ポストたずねて三千里 -30ページ目

2010年8月15日の<海ゆかば>

ポストたずねて三千里                                         

     あの日も暑い一日だった









走る人<海ゆかば>という歌を知って

いますか?                                      

 65年前の今日8月15日も

カンカン照りの暑い一日でした。






早朝森赳(たけし)近衛師団長が

兵士に射殺されます。

近衛師団の一部が反乱をおこした

のです。午前2時ごろのことです。

兵士の一部は皇居の中に乱入し、

終戦の勅語の録音盤を奪い取ろう

としたのです。

NHKの技術スタッフは全員反乱軍

兵士に皇居の門のところでつかまり、

衛兵詰所に監禁されました。

徳川義寛侍従は、14日夜皇居で                                                玉音を録音したあと、NHKの

技術スタッフから録音盤を預かり、

侍従室の奥の金庫にかくしました。

万一の場合を想定したためです。





反乱軍の兵士たちは血眼になって

録音盤をさがしましたが発見できず、

午前7時、反乱軍は鎮圧されました。




 



 録音盤は無事NHKにとどけられ、

終戦の勅語は、8月15日正午、

全世界へ放送されました。中波だけで

なく短波放送でも放送されたのです。

それは満州、シナ大陸全土、樺太、朝鮮、                                台湾、それにはるか南方の島々で戦って                                      いる兵士たちへ「戦争が終わった」ことを                                   知らせる必要があったからです。








 13歳の中学1年生だった私は、勤労                                 動員のため、農家の田んぼの草取り                                 作業に従事していました。正午に重大                                   放送があるからといって、作業を中断し、                             農家の庭先に整列させられ、同級生た                               ちと一緒にラジオの玉音放送を聴き

ました。






 太陽が容赦なくぎらぎらと照りつける

なかで聞いたラジオの音は、ザーザー

と雑音ばかりで一体なにを言っている

のかちんぷんかんぷんでした。

ただ一か所、「耐えがたきを耐え、

忍びがたきを忍び」というところだけは

聞き取れました。







 あとで上級生から「日本は戦争に

負けたんだ」と聞かされ、大粒の涙が

とめどなく溢れてくるのをどうすることも

できませんでした。

 






泥だらけの足にヒルが吸いついたあと

の証拠として血の筋がはっきりついて                                       いました。

 円い形の古い木製のラジオが

古ぼけた木の椅子の上にのっていました。

 






見渡すかぎり田んぼがひろがり、その上を                                        吹きわたる風に、緑濃い稲穂が波打って

いました。

真っ青な空には雲ひとつなかったのを

おぼえています。






 私にとって一番長い夏の日の想い出

です。







芦ノ湖の朝②

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   朝の斜光線をうける湖畔の杉









走る人8月9日はソ連が一方的に

中立条約を破って日本にたいし

宣戦布告した日です。65年前の

ことです。






 ソ連(今のロシア)は国際法違反

を犯して満州に攻め込んできました。

まさか中立条約を一方的に破るとは

夢にも思わなかった日本は、ソ連に

仲介してもらってアメリカとの戦争を

終結する交渉をやっていたのです。

そこまで読めなかった外務省や

陸海軍のトップもお粗末ですが、

悪いのはソ連ですから、あくまで

ソ連が国際法に違反した事実だけを

世界中にアピールしつづける必要が

あります。




ソ連は「中立条約をむすんではいたが

1年後には条約を延長しない旨通告した」

ことを口実にしています。

しかし、いくら通告をしても、条約は

あと1年間有効なのですから、それを

破るのはどうみても国際法違反です。








 このソ連の違法性を際立たせるため

日本は「宣戦布告しない」という戦術を

とりました。

 一方的にソ連は宣戦布告して攻撃して                                 きましたが、日本は宣戦布告せずに                                    ただひたすら耐え、応戦し、さいごに                                     8月15日を迎え武器を置きました。

日本がとった「宣戦布告せず」の態度は、

ソ連に北海道を占領する大義名分をあたえな

かったという点で正しかったといえます。

 ソ連は北海道どころかあわよくば東北地方の                         半分ぐらいは欲しかったらしいが、アメリカが                                つよく反対してソ連の領土野心を拒否したこと                              もあってソ連は断念します。








