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江ノ電ぶらり散歩⑨~帰らぬ十二の御霊~

ポストたずねて三千里                         

    七里ヶ浜の沖をのぞむ







走る人  ”帰らぬ十二の雄々しき御霊”

と歌に歌われ、遭難したのは12人

とされています。

しかし、事件直後の遭難対策本部                                 が調査した結果、ボートに乗って                                                 消息を絶ったのは、中学生が12人

小学生が1人計13人だとわかり、                              氏名もはっきりしていました。







明治43年1月25日付の東京朝日

新聞にも「学生13名溺死」「七里ヶ

浜の惨事」という見出しがついて

いました。






 ところがひとりだけ途中でボート

から下りて江ノ電で帰った者がいた

ことが小坪寺の遭難対策本部に

報告されました。

その生徒は中学3年生の内田政雄

君で、その日正午前に江の島に

着いて上陸したとき、それまで船酔い  

で苦しんでいたために帰りはボートに

乗るのをやめて電車にしたのでした。

 





 遭難者は12名になったわけですが

その中に小学生がふくまれていたの

が注目されます。

 25日、行合川沖3キロの海底から

捜索船により発見された遺体の中、

年長者が年少者を固く抱きしめて

いたのがありました。検視の結果、


中学5年の徳田勝治君と弟の逗子

小学校高等科2年の徳田武三君と

判明しました。両君の遺体は固く

ひとつになっていて、警察署員らが

それを二つにほどくのに苦労したと

つたえられています。






 兄さんの勝治君は弟の武三君を

抱きかかえ、なんとか岸にたどり

着こうと必死で泳いだのでしょう。

でも最後は力尽きたのでしょう。

 駆け付けたご両親は、二人の

遺体に頬ずりして、父親は

「勝治よ!武三を最後までいたわって

くれて・・・」と号泣されたといいます。








 4年生の谷多操君の母親は「この

かけがえのない一粒種を殺した責任

は、監督者の義務を忘れて遊び

ほっつき歩いていた石塚舎監にある」

と激しく糾弾しました。学校側の慰撫

によってこれはおさまったものの、

石塚先生の胸に深つきささったことは

想像できます。また、これが                           のちの「あてもなき旅立ち」のきっか                             けになったとはいえないでしょうか。







 宮内寒彌が「七里ヶ浜」を書いた

のは、父親のくやしさ、無念さを

息子として晴らしたいという強い

思いからだったと推察します。







 いま学校現場において生徒の

父兄の発言が異常に過激化し

「モンスター・ペアレント」として

社会問題となっています。

 明治時代は、学校教師の

地位がいまよりずっと高かった

と思われますが、やはり、こう

した非常時における父母の

反応の中に、現代にも通じる

過激な糾弾があったことを知り、

日本人の心理の深層をのぞいた

ような気がします。








江ノ電ぶらり散歩⑧~恨みは深し七里ガ浜辺~

事件

ポストたずねて三千里                                      

  海辺の墓地の墓(本文と無関係)






走る人 凶運がふたりを包んでいる

ことにまだ気づかないまま、

茶店でお酒を飲んだあと二人が

逗子駅にもどったのは夕方5時

過ぎでした。                                        

 





 改札口で二人を待っていた                               開成中学の給仕の少年が大声で                              叫びました。                                  「先生!大変なことが・・・」







 開成中学の生徒12人と小学生1人                           計13名が乗っていたボートが七里ガ浜                      の沖合で転覆し全員が遭難したというの

です。

 石塚先生は小坪寺に収容された遺体

が自分が舎監をつとめる寄宿舎の舎生

であることを知って呆然とします。






 寄宿舎生は5年生の木下以下 7名で、                      ボートに乗る許可は得ていませんでした。

規則では、生徒がボートに乗る場合、                         舎監に許可願いの書類を出して許可              を得たうえ、さらに生徒監から許可を                  えることになっていました。






 木下は成績優秀で模範的な生徒                          でした。その生徒がなぜあえて規則                     違反を犯してボートを出したのか。                                

 石塚先生は舎監と生徒監が二人とも                       外出して不在だったためではなかったか

と自分の責任を感じるのでした。







 遭難した生徒たちが規則に違反し、

無断でボートを出したことにより、二人

の先生の責任は問われませんでした。

しかし14日後の2月5日に行われた                             遺族主催の合同葬では、学校関係者は                       列席を拒否されました。遺族たちの                           学校側にたいする無言の抗議と石塚                                 先生はうけとめました。

 






 2月6日に執り行われた学校主催の

合同慰霊祭は、「追弔大法会」と名付け

られた仏式の法要に芝増上寺、鎌倉

建長寺、円覚寺、京都大徳寺などから

高僧が多数参加し、県下県外からも

自発的に150余人の僧侶が参加し、                      横須賀鎮守府長官、県知事、横須賀                           警察署長も列席、学校関係者を含める                          と会葬者は総数4千人を超す盛大さ

