館林城(上野国・群馬県館林市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

だいぶ更新が滞ってしまいました(汗)
仕事や家庭での出来事に追われていたり、メンタル面の不調をきたしていたりで、なかなか更新できませんでした。

さて今回は、現在の群馬県館林市にあった城、館林城です。
館林城跡には2度目の訪問となりますので、10年ほど前の最初に訪問した時の記事を再編する形でお送りいたします。



館林城跡は現在、館林城ゆめひろばや市役所、文化会館、科学館などの公共施設が立ち並んでいて、館林駅東口から徒歩15分くらいで行くことができます。


館林駅東口。
東武鉄道の伊勢崎線(スカイツリーライン、桐生線直通含む)、佐野線、小泉線が乗り入れるターミナル駅で、館林市の中心駅でもあります。
館林市は国内屈指の夏の暑さで有名で、人口は約7万4千人となっています。
東口の一部(写真手前側)には1937年(昭和12年)に建てられた木造駅舎が残されていて、関東の駅百選にも選ばれている洋風の駅舎がレトロな雰囲気を醸し出しています。


小泉口門跡。
館林駅西口から徒歩2~3分くらいのところにあります。
石碑のみで、特にこれといって何もありません。


館林城鐘。
1673年(寛文13年)、館林城主の徳川綱吉が城内や城下に時を知らせるために下野国の鋳物師・長谷川次郎左衛門藤原勝重に鋳造させたと伝えられています。
鐘楼櫓が木の骨組みなのが印象に残りました。
屋根はあるものの、壁がないので吹きさらしになるのは大丈夫なのか、少し心配になります。


応声寺。
時宗の寺院で、城鐘を打つ担当をしていたことから、館林城鐘が払い下げられて現在に至っています。


三角公園。
大手門跡にある公園で、枡形虎口の形を改変した際に土地が三角形になったのが公園の名前の由来と思われます。


館林城大手(追手)門跡の碑。
三角公園の一角にひっそりと置かれている石碑です。

1556年(弘治2年)に、この地の豪族である赤井照光が子狐を助けたところ、親狐が稲荷の化身である白狐となって現れて、沼に尾を曳いて城の配置を教えたとする「狐の尾曳伝説」が有名です。
しかし、実際の築城年代や築城主については諸説あり、ハッキリしたことは分かっていません。


館林城の土塁跡。
竹林しか見えないんじゃないかというくらい地形が分かりにくいです(汗)
もうちょっと分かりやすく整備するとか、案内板設置するとかしてほしいなぁ・・・。


館林城ゆめひろば。
館林城の本丸跡や南郭跡に広がる多目的広場です。
各種イベントに利用されていますので、↓↓のページをチェックしてみて下さい。
https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/s006/kanko/010/20200104081000.html
https://gunma-convention.jp/convention/%E9%A4%A8%E6%9E%97%E5%9F%8E%E3%82%86%E3%82%81%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%B0/


本丸土塁跡と井戸。
石垣で補強されていますが、水堀の役割を果たしていた城沼に面している方は、石垣で補強されています。
城沼もかなり埋め立てられてしまっていますので、写真の手前側も沼だったのかなぁと思います。


違った角度から見た本丸土塁。
石垣が立派で、土塁と呼ぶのが申し訳ないレベルです。


長く伸びる本丸土塁。


八幡宮。
本丸跡に隣接する形で八幡曲輪があるのですが、そこには八幡宮が鎮座しています。


八幡宮の社殿。
なかなか立派です。


田山花袋記念文学館。
本丸跡~八幡曲輪あたりに建っている文学館で、館林市出身の小説家・田山花袋を記念して建てられました。
詳しくは↓↓
https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/sp006/


向井千秋記念子ども科学館。
1991年(平成3年)に館林市立子ども科学館として本丸跡付近に建てられました。
医師で宇宙飛行士の向井千秋(館林市出身)が日本人女性で初めて宇宙に飛んだのを記念して、名前を改めました。
詳しくは↓↓
https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/kagakukan/
外壁工事中で、足場等があって全容が掴めません。


館林城溝状遺構。
こども科学館建設の際の発掘調査で発見され、現在地に移設復元されました。


旧秋元別邸。
明治末期に最後の館林藩主となった秋元家の別邸として建てられ、秋元興朝・春朝父子が使用したといわれています。
現在は予約制のお食事処として営業しているようです。
詳しくは↓↓
https://www.akimotobettei.jp/


