伊勢崎城(上野国・群馬県伊勢崎市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

おしろまなぶ の お城を学ぼう

訪問したお城について書いていきます。

明日から12月ですね。一気に冷え込んできて、とても寒いです。ガクブルです(意味違う)。
私のこの時期の楽しみといえば、地元新潟の洋梨ル・レクチェです。


ふるさと納税の返礼品にも選べますし、お歳暮などにも持って来いです。
和梨が苦手な私の家族でもル・レクチェは美味しいといって食べています。

ここまで新潟の洋梨を宣伝しておいてアレですが・・・。
今回は、現在の群馬県伊勢崎市にあった城、伊勢崎城です。

伊勢崎城跡は現在、伊勢崎市立図書館や伊勢崎市立北小学校の敷地やその周辺となっていて、伊勢崎駅南口から徒歩10分少々で行くことができます。


伊勢崎駅南口。
JR東日本の両毛線と東武鉄道の伊勢崎線が乗り入れる、伊勢崎市の中心駅です。
2010年(平成22年)にはJR東日本の、2013年(平成25年)には東武鉄道の駅舎が高架化されていて、まだまだ真新しい立派な駅舎が目を引きます。

伊勢崎市は人口約21万人で群馬県では4番目の都市となっています。
僅かな差で伊勢崎市の人口を上回る太田市とともに、工業都市として人口は増加傾向にあります。


同聚院の武家門。
伊勢崎駅南口から徒歩数分のところにある寺院・同聚院の総門にあたる門ですが、伊勢崎藩初代藩主・稲垣長茂の屋敷門だったといわれており、伊勢崎市の重要文化財に指定されています。
2015年(平成27年)に現在地に移設されるまでは、まさに同聚院の総門といった場所にあったようです。
↓↓のサイトの写真を見ると、そう思います。
http://www.webgunma.com/470/


同聚院。
1159年(平治元年)に三浦義明が赤石左衛門の菩提を弔うために創建したと伝えられる曹洞宗の寺院です。
まだ新しさの見える門は2015年(平成27年)に武家門を移設した際に建てられたものでしょうか?
ところで、赤石左衛門は赤石城(伊勢崎城)を築いたという赤石左衛門尉とは別の人ですよね?一族?


同聚院の本堂。
す、スゴく立派な本堂ですね・・・。思ってたのとちょっと違いました(汗)

伊勢崎城の前身は赤石城といい、戦国時代に那波宗俊が赤石左衛門尉に築かせたといわれています。
1560年(永禄3年)に長尾景虎(後の上杉謙信)は初めて越山して関東に進出、後北条氏の配下にあった赤石城を攻め落とします。
翌1561年(永禄4年)に赤石城は由良成繁に与えられると伊勢崎城と改められ、家臣の林高成が在城します。


伊勢崎市立北小学校の敷地にある門柱。
1873年(明治6年)に本光寺を仮校舎として創立された赤石学校(現在の伊勢崎市立北中学校)が、1882年(明治15年)に校舎を新築した際にこちらの門柱も建てられたのだそうです。
130年近くも前の門柱が残っているのもすごいです。

1573年(天正元年)には、城に火矢が放たれて城内の建物が一部焼失するという事件が発生します。


伊勢崎市立北小学校。
伊勢崎城の二の丸跡に位置するとされています。
2009年(平成21年)に完成した新しい校舎が凄く目を引きます。


旧時報鐘楼。
横浜で貿易商を営んでいた伊勢崎出身の小林桂助の寄付により、1915年(大正4年)に着工されて翌年竣工した時報鐘楼は、1937年(昭和12年)までの間、市民に時を告げいていたそうです。
釣鐘は戦時中の金属供出で失われ塔屋部分も焼失しましたが、戦後に寄棟屋根で復旧され、1990年(平成2年)には伊勢崎市の市制50周年を記念してドーム屋根に復元されました。
詳しくは↓↓
http://www.webgunma.com/394/
城跡の遺構よりも遥かに存在感を放っています。
どこまで竣工当時の部分が残っているのか分かりませんが、鉄筋コンクリート造りの建造物としては群馬県最古ということで、伊勢崎市の重要文化財に指定されています。


下城弥一郎・森村熊蔵の碑。
左が下城弥一郎、右が森村熊蔵の碑です。
2人は明治時代に伊勢崎の織物産業に大きく貢献した人物だそうで、伊勢崎織物協同組合の敷地内に設置されています。
詳しくは↓↓
https://www.city.isesaki.lg.jp/soshiki/kyoikubu/hogo/bunkazaihogo/shitei/shiseki/1747.html


伊勢崎市図書館。
伊勢崎城の本丸跡に位置しているようですが、石碑や案内板なども一切ないのでいまいちよく分かりません(汗)
せめて案内板くらいは欲しいところですが、あまり重要視されてないんでしょうかね??


広瀬川の河川敷に降りて図書館方面を眺めると、確かに城を築くにはいい場所だなと思いました。

関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)、徳川譜代の稲垣長茂が1万石の大名として封じられ、伊勢崎陣屋を構えます。
1616年(元和2年)、2代藩主の稲垣重綱が大坂の陣での功績から越後国藤井藩に加増転封されると前橋藩主を継いだ酒井忠世の領地に組み込まれたため、伊勢崎陣屋は廃されます。


徳江製糸所の煉瓦製隧道。
図書館から少し行ったところの狭い路地から河川敷に出ることのできるトンネルがあります。
広瀬川沿いに1879年(明治12年)に徳江八郎が創業した製糸所の工場と寮の間を行き来するためのトンネルだったそうです。
しかし、ここからでは全くレンガ要素が分かりません・・・。ただのコンクリート製トンネルでは?と疑問を持ちます。
狭い路地の隅っこにありますし、薄暗いしで本当にここなのか確信が持てませんでした。


トンネルをくぐって振り返ると、ああ煉瓦製だと分かります。
徳江製糸所は昭和恐慌の影響を受けて1933年(昭和8年)に破産してしまいます。
それでもこんな痕跡が残っているものなんですねぇ。

1681年(天和元年)、2万石を分与された酒井忠寛が伊勢崎陣屋を再興すると以後は明治まで代々酒井氏が藩主を務めました。


いせさき明治館。
伊勢崎藩の藩医などを務めていた今村家が1912年(明治45年)に建造しました。
その後は伊勢崎保健所として利用されるなどしますが、戦後は内科医院の建物となり1984年(昭和59年)まで診療所として利用されました。
2002年(平成14年)に伊勢崎市に寄贈され、現在地へ移転しています。
詳しくは↓↓
https://www.city.isesaki.lg.jp/soshiki/keizai/bunka/1442.html
内部の見学も無料ということで見学しようかな、と迷いましたが時間の都合上断念しました。
外観だけで我慢です。


大手公園。
伊勢崎城の大手門があったあたりにあるから大手公園なんでしょうけど、それらしき痕跡は全くありませんでした・・・。

城跡っぽい痕跡はこれといって見られませんでしたが、地名に曲輪町とか大手町とかあって城跡があったことが分かります。
明治以降の歴史的な建造物が多いので、そっちの方がメインになってしまいますね。

では、この辺で。


御城学。