網戸城(下総国・千葉県旭市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

先週、関東で最大震度5強を記録する地震がありましたが、ご無事でしたでしょうか。
私は余程疲れていたのか、爆睡していて緊急地震速報にすら気が付きませんでした(汗)

さて今回は、現在の千葉県旭市にあった城、網戸(あじど)城です。阿知戸城ともいいます。

網戸という字を見て、普通に「あみど」だと思ってましたので、春~秋にかけて窓を開けて部屋を換気したりする時に使うな~とか、建物に網戸の多い城だったのかな~とか考えたりしていました。



網戸城跡は現在、東漸寺の境内となっていて、旭駅から徒歩10~15分くらいで行くことができます。


旭駅。
駅の詳細は前回のブログをご覧ください。

ちなみに旭市の自治体名の由来は、旭将軍と称された木曽義仲の後裔である木曽義昌がこの地で善政をしいて領民に慕われ、1852年(嘉永5年)に京都の歌人・野々口隆正が当地を訪れ「信濃より いづる旭をしたひ来て 東のくにに 跡とどめけむ」と、義昌を偲んだ歌を詠んだことにちなんだとされています。


東漸寺の入口。
思いっきり木曽義昌公御廟所と書かれています。

網戸城は応永年間(1394~1428年)に北条氏の家臣・大橋康忠によって築かれたとされています。


東漸寺本堂。
東漸寺は真言宗智山派の寺院で、木曽義昌が網戸城に入った後の1593年(文禄2年)に城内に菩提寺として建立した寺院です。
当初は禅宗だったそうです。


境内には木曽義昌やその夫人、木曽家代々の供養塔があります。
案内板によれば、野々口隆正が歌を詠んだのは木曽義昌の250回忌だったようです。


境内の墓地の真ん中に、何やら土塁らしき怪しい盛り土があったのですが、上手く撮影できていないですね・・・。


東漸寺境内の周囲には土塁跡とみられる痕跡があります。

その後しばらくは網戸城の歴史は不明ですが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参加しなかったとして木曽の領地を取り上げられた木曽義昌が1万石で阿知戸(網戸)に移封となります。


空堀跡と思われる窪みも続いていますが、分かりにくいですね。

1595年(文禄4年)に義昌が没すると、子・義利は叔父の上松義豊を殺害するなどの粗暴を理由に改易され、網戸城も廃城となりました。


別な城跡への移動中、木曽義昌公史跡公園の案内表示がある道路を見つけました。
行くしかないですね。


間もなく木曽義昌公史跡公園に到着します。
「園」の字が脱落しちゃってますね・・・。
だいぶ古めかしい感じなので、そういうことも起こりうるかなと思いますが、修理しないのでしょうか。


木曽義昌公像。
入り口脇には木曽義昌の像があります。
この地で大切にされているんだなぁというのがよく分かります。


木曽義昌公遺跡水葬跡石塔。
木曽義昌が病没すると、遺体は遺言により網戸城の近くにあった椿湖(つばきのうみ)に水葬されました。
江戸時代初期に椿湖は干拓された際に、木曽義昌の墓地として祀ったのがこの辺りです。


コンパクトな公園ですが、ベンチが置かれていて木や花を楽しむことができます。

木曽義昌がこの地を治めていたのはわずか5年でしたが、余程すごい善政をしいていたのか、はたまたその後がいけなかったのか、地元で愛されているんだなぁと感じることができました。
では、この辺で。


御城学。