旧秋元別邸の主屋。
こんな建物で生活してみたいと思うこともありますが、メンテナンスが大変そうだなぁ・・・(笑)


秋元神社。
小さな祠のような建物ですが、秋元家当主を代々祀っている神社となっております。

享徳の乱の最中である1471年(文明3年)、長尾景信・景春父子ら上杉軍によって攻め落とされたといわれています。
これ以降、上杉氏と後北条氏との激しい戦いによって城主が入れ替わる時代が続きます。
後北条氏の城となっていた1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めによって館林城も落城します。


秋元春朝投網の像。
秋元春朝が池に向かって投網をしている様子を銅像にしたそうです。
なぜそんな姿を銅像にしたのか分かりませんが・・・。


旧秋元別邸の庭。
この辺りが館林城の八幡曲輪跡になります。
綺麗な芝生の広場が広がっていて、いい感じです。


花菖蒲園。
一帯に花菖蒲が植えてあるのですが、季節ではないため何も咲いていませんでした。


冒険の広場。
アスレチックが設置されていて、子供たちの遊び場として持って来いです。


館林城出土墓石群。
館林城本丸や三の丸土塁から出土した五輪塔や宝篋印塔などの墓石を集めて1973年(昭和43)に整備したもので、館林市の重要文化財に指定されています。


館林市第二資料館。
旧上毛モスリン事務所や田山花袋旧居など、館林市にゆかりのある建物などを展示しています。
詳しくは↓↓
https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/sp005/


旧上毛モスリン事務所。
上毛モスリン株式会社の本社事務所として1910年(明治43年)に二の丸跡(現在の館林市役所付近)に建てられました。
毛織物の会社として、館林の発展に大きく寄与した会社ですが、大正末期に倒産したそうです。
現在は本丸跡付近に移築され、館林市第二資料館として一般公開されています。
詳しくは↓↓
http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/bunka/05_dai2/05_dai2.html


旧上毛モスリン株式会社受電室の壁。
上毛モスリン株式会社の受電室の壁の一部が展示されています。

同年、徳川家康の関東入封に伴い、徳川四天王の榊原康政が入城して館林城を近世城郭へと改修しました。


田山花袋旧居。
作家の田山花袋が1878~1886年(明治11~19年)に住んでいた家です。
1981年(昭和56年)に現在地へ解体移築されています。


間知石と角石。
館林城の二の丸、三の丸から出土した石垣が展示されています。


館林城千貫門跡。
館林城の三の丸へ出入りするための門である千貫門があった場所で、現在は石碑のみが残されています。
現在は、館林市文化会館(カルピスホール)の駐車場入口となっています。


カルピスホール(館林市文化会館)。
館林城三の丸跡の一部に建っている館林市の文化会館で、1974年(昭和49年)に開館しました。
2019年(令和元年)から、館林市内でカルピスなどを製造しているアサヒ飲料が命名権(ネーミングライツ)を取得しています。


館林城土橋門。
館林城三の丸への出入口の1つで、1983年(昭和58年)に復元されました。
館林城跡を散策する際に、ここをメインにする方が多いんじゃないかなと思います。


土橋門の近くに井戸があります。
あんまり門のすぐ近くに井戸って聞かないんですが、珍しいなと思いました。

その後、館林城は5代将軍・徳川綱吉も1661年(寛文元年)から将軍就任まで城主を務めるなど、一時廃城となる時期はあるものの、親藩・譜代大名の城として栄えました。


三の丸跡。
かなり広い平地が広がっています。


城沼墾田碑。
明治時代に館林城の堀の役割を果たしていた城沼を干拓し、農地としたことを記念した石碑です。


清龍神社。
5代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院が青龍の井戸の話を聞きつけて社殿を造営したと伝えられています。


青龍の井戸。
延宝年間(1673~1681年)に突然清水が湧き上がり、中から女官の姿をした清龍権現が姿を現したという言い伝えがあります。


旧館林二業見番組合事務所。
1938年(昭和13年)に芸妓置屋と料理店業を兼ねた「二業見番組合」の事務所として建てられた建物で、国指定の有形文化財に登録されています。
昭和初期の館林の花街を象徴する建物ですが、残念ながら内部公開はされておらず、外から眺めるのみとなっています。

建物などの遺構はそこまで多くはないものの、随所に城跡としての面影を感じることができて、とても楽しく散策することができました。
では、この辺で。


おしろまなぶ。