉村(後に鳴子町、川渡村)、鬼首村を管轄していました。
現在は駐車場になっています。


岩出山城跡への登城路。
舗装されているとはいえ、結構な坂道を登っていくため汗だくになりました(汗)


南広場へつながる道が見えてきました。


南広場。
南の腰廓跡となっています。

大崎氏の重臣・氏家弾正が応永年間(1394~1427年)に築いた岩出沢城が始まりといわれています。


藤広場へつながる階段。
すごく立派な石垣状の構造物で固められていますが、後世に造ったものでしょうか??

1536年(天文5年)、氏家直益は大崎義直に反抗しますが籠城戦の末に和睦します。


藤広場。
真夏のためかどこに藤があるのか分かりませんでした。


SL広場。
駐車場にもなっているこちらのスペースには、蒸気機関車が展示されています。
しかし、1973年(昭和48年)に設置されてから50年もの年月が経っているせいか、かなりボロボロです。
かつては中に入れたりしたようですが、現在は周りに単管バリケードが設置されています。


SL広場の先に、何やら虎口跡っぽい雰囲気があります。


池の広場。
といっても、すっかり干上がってしまっていますが・・・(汗)
この辺りに東の腰廓跡と搦手口があったようですが、藪が凄くてハッキリ分からず・・・。


本丸跡に向かっていきます。

その後も氏家氏は大崎氏に仕えますが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に大崎氏が参陣しなかったために改易となり、岩出沢城は木村吉清・清久父子の所領となります。


本丸跡。
城山公園の売店がありますが、閉まっていました。

しかし、間もなく葛西・大崎一揆が起こり、蒲生氏郷とともに伊達政宗が平定しますが、伊達政宗が一揆の扇動を疑われて米沢の所領を没収となり、1591年(天正19年)に岩出沢城へ居城を移します。
この際に、岩出沢城から岩出山城へ改められたといわれています。


岩出山城の標柱、案内板など。
本丸跡に並んで設置されていました。


本丸跡。
かなり広いです。

1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いでの功績から加増され、仙台城へ移りました。
岩出山城は政宗の4男・宗泰の居城となります(岩出山伊達氏)。


こちらも本丸跡。
本当に広いです。

1615年(元和元年)の一国一城令以後は岩出山要害として存続し、代々岩出山伊達氏がこの地を治め、明治を迎えます。


岩出山城址の石碑。
苔むしていたり文字が少し読みにくかったりしていて、かなり古い石碑なんだろうなぁと思います。


土砂崩れの影響で、階段の下にある二の丸跡(こども広場、さくら広場など)へは立ち入ることができません。
むうう、残念・・・。


内門跡。
本丸跡と西の腰廓の間に設けられていた門の跡です。
反対側から撮影するべきだったなぁと後悔しています。
その方が一部残されている石垣もハッキリ写ったのに・・・。


西の腰廓にあたる像広場に来て、真っ先に見えるのが、政宗公平和像です。
伊達政宗の像といえば馬に乗った姿の像が有名ですが、こちらは直立不動の像です。
しかも何かやたら白いですし、三日月の前立てが印象的な兜も被っていません。


景色がいいですねぇ。


西の腰廓はこんな感じです。
やはり、右側に写る政宗像が存在感を放っています。
腰廓というには広いなぁといった感じです。


土砂崩れの影響ということで、やはり立入禁止になっています。
残念ですがやむをえません。


階段の下にある二の丸跡を上から見るとこんな感じです。
一番の見所があったはずなので、行ってみたかったですね。

伊達政宗が仙台城へ移る前に居城としていた城跡にしては、整備が行き届いていない印象でした。
駅から遠くはないとはいえ本数が多くはないため、アクセスが微妙なところもあるのかもしれません。
今回は、土砂崩れの影響で行けなかった場所もありますので、またいつか再訪したいと思います。

では。


おしろまなぶ。