「宣戦布告せず」の戦術については、 日本外務省が参謀本部を強く説得した                              とつたえられています。                                                







 こういう火事場でのとっさの判断は                                  国益を大きく左右するものであり、

当然とはいえ、外務省はよくやったと                                   いえます。






 ところで一方的に攻めてきたソ連の

兵力は日本を大きく上回っていました。

日本の70万にたいしソ連は157万、

大砲は5倍、戦車は50倍、飛行機は

20倍でした。






 関東軍は大半を南方戦線へ移動させた

あとでしたから、とうてい勝ち目はなかった

のです。

 それなのに、圧倒的に強力なソ連軍の                                     攻撃に日本軍はよく耐え、初戦では

むしろ跳ね返すぐらいよく戦いました。

たとえば、ハバロフスクとウラジオストクとの

中間にあった虎頭の要塞を守った砲兵第一                            中隊です。

日本側には40センチりゅう弾砲という                                   巨大な大砲があったため、それが威力を                                       発揮しました。







 敵の砲兵陣地、ウスリー河の鉄橋を

破壊して、一時はシベリア鉄道を不通

にしたほどでした。







 しかし、兵力の差はどうすること                               もできませんでした。

8月15日、砲兵中隊の陣地は陥落しました。

脱出して生き残った者は1名だったと伝えられ

ています。

 悲劇はこれで終わりませんでした。

 スターリンは司令官に命じてただちに日本兵

50万人を「戦時捕虜」としてシベリアへ送るよう                             軍用列車の手配をさせました。





 戦闘を停止して停戦協定後武装解除した

兵隊を「戦時捕虜」といえるのでしょうか?

 ここでもソ連は国際法違反を平気で

やっています。

  ソ連は満州にあった工場の機械設備も

どんどん列車に積み込んでシベリアへ

送り始めました。火事場泥棒とはこのこと

です。おどろいたのは中国です。

 しかしソ連という国は、自分のものは自分

のもの、他人のものは自分のもの、という

国ですから、何をいわれてもカエルの面に

小便です。







 日本政府がソ連政府に抗議を申し入れた

ときは、ときすでに遅く、日本兵56万2000人

一般人1万1000人(ひどい!)のシベリア

移送は始まっていたのでした。

 65年前の8月にソ連が満州で何をしたか、                           日本人はけっして忘れてはなりません。

 




 

芦ノ湖の朝

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   朝日に映える箱根・芦ノ湖







走る人 昨日八月九日は長崎原爆忌でした。

  テレビで県立高等女学校の被曝者

たちの現在を伝える番組をみました。

 よく今日まで生きてきてくれたと感銘

を深くしながら見終えました。


 私の先輩のひとりは広島駅の地下道

で原爆を受け、九死に一生を得ましたが

結婚後もずっと怖くて子供を作ることが                              できませんでした。40歳を過ぎて清水の                                 舞台から飛び降りる気持ちで子供をつくる

ことを決心しました。奥さんと必死で話し

あったそうです。


女の子が生まれました。五体満足でした。




 原爆直後、「200年間草も生えぬ」と

いううわさが日本中に流れていました。

 事実は、翌春から草は芽を吹きました。

 



芦ノ湖夕照

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     箱根芦ノ湖の夕映え




走る人 箱根へ行ってきました。





  

  夕日が沈んだあと、

  夕焼け雲が

  赤く映えるのですが、

  それが湖面に映って

  います。





  夕焼けの空の色が

  時間とともに

  だんだんと

  色あせて

  いきます。





  その色の変化を見ていると

  なんともいえない

  気持ちになって

  きます。

  

伊勢屋稲荷に犬のくそ

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  お稲荷さんはキツネでしたよね?









走る人  昔から、東京にたくさんあるもの

の代表として、

「伊勢屋、稲荷に 犬のくそ」

と言われます。






  伊勢屋というのは、だいたい

お団子屋さんですよね。

 大福餅とか、赤飯とかを売ってる

お店に「伊勢屋」が多いようです。

 いまでも伊勢屋は多いですよ。

 





 ここは柳森稲荷という神社です。

 神田須田町と岩本町のちょうど

境目あたりにひっそりと建っています。






 大都会の真ん中にちいさいけど、

こんもりとした緑豊かな空間が

あるというのは、いかにも東京らしくて

いいですね。ほっとします。






  赤い鳥居の入り口の左側に

石のおキツネさんが立っていました。

おタヌキさんじゃないですよね?