でした。







 法要のあと海軍様式の制服制帽に                       白いゲートルを巻いた開成中学の生徒隊が

祭壇に進み、4人のラッパ手によって

「葬送の曲」が吹奏され、級長の号令で

「捧げ銃」の敬礼がおこなわれました。







 このあと鎌倉女学校の生徒70余名が

黒い紋付に袴姿で祭壇に進み、合掌、

焼香のあと三角錫子先生の指揮で

二部合唱「真白き富士の嶺」が歌われ                               ました。






 ボートは沈みぬ 千尋の海原

 風も浪も 小さき腕(かいな)に

 力もつきはて 呼ぶ名は父母

 恨みは深し 七里ヶ浜辺





 歌が進むにつれ、女生徒の声に

泣き声がまじりはじめ、式場の内外

合わせて5千人の人びとの嗚咽が

それに加わり、歌詞の6番が終わる

ころには老若男女の泣き声を交えた                           大合唱になっていました。






 この歌の作者は三角錫子先生で

した。三角先生は、最後の遺体が                             発見された日の夜、「七里 ヶ浜哀歌」

の歌詞を1番から6番まで一晩で

書きあげたのです。




 


じつは鎌倉の茶店で酒を飲みながら                            生徒監の三村先生が石塚先生にすす                            めた結婚話の相手と言うのは、                                                 

この三角先生だったのです。








「帰らぬ十二の雄々しき御霊」とまで

生徒たちの死を悲しんだ三角先生は、

生徒をボートに乗せた責任者として

私を見ているだろうと石塚先生は

考えました。そのことだけでもう、

三角先生の結婚相手としての資格は

ないと考えたのです。石塚先生の

所へは自殺勧告の投書がとどいて                           いました。






 

 石塚先生は、慰霊祭の翌日、                                朝早く学校へ行き校長あての                                 退職願を出し、校長が登校する                                前に学校を去りました。

 先生はその足で逗子駅へ向か                            い、横須賀線の上り列車に乗り、                                大船駅で東海道線の下り列車に                              乗り換え、行くあてのない旅に                                 出たのです。






 作家宮内寒彌の小説「七里ヶ浜」は

この事件を題材にしており、事件の

詳細な分析とともに事件に含まれた                          多くの謎の解明にも迫った力作です。

 大船駅からあてのない旅立ちをした

主人公石塚先生は、宮内寒彌の実の

父親です。父親の無念をはらそうとの

熱い思いがつたわってくる作品です。


(参考)宮内寒彌「七里ヶ浜」(新潮社版・                           昭和53年1月20日発行)

 










 






江ノ電ぶらり散歩⑦~真白き富士の嶺~ 

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     海辺の墓地にある墓







走る人 明治43年1月23日のことです。

  この日はめずらしく朝から北風

が強く吹きみぞれが舞う冷たい

天気だったのが、お昼過ぎには

小春日和のいいお天気に変わり

ました。





 逗子開成中学で地理歴史を

教えている石塚先生は、同僚で

体育担当の三村先生と一緒に

鎌倉へ来ていました。





 逗子開成中学は、逗子の新宿

と言うところにある私立の学校で

した。





 逗子という呼び名は横須賀線が

明治22年の6月に開通したとき

逗子に駅ができたため、一般に

そう呼ばれるようになったので

あって、それまでは、神奈川県                                三浦郡田越村大字逗子字逗子

でした。逗子という名は大字と

小字についていた地名にすぎ

ませんでした。







 石塚先生は独身で寄宿舎の

舎監でした。三村先生は生徒監で、                            こちらはすでに結婚していました。                          三村先生は、ひそかに石塚先生に                       結婚話を持ちかけようと思い、鎌倉                         行きを誘ったのでした。





 その日は日曜日でした。 

 二人はまず鶴岡八幡宮に参拝

し、全校生徒の無病息災を祈願し

おみくじを引きました。

 三村先生は「あっ」とつぶやき

ました。「凶」と出ていました。先生

は黙っておみくじを境内の樹木に

まきつけました。







 いっぽう石塚先生の方は、

「大凶」が出ました。先生はポケット

にそれをしまい、三村先生には

「私は末吉でした」と告げました。



江ノ電ぶらり散歩⑥~黄色い家~

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     奥行き1メートル・・・?







