元祖やまとなでしこたち
戦争に敗けた日になでしこジャパン
のことを思い出しました。
なぜだかわかりませんが、涙にくれる
なでしこたちを見ていると、
ごく自然に戦時中の鉢巻き姿の女子挺身隊を
思い出すのです。彼女たちこそ、大和なでしこ
の元祖だったからです。
14歳から17歳までの旧制の高等女学校の
生徒たちは昭和19年8月23日に出された
『女子挺身勤労令』によって、
海軍工廠や陸軍造兵廠、各地の軍需工場で
各種兵器の部品などを作る作業に
駆り出されました。
中には、イペリットガスなど化学兵器の防毒
マスクや、風船爆弾の製造に従事した女学生
もいました。
たんなる工場労働だと思ったらとんでもない。
愛知県の豊川海軍工廠では、昭和20年8月7日
午前10時、アメリカ空軍爆撃機B29と戦闘機
150機による集中攻撃を受け、2,500名が死亡
したのです。
そのなかには長野県から来た女子挺身隊員が
多数含まれていました。長野県立長野高女、
上田高女、諏訪高女、大町高女の生徒たちです。
また茨城県の日立市の日立製作所では、
茨城県立下館高女、水戸高女、日立高女の生徒
たちが女子挺身隊として働いていましたが、
昭和20年7月17日、午後11時ごろ、米英の連合
艦隊(戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)から
531発の艦砲射撃を受け、521名の死者を
出しました。
戦時中、従軍慰安婦らが俗に「女子挺身隊」と
呼ばれていたことから、女子挺身隊イコール
慰安婦と誤解する人がいるらしいが、これは
大きな誤りです。女子挺身隊とは、
あくまで「女子挺身勤労令」という学徒動員令
によって動員された旧制の高等女学校生たち
のことです。
現在、もと女子挺身隊に参加した女性たちは
81歳以上の高齢者になっています。
もし、近所に81歳以上のおばあさんがいたら、
女子挺身隊に行ったかどうか話を聞いてみては
いかがでしょうか。
むかしの元祖やまとなでしこが
どんなに命がけで戦ったか、
話してくれるかも知れません。
豊川海軍工廠の
女子挺身隊の生徒が、
みずからの尊い生命を
お国のために捧げたのは、
戦争が終わるわずか8日前のこと
でした。
日本が戦争に敗けた日
きょうは、67年前、日本が米英との
戦争に敗けた日です。
「海ゆかば 水漬く屍(みずくかばね)
山ゆかば 草生す屍(くさむすかばね)
おおぎみの辺にこそ死なめ
かえりみはせず」
少年航空兵として敵艦に体当たりして
死ぬ覚悟をきめていました。
しかしその夢もむなしく日本は戦争に敗れ
ました。
昭和20年8月14日の午後3時、
NHKの長友録音技師以下4名をしたがえた大橋N
HK会長と3人の局長らは宮内省に入りました。
これより先午後1時、大橋会長は下村情報局総裁
から終戦の詔勅を天皇陛下が放送する。生か録音
かは未定だ。至急準備せよ」との伝達を受けていま
した。
放送は録音ときまり、皇居の地下室で録音の作業
にはいりました。
いまとちがって当時は録音テープがなく、大きな
円盤録音機でレコードに溝を刻んだのです。
8月15日午前0時5分、録音終了。
録音技師の一行は皇居から退出するところを
二重橋内側で近衛第一連隊のクーデター部隊に
つかまります。
7名はそのまま衛兵詰め所に監禁されます。
クーデター部隊を指揮する畑中少佐はすでに
森近衛師団長を射殺していました。
あくまで戦争をつづけることを主張していた
近衛第一連隊の一部が暴発し、天皇陛下の終戦
の詔勅を阻止しょうとしたのです。