第一印象としては「タヌキ」なんですけど、

ここはお稲荷さんですから

「キツネ」でなくちゃ話になりません。

耳のところもキツネ風ですし。





  でもふつう「八畳敷き」といわれる                                  のはタヌキの場合のことですよね。






  非常にタヌキ風なおキツネさんです

かね。背中に笠を提げているところなど

ほとんどタヌキの定番ルックですね。







  






神田ぶらり散歩

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    お稲荷さんの境内の猫 






走る人 久しぶりに

 散歩にでました。





 

 秋葉原から川を渡って

須田町へ入ります。

 そこにこんもりと緑が茂った

気持ちのいい場所があります。






 少し低い場所にあるので

そのこんもりと茂った森の中へ

いくには石段を2,3段おりなければ

なりません。






 そこはお稲荷さんでした。

  





 番をしていたのは二匹の猫です。

家の番をする犬を番犬といいます。

 では番をする猫は?

 





春はすぐそこに

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       エリカの咲く庭







走る人久しぶりに横浜の山手を歩いて

きました。






 イタリア山の外交官の家の庭に

蛇の目エリカが咲きはじめて

いました。






 満開になるにはあと1週間でしょうか。

 春はもうすぐそこです。






 あれはいつのことだっただろう。

 披露山公園をめざして車を必死で

走らせていたのは。あまりのラッシュ

のため途中でのぼるのをあきらめて

しまったけれど、その後長い間、

後悔の思いが胸につかえていた・・

 そのときサクラの花びらが道路いっぱい

に散り敷かれていた。悔やまれて

ならない。






 春とはなんと残酷な季節だろう。

 

午後の公園

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  公園にはときどきヘンな物がある 







走る人  その公園を横切るとき

へんな男をみた。地図をひろげて

それに見入っているのだが、その

かっこうがいかにもあやしい。








 高校生の作品展を見た。

 その中に昔(といっても戦前の

しかも昭和のはじめごろか?)の

小学生の男女に3人の軍人が

日の丸の旗をひろげてなにか話し

かけている絵があった。








 子供のころこの絵を見た記憶が

ある。タイトルは「門出の朝」とある。

 林唯一の絵だ。

 小学生の男の子は黒の詰襟で、

女の子は着物姿である。姉と弟らしい。

 うららかな春の日の朝。

 どうやら姉弟の父が出征する日の

ようだ。

 







 高校生が模写したものだ。

 作者は林唯一のひ孫さんのようだ。

 曽祖父の絵を模写しようと思った

動機は何だったのだろう。

 作者の感想は「細部の描写が細かく

曽祖父の技術に到底かなわぬことを

知りました。いつの日かそのレベルに

達するよう努力したい」とのことでした。







 

 

                                                                        

七里ヶ浜余聞

ポストたずねて三千里   









走る人  七里ヶ浜とはなにか。







   七里ヶ浜は腰越の小動岬から                                 稲村ケ崎までの海岸線をいいます。                            

一里は明治時代の度量衡法で3.9キロ                           とさだめられています。

これで計算すると七里は27.3キロに

なります。

 地図上で測ってみますと、七里ヶ浜

は2.8キロしかありませんから、これで

は一里にも満たないことになります。

   





 古代中国の周時代の一里は、約

6町(1,800尺)で540メートルです。

それを参考にした古代日本の律令制

では一里が5町(1,500尺)で約450

メートルです。これならだいぶ近く

なります。でもぴったりというわけでは

ありません。むしろ六里ヶ浜といった                        方がふさわしいでしょう。

 なぜ七里ヶ浜にしたのでしょうか。








 鎌倉時代の「吾妻鏡」には、七里

ヶ浜のことが「腰越海」として出て

きます。

 貞応元年4月26日の条に「腰越

海辺すなわち七里ヶ浜の沖合に

死鴨が多数流れ着き、海が血の

ごとく真っ赤に染まった」という記述

が出ています。






 

 腰越の近くに、むかし大きな湖が                           あり、そこに5匹の龍が住んでいて                               村里のこどもを食べていたといい                          ます。