走る人  七里ガ浜を鎌倉高校前駅へ                             向かって歩いて行くと、黄色い                            建物に出会います。







 奥行きの狭い建物です。1メートル

とちょっとしかありません。

こんな狭さでなにを商売しているん

だろうと思います。






 近づいてみると、わかりました。

自転車のレンタル屋さんでした。







 真っ青な海の色、紺碧の空、

そこへまっ黄色ですから目立つ

こと目立つこと・・・

 






 海岸だからこそこの目立ち方

は好ましいのです。水着のような

ものですか。







 真冬なのにぽかぽかと

あたたかいのは、歩いている

せいでしょうか、それとも風が

ないせいでしょうか。

 鎌倉高校前駅のホームを

あっという間に通り過ぎました。

江ノ電ぶらり散歩⑤~海が見える路地~

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      海が見える路地



走る人  七里ガ浜から腰越までの

道は、いつも海があります。







 歩けばいつも右側か左側に

海が見えます。







 裏通りに入れば、家と家の

間から、海がみえます。







 路地から見える海は、また、

格別の味があります。







 建物に挟まれた細長い海

が、きらきら光っているのが

見えると、心がポッとあたたかく                             なり、ほんとに得をした気持ちに                             なるのです。

江ノ電ぶらり散歩④~海の見えるテラス~

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      海の見えるテラス







走る人  ふたたび江ノ電の旅に

もどります。






 ぽかぽか午後の日差しが

あたたかい七里ガ浜駅に下車

しました。






 駅前にバール(イタリアの

喫茶店のような)がありました

ので、そこへ行こうと思った

のです。





 

 ところがどうしたことか

バールがありません。

別の店に変わっていました。

スペイン料理店になって

いました。






 しげしげと看板を眺めて

いた私に、中から出てきた

店の女性が声をかけてくれ

バールは去年店をたたんで

かわりに今のスペイン料理

店を開いたのだ、と説明して

くれました。






 がっかりしましたが、せっかく

声をかけてくれたのだからと、

その店にはいりました。

小さなスペイン風プリンを食べ、

エスプレッソを飲みました。






 店を出たあと、駅へは向かわず

海岸通りを鎌倉高校の方へ歩いて

行きました。電車に乗るより歩きた

かったのです。






 左に午後の日差しをいっぱいに

浴びた海がキラキラ光っているの

が見えます。






 テラスのあるレストランに出て

そこから海を眺めました。

 おだやかな冬の海。

 それでもサーファーたちが数人

波の上を漂っていました。

大きな波がやってくる気配はいま

のところありません。





 キラキラ光る午後の海を眺め

ながら、私はさっきのスペイン

料理店のシェフからもらった

広島のミカンを食べました。






 そのシェフは江田島の出身だ

と話してくれました。

 昭和35年の夏、江田島の

旧海軍兵学校の校庭の片隅で

友だちといっしょにスイカをほお                            ばったことを思い出しました。




 



 

ことしのドンド焼き

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     神社の境内でドンド焼き








走る人  ことしも近くの神社の

ドンド焼きに行きました。






 昔はいろんなところへ

出かけていってドンド焼きの

風習の違いを楽しみましたが、






最近は、もうそれほどの元気

もなくなって、同じ場所で

すませるようになってしまい

ました。






 しかし、同じ場所でも多少の

違いはあるものです。

 今年はドンド焼きの焼き場の

前にさい銭箱がもうけられました。

 さい銭箱とはまいりました。






ドンド焼きにさい銭箱というのは                                聞いたことがありません。みんな

しめ飾りや松飾りを焼き場に

放り込んだあと、お賽銭をあげて

ぱちぱちと拝んでいます。






さい銭箱を見たら、

お賽銭をあげる、

という条件反射が

日本人にはありますから

自然にそうなるのでしょう。






焼き場の大きな穴のなかで

松飾りなどのワラが勢いよく

燃えあがり紫色の煙がもうもうと

立ちのぼる・・・





 穴の外側には、高さ40センチ                              くらいの土手がつくられて

そこに餅花がつきさしてあり

ました。






 餅花は、こどもが持ってきて

嬉々としてドンド焼きの火で                              あぶります。

それを見るのがまた楽しい                              のですが、

今年はこどもの姿が見えません。






 神社にお参りをして、引き揚げ

ました。大通りに出ると、「甘粕」

という看板が目にはいりました。

このあたりは「甘粕」という家が

多いようです。






 空は真っ青に澄み、伯爵夫人*

の雲がいくつも浮かんでいるのが

見えました。




*伯爵夫人・・・・以前、このブログに

登場しましたので説明を省きます。

 



江ノ電ぶらり散歩③~七里ガ浜~

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    江の島をのぞむ







走る人  遠くに江の島がみえます。







  午後の海はおだやかです。

江ノ電ぶらり散歩②~腰越駅から七里ガ浜~

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   腰越駅のホームに電車がくる




走る人  腰越駅から江ノ電に乗り

ました。





 天気がいいので小動岬を

まわったら、海が見えるはず

です。





 


