河越氏館(武蔵国・埼玉県川越市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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今回は現在の埼玉県川越市の郊外、入間川のほとりにあった河越氏館をご紹介します。

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河越氏館のあった場所の一部には、現在は時宗の寺院・常楽寺が建っていて、霞ヶ関駅から徒歩15分程度で行くことができます。
河越氏館はこの寺院の名前から、常楽寺城とも呼ばれていました。

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霞ヶ関駅。
東武鉄道の東上線が乗り入れています。東京メトロの霞ケ関駅とは別物です(念のため)。

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河越館跡の碑。

河越氏館は平安時代末期に桓武平氏の子孫・秩父氏の一族である河越氏の居館として築かれました。

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河越館跡の一角にある常楽寺の山門。

1180年(治承4年)に源頼朝が平氏打倒のために伊豆で挙兵すると、河越氏は当初は敵対しますが、河越重頼の娘・郷御前が源義経の妻となったこともあり、後に源氏について平氏打倒に協力しました。

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常楽寺。
鎌倉時代の後期に開山した時宗の寺院で、河越氏館の持仏堂が発展したものとされています。

源頼朝が義経を追放すると、河越重頼らも滅ぼされてしまいます。
しかし、河越重頼の三男・重員の頃になると鎌倉幕府の要職に就くなどかつての勢力を取り戻します。

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時宗の開祖・一遍上人像。
踊念仏で有名な一遍上人の像です。時宗の寺院だけあって、開祖の一遍上人の像があります。

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河越重頼、京姫(郷御前)、源義経の供養塔。
河越氏館の持仏堂が常楽寺となって700年を迎えた記念事業の一環で建立されました。

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常楽寺の境内の横には広大な空き地がありますが、ここも河越氏館の敷地の一部だったのでしょうか。

1368年(応安元年)に河越氏は平一揆を結成して鎌倉公方に反旗を翻しますが、あえなく敗れ、以後河越氏は没落していきます。

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空堀跡。

また、戦国時代の初頭に関東管領山内上杉氏の上杉顕定が、川越城の扇谷上杉氏に対抗するために陣を置いたとされています(長享の乱)。

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井戸跡。

その後、後北条氏の重臣・大道寺政繁が砦を築いたされています。

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塚状遺構。
霊廟や納骨堂だったのではないかといわれています。

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空堀跡。
空堀は二重に掘られていたようです。

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土塁(一部現存)。

近年の発掘調査によって、河越氏館の姿が徐々に明らかになってきています。
今後の調査に期待したいですね。

では。


御城学。