 ある長者は、16人の子を食べられ                         たとも伝えられています。                             

 村人たちは泣く泣くこの村を離れ                                    他の村へ引越していきました。

 このことから、この地を

「子死越」とか「子死恋」と呼ぶように

なり、それが「腰越」の地名になった                                         

という伝説が残っています。





 この海岸には処刑場がありました

から、怨霊のたたりを人びとは恐れて

いたのかも知れません。

七里ヶ浜のことを「死地里ヶ浜」と

言ったりしたようです。                                    また、関東里の計算では一里が

6町なので6×7で42町=死ニ町と

言ったりしました。







 七里ヶ浜にはなにか不吉な                          イメージがつきまとっているような                        気がします。






 江ノ電七里ヶ浜駅の前にイタリア風

バールがありましたが、去年の夏に

店を閉めました。

 代わりに出現したのがスペイン風

料理店です。名前が「mori mori」。






 moriとは、ラテン語で「死」という                               意味です。七里ヶ浜にふさわしい

名前かもしれません。もっとも、

「メメント・モリ」という言葉は

「死を記憶せよ」と訳されています

が、ほんとうの意味は、「人間は

いつかは死ぬものだ。だから

生きている間に存分に楽しめ」

ということのようです。私はこの

スペイン料理店でリンゴ酒の

シードラを飲み、パエリアを食べ

ましたが、なかなか美味しかった

です。






江ノ電ぶらり旅は、今回は

この辺でお開きといたします。










   


江ノ電ぶらり散歩⑩~「真白き富士の嶺」の原曲~

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         腰越独立教会





走る人 ところで「七里ヶ浜の哀歌」として

三角錫子先生が一晩で作詞した                                「真白き富士の嶺」の歌のメロディー

は誰が作曲したのでしょうか。






 これはアメリカ人のガーデンが作曲

した聖歌「われらが家に帰るとき」

"When we arrive at home"

が原曲だといわれていました。





 

 その事実を調べるため、小説「七里

ヶ浜」の作者は七里ヶ浜にほど近い

腰越独立教会をおとずれています。







 腰越独立教会は、小動崎に近い

海岸沿いに建っていて、教会の建物

のすぐ下を江ノ電が走っています。

 結核療養所の「恵風園」の創設者が

設立した教会です。







 教会で調べた結果、「真白き富士の

嶺」の曲は、現在の聖歌623番                           (新聖歌465番)「いつかは知らねど」                            と同じだとわかりました。






 作家は教会音楽研究会に電話して

ガーデンの曲のことを聞きましたが、

「讃美歌にも聖歌にもガーデン作曲の

ものはない」とのことでした。

さらに国会図書館で明治年間の

「公教聖歌」「古今聖歌集」「聖歌集」

を調べましたがガーデンの「われらが

家に帰るとき」は発見できませんでした。







 ところが、堀内敬三の「日本の唱歌」

(実業の日本社・昭和45)のなかに、

「この曲はアメリカのガーデンの作曲

"When we arrive at home"と言う歌

で、大和田建樹が作詞した「夢の外」

として「明治唱歌集第五巻」に載って

いる」ことが書いてありました。

 

 





 大和田建樹と言う人は明治時代の

国文学者・詩人で、「汽笛一声新橋を」

ではじまる「鉄道唱歌」の作者で有名

です。






 「夢の外(ほか)」が載っている「明治

唱歌集第五巻」は国会図書館にも                          保存されておらず、その後                       「七里ヶ浜」の著者は偶然神田の

古本屋で発見することになります。







 歌詞をみると、三番に、

「嬉しさあまりてねられぬ枕に」

という歌詞があります。

 「真白き富士の嶺」の五番には

「悲しさあまりてねられぬ枕に」

という歌詞があり、

後者が前者を下敷きにしたことは

否定できません。

「七里ヶ浜哀歌」は「夢の外」の

替え歌だったことになります。

大和田建樹は女子高等師範学校

の教授をした経歴がありますので

あるいは三角錫子は大和田の

教え子であった可能性もあります。

教授の了解を得ていたかどうかは

知るすべもありませんが、

替え歌だとして非難されたことが

まったくないのは、この歌の内容が                       たんなるざれ歌や恋唄でなく、厳粛                            な歌だったからだ、と「七里ヶ浜」の                          著者は言っています。





(参考)宮内寒彌著「七里ヶ浜」(新潮社・

昭和53。1)