二重橋の衛兵詰め所に監禁されたNHKの録音
班は録音盤を持っていませんでした。もし、持って
いたら、終戦の詔勅は放送されなかったかも
知れません。
録音終了後、録音盤をどうするか宮内省と相談
した際、持ちかえらず侍従にあずけることにしました。
この判断を誰がしたかはわかりません。
しかしそのおかげで録音盤は無事でした。
クーデター部隊は必死になって宮内省の各部屋を
探しまわりました。
港区愛宕山にあったNHKの放送所も近衛第一連隊
のクーデター部隊によって占領されました。
畑中少佐が午前5時に自分たちの放送を要求しましたが
舘野アナウンサーらが「放送には東部軍の許可が必要
である」と要求を拒否しました。
午前7時ごろクーデター軍は投降し反乱は収束しました。
録音盤は愛宕山の放送所へ運ばれ、正午、第8スタジオ
から玉音放送が放送されました。
終戦を決意されたのは天皇ご自身であったこと、
そしてみずから終戦の詔勅を放送することで
戦争を終わらせたことは、国民すべてが記憶すべき
事実です。
もしこの放送がなかったなら、おそらく日本国民は
アメリカ軍が本土に上陸してきても徹底抗戦したで
しょう。女も子供も最後の一人になるまで戦った
でしょう。当時の日本人はそういう心理状態でした。
昭和天皇は8月9日長崎に原爆が落とされた日、
御前会議で、これ以上国民を死なせたくない、と
ポツダム宣言受諾の決意を強く述べられたのです。
その場にいた各大臣は号泣したと伝えられます。
玉音放送を伝えるラジオは、音声が不明瞭で
また難しい言葉が多くて理解しにくかったのですが、
「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・」という
くだりで、多くの日本人は<戦争に敗けたのだ>
と悟ったのです。
玉音放送が実際に放送されるまでには、おおくの
犠牲者の生命がうしなわれました。近衛師団の
反乱もありましたし、それ以外にも割腹自殺をとげた人、
拳銃自殺した軍人など、
敗戦を受け入れがたい日本人の多くがいたのです。
これらの人々を特別なひとたちと断ずるわけには
いきません。日本人ならだれでも天皇陛下のために
死ぬ覚悟だったのですから。
だからこそ昭和天皇の終戦のご決断は尊いのです。
「海ゆかば」の歌詞にあるとおり、
「おおぎみの辺にこそ死なめ」
の覚悟が、当時の日本人の心の奥底に
ひとしくあったと思います。
五輪女子サッカーの決勝戦で日本が
アメリカに負けた瞬間、なでしこたちは
崩れ落ちました。
芝生に横たわった宮間キャプテンを
抱き起した佐々木監督。そのあと
宮間を抱きかかえ頭をやさしくなでつづけた
大儀見選手。
号泣するなでしこたちのすがたをみながら
ふと、
67年前のきょう、二重橋前で突っ伏して涙を
流した鉢巻姿の女学生の姿をかさねあわせ
ました。
鬼灯(ほおずき)②
鬼灯(ほおずき)は俳句の季語では
秋になります。
昭和の子どもたちには、こどものころ、
ほおずきで遊んだ想い出があります。
真っ赤に熟したほおずきの実の
お尻の方に
小さな穴を開けて
中のタネを取り出します。
中身が空になった鬼灯を口の中に入れて
吹くと鬼灯が空気で膨らみます。吸うと鬼灯が
しぼみます。それを繰り返して遊ぶのです。
そのたびにスッポン、スッポン!と音がするのが
たのしいのです。どちらかというと、女の子の
遊びでした。
これは日本に古くから伝わる子供の遊びです。
鬼灯を題に詠んだ俳句のなかに、
こんな句があります。
鬼灯や老いても妓女の愚かしき 召波
