河和田城(常陸国・茨城県水戸市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

お久しぶりの更新になってしまいました。
体調不良や天候不順などにより、城攻めやブログの編集が滞っておりました。

さて今回は、現在の茨城県水戸市にあった城、河和田(かわわだ)城です。



河和田城跡は現在、水戸市立河和田小学校や報仏寺、天徳寺などになっていて、水戸駅北口から茨城交通バスに乗って桜川車庫バス停で下車すると、徒歩数分で報仏寺に行くことができます。
そこからは歩いて河和田小学校や天徳寺まで散策していきましょう。


水戸駅北口。
JR東日本の常磐線(水戸線直通含む)と水郡線、鹿島臨海鉄道の大洗鹿島線が乗り入れています。
大洗鹿島線は日本鉄道建設公団が建設していた北鹿島線を引き継いで1985年(昭和60年)に開業した非電化の路線で、SuicaやPASMOなどのIC乗車券には対応していません。
茨城県の県庁所在地である水戸市のターミナル駅だけあって、かなり立派な駅舎です。


報仏寺の山門。
城門の雰囲気を醸し出しているような気がしなくもない、いい山門ですね。
この辺りが河和田城の大手口だったのではないかと思われるようですが、そんな雰囲気の山門です。


河和田城跡の碑。
山門の左脇に、結構新しい石碑が建っています。
以前は右脇にあったようですが、新しく設置する際に取り払ったようです。


山門脇の土塁跡。
低くなっているところは堀跡と思われます。

河和田城は、1337年(建武4年)に常陸大掾氏の家臣・鍛冶貞国によって築かれたといわれていて、水戸城の支城としての役割を担っていました。


報仏寺の本堂。
報仏寺は真宗大谷派の寺院で、1218年(建保6年)に親鸞の弟子の唯円が開いた道場が始まりとされ、1689年(元禄2年)に徳川光圀によって現在地に移されたそうです。
唯円といえば、歎異抄を著したとして有名ですね。歎異抄は親鸞の没後に湧きあがった意義・異端を嘆いたものです。


報仏寺の駐車場脇の土塁跡。

足利氏満に背いて滅亡した小山義政の子が、1387年(嘉慶元年・元中4年)に一族とともに挙兵した難台山合戦では、大掾氏の当主が幼く充分な働きができなかったことから、河和田城は江戸通高に与えられます。


土塁跡。
駐車場の外側から見ると、端の方が櫓台っぽく盛り上がっているのが分かります。


水戸市立河和田小学校。
河和田城の主要部は隣接する中城幼稚園周辺にあったとされ、河和田小学校は二の丸あるいは三の丸に該当する位置にあったようです。


河和田城址の碑。
河和田小学校の門を入ってすぐのところにあります。
まあ、門が閉まっていたので、遠巻きに眺めるだけにしておきましたが・・・。


天徳寺の門。
冠木門風の門があります。

1426年(応永33年)、江戸通房が水戸城主・大掾満幹の留守中に水戸城を占拠すると、河和田城は家臣の春秋氏の居城となります。


空堀跡。
草木が生い茂っていて、非常に分かりにくいです。というか写真では全く判別できません。
生で見るとそれとなく分かるのですが・・・。


土塁跡。
駐車場周辺に土塁の跡が残っているのは報仏寺と一緒です。

1590年(天正18年)の小田原攻めで豊臣秀吉方についた佐竹氏によって、水戸城および周辺の城が攻め落とされ、この際に河和田城も落城し、廃城となったとされています。


不許葷酒入山門。
「葷酒山門に入るを許さず」と読みます。一種の漢文ですね。
葷はネギやニラなどのニオイのある野菜のことをいい、酒とともに仏教の修行者には禁止されています。
ネギやニラ、酒を摂取した者は山門をくぐるな、ということですね。


天徳寺の本堂。
天徳寺は曹洞宗の寺院で、佐竹氏の菩提寺であった天徳寺が秋田へ移った際に、水戸でも衣鉢を受け継いだものです。
徳川光圀によって現在地へ移されて現在に至っています。



ケーズデンキスタジアム水戸(水戸市立競技場)。
河和田城跡から3キロほど南にあります。
Jリーグ・水戸ホーリーホックのホームスタジアムですが、収容人員は12,000人でJ1リーグのライセンス要件を満たしていません。
そのため、水戸ホーリーホックがJ1に昇格した場合には、那珂市にある笠松運動公園陸上競技場を改修してホームスタジアムとすることで、2019年のJ1ライセンスを解除条件付きで取得しています。