江ノ電ぶらり散歩①~腰越駅~

うj

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      江ノ電腰越駅







走る人  冬の海を眺めるため

江ノ電に乗ることにしました。





 腰越駅で七里ガ浜までの

切符を買いました。






 腰越駅は江ノ電の駅の中でも

小さい駅として一、ニを争う(?)ほど

のささやかな駅です。





 第一、プラットホームがみじかい。

そのためホームからはみ出した車両の

ドアは開かない。車内アナウンスで

乗客にそのことを知らせなければなら

ない。そんな駅は江ノ電では腰越駅

だけなのです。






 小さいことはいいことだ。

 腰越駅はその小ささのため

ひとびとから愛されているの

です。






また、腰越は源義経の「腰越状」

で有名な万福寺があることで知られ

ています。腰越駅の看板にも、

「万福寺徒歩3分」と書かれている

ほどです。






 「腰越状」というのは義経が、

鎌倉の兄・頼朝あてに書いた

手紙のことです。腰越の万福寺

にその「腰越状」が残っている

(本物かどうかは不明)のです。

手紙を実際に書いたのは弁慶

だとも伝えられています。






 源義経は壇ノ浦で平家一門

との戦いに勝利をおさめ、平宗盛

ら捕虜をともなって鎌倉へもどって

きました。ところが、鎌倉の一歩

手前の腰越で頼朝から足止めを

くらうのです。「鎌倉へはいること

はまかりならぬ」というきつい命令

を受けるのです。






 義経は自分はむしろほめられて

しかるべきだ、それなのになぜ兄は

私を鎌倉に入れてくれないのか、

と大いに不満でした。兄はなにか

誤解をしているんではないか、何を

怒っているんだろうか、とあれこれ

悩んだ末、弁慶に命じて頼朝あての

手紙を書かせたのです。






 義経は平家との戦いで大いに

軍功をあげました。一の谷の逆落とし

や壇ノ浦での八艘飛びは、今日まで

語り継がれているほどです。

 しかし、頼朝は義経の単独行動を

きびしい目でみていたのです。






 幕府という政治の組織から見ると

義経の単独行動は、組織の原則に

反する違反行為とみなされたのです。






 会社のために良かれと思って独断で

仕事をして成績を上げた人が、かならず

しも評価されないのと同じです。

 組織には指揮系統があり、命令は

かならず指揮系統にしたがって行われ

なければなりません。もし指揮系統を

無視して単独行動をとるものがいたら、

組織全体が危うくなり、最悪の場合、

組織全体が崩壊する危険さえある

のです。







 それが組織の原理なので、鎌倉幕府

のトップである頼朝と閣僚クラスの一部                         の人びとは、義経の指揮命令系統を無視                       した華々しい戦いぶりを内心苦々しく見て                       いたのだと思われます。                                         


義経は鞍馬の山の中で育ちましたから、           ,いわば田舎者です。                          組織の原理なぞ関係ない、                        戦争は勝てばいいんだろ、という考え                            方でした。むずかしい手続きにこだわ

っていては戦争には勝てない、

要は戦いに勝つことが先決、という

単純な考え方でした。







 しかし、それを認めるわけにはいかない

のが幕府という組織でした。義経の鎌倉入り

を拒否した頼朝のやり方は、あまりにも                         冷たいという人もいますが、組織のトップに

立つ者として正しい判断だったといえます。

 もし義経の立場をみとめたら、

多くの武将たちは頼朝に疑問をもつことに                       なったでしょう。頼朝への信頼はいっきょに                           失われ、ひいては鎌倉幕府の権威も

そこから徐々に崩れていったことでしょう。







 義経が書いた「腰越状」は、頼朝に                             認めてもらえなかった義経の苦しい胸                           の内を語っています。せつせつと私たち                          の心にうったえるものがあります。

しかし、情に訴える手紙を書けば書く

ほど、頼朝から見れば「こいつはわかって               いない。ほんとうに情けない奴だ」と                                    いうことになったはずです。

 そのあとの義経は東北へ落ち延び、

頼朝のさし向けた軍勢によって殺される

という悲劇的な運命をたどります。







 頼朝や幕府の官僚組織から

見放された一匹オオカミの義経は

その天才的な軍事作戦による

輝かしい戦功と、美しい静御前の

存在とでたくさんのドラマの題材となり

ました。

 また、義経の死を信じない多くの

人びとは、「生きている義経」の

伝説を作り上げ、いまでも、東北

地方に数々の遺物と痕跡を残し

ています。







 有名な「腰越状」は、万福寺に行けば

簡単に見ることができます。                                 

 万福寺は、建長寺とか円覚寺に

くらべれば、失礼ながら何の変哲もない

ちっぽけなお寺です。しかし、「腰越状」

の存在は、真偽の程は不明といわれながら

やはり、みのがすことができません。

一度は訪れてみるべきでしょう。