この俳句の意味がわかるには、
さっきの子供の遊びを知っていなければ
なりません。
妓女というから遊郭の女でしょうか。
むかしの老女というのですから五〇歳を
すぎた女でしょうか。今の五〇歳なら
老女とはとうてい言えません。
老女がひまをもてあましてほおずきで遊んで
います。スッポン、スッポンと音をたてて
しきりに悦に入っています。
それをみただれかが
「ばかみたい、まるでこどもじゃないの」
とからかいます。
そんな風景がこの句から読み取れるのです。
ほおずき遊びがすたれてしまったのは
残念なことです。
子供の遊びは、季節といっしょになって
いました。それは 野山の草や木の葉
などを使ったものが多かったからです。
カヤツリ草やオオバコや
ラッパ草、ペンペン草、ネコジャラシ
などは定番で、
ササの葉は笹舟や草笛に。
草笛には
つばきの葉など分厚い葉っぱも
よく使いました。
<じゅずだまのき>というのがあって
その美をおじゃみ(お手玉)の中に入れ
ました。
むかしの子どもは野原や山や川べりで
遊びましたから、そこにあるものは
なんでも遊び道具にしたのでした。
いまの子どもは外で遊びません。
家の中でゲームに集中しています。
ほおずきはスーパーの店頭で
<お盆用品>として売られているので
子供が目にする機会はあるのですが、
ほおずきでスッポン、スッポンと
遊ぶ遊び方は知らないでしょう。
鬼灯(ほおずき)
ことしもほおずきの季節が
やってきた。
鬼灯と書いて「ほおずき」と読む。
わが家の庭で育ったほおずきは
花屋で買うのとくらべると
とても貧弱だけど、
お墓に持っていくとご先祖さまが
よろこんでくれる。
花屋で売っている見事な
おおぶりのほおずきよりも
わが家のちっちゃくて色の悪い
ほおずきの方を
ご先祖様は
おおいに歓迎してくれる。
お墓参りに行ってきた。
公園墓地には
むかしながらの石塔形式の
お墓以外に、
横に長い西洋式の
お墓が多い。
むかし風の墓石を「和型墓石」
横長の西洋風を「洋型墓石」
というらしい。
洋型墓石に書かれている文字は
「○○家」、
両脇の花活けの台石に家紋が
彫られている、
といった形が一般的だ。
ところが「○○家」以外に
変わった文字が
あることに
気がついた。
たとえば、
夢、偲、想、愛、心
などである。
自分の家よりも
故人のひとがらを偲ぶ心が
見えてくる。
興味があったので、
よく注意して
墓石を観察することにした。
俱會一處、光壽無量、佛、
これなどは仏教にかかわる
文字だなとわかる。
「命在天」というのもあった。
碑、礎、慈、和、楽、優、
なんとなくわかる。
明、徳、信
おそらく、これらは個人の人格を
あらわしているんだろう。
静、静寂、寂光、やすらぎ、永久の憩い、
これなどはいかにも
「やすらかにお眠りください」と
祈る側の気持ちをあらわしている。
悠久、宙
というのがあった。
「宙」の方はなにか
宇宙に関する研究に
貢献した人かもしれない。
曙光、光、慕情、想い出、
わかりやすい。
海
これは海が好きだった故人を
偲んでのことか、
海にかかわる仕事をした人
なのか。
優、淡・・・
故人の性格をあらわしているのか?
めずらしいのは
「天に遊ぶ」
「夏球」
というのがあった。
夏の球といえば甲子園
を連想する。
甲子園出場を果たした誇りを、
または甲子園出場を夢見て
果たせなかった思いを、
語っているのだろうか。
最後にこんなのがあった。
「またきてね」
わかりやすくて
たのしい。
グラスゴーの奇跡!
いやーまいった。
グラスゴーの奇跡!
日本がスペインを撃破したニュースは
世界中に衝撃をあたえました。
「日本は歴史を作った!」(英・ザ・ガーディアン)
「フィニッシュがもっとよければ、5,6点は取れた」
(同上)
「スペイン・ショック:ハムデンでの大津のゴール」
(英・BBC)
「スペインを破る金星、大津のゴールを守る」(ロイタ
ー通信)
2012欧州選手権の優勝メンバーである
ジョルディ・アルバ、ホアン・マタ、ハビ・
マルティネスなど世界のトップ選手たちを
擁したスペイン・チームを、
わが日本代表たちは
けちょんけちょんに
やっつけたのである。
しかしスペインはうまかった。
パスは乱れなく、日本ゴールに迫るときの
迫力はすごかった。
日本の守備陣がからだをはって
ボールを奪いにいったが、
運がなければ
あるいは
スペインがもっと落ち着いていたなら、
何点かとられていたかもしれない。
だからスペイン選手をそこまで
あわてさせた日本チームの最初の
入り方がすべてを決したとも
いえる。
それほどすさまじかった。
前線の選手は必死に走り、
相手のボールの出所を抑えた。
あるいは体当たりでボールを
うばった。
スペイン選手はたまらず
ボールを後ろへもどすしか
なかった。
スペインのリズムは消された。
英国ザ・ガーディアン紙が書いて
いるように、
日本の決定力が
もうちょっとあれば、
5点か6点をとったかもしれない。
それほど組織的に試合を組み立て
相手ゴールに何度も迫ったのである。
永井も清武も
決定力不足をいやというほど
知っている。
ゴールキーパー権田は
率直に相手GKデ・ヘアの見事な
技術を称賛する。
1対1になってかならず止めた技術を。
権田はデ・ヘアに負けたことを
率直に認めている。
その態度が権田の進化につながる。
モロッコ、ホンジュラス戦が期待できる。
ヨコハマ石川町ぶらり散歩②
リセンヌ小路の入り口
リセンヌとは女子高生という意味の
フランス語だ。
女子高生の通学路だから、
通りの名前に
ちょっと洒落たつもりで
フランス語を使ってみた
ということか。
大通りではなく裏通りだから
”リセンヌ小路”にした。
そんなところだろう。
女子高生とはどこの女子高か?
フェリス女学院、横浜雙葉、中央大横浜山手、
共立学園、横浜女学院などがある。
以前ここで紹介したと思うが、
リセンヌ小路の手前の坂を
登っていくと、
大丸谷坂の標識があり、
そこに1体のお地蔵さんが
祀ってある。
横浜大空襲のとき、
大丸谷坂を火の柱が駆け上がり、
イタリア山へ逃げる人々を
焼き尽くしたという。
リセンヌ小路を楽しげに語らい
ながら通学する女子高生の
何人が
かつてこの場所が
地獄のような凄惨な風景であった
ことを知っているだろうか。
大丸谷坂のふもと、
リセンヌ小路の角は、いま、
郵便局がある。
ヨコハマ石川町ぶらり散歩
駅舎がそのままガード下になっている
ヨコハマの石川町駅南口は面白い形に
なっている。
南口を出ると、すぐガード下に
なっている。
右へ行くとガードをくぐって
吉浜町方面へ。
左へ行くと
リセンヌ小路を経て
元町方面へと
向かっている。
石川町の駅は
北口と南口とでは、
駅前の風景が
月とスッポンほどの
違いがある。
ところで、
前回、
「兵籍と履歴が全部手書き」
と書いた。
これだけでは何が何だかわからない。
あまりに無責任だと思うので
すこしばかり
説明しておこうと思います。
「兵籍」とは以下の通りのものです。
まず右上から
兵種、適任証書、本籍族称、氏名、妻、
子、父、母、兄弟姉妹孫、
次に、
出身別、服役区分、
下の段へ
位階、勲等功級、賞典、刑罰
特業及び特有の技能、官等級
などの欄がある。
「履歴」とは、
中学卒業以後の学歴と、
どういう任務についたか、
任地はどこかを
年度別に記している。
兵籍の「賞典」の欄をみてみよう。
「昭和七年七月十一日士官学校本科卒業
優等に付き銀時計一個下賜、昭和十三年
十二月八日陸軍大学校卒業成績優等に
付き賜品を下賜・・・(略)」などと
書かれている。
お気づきの方もいると思うが、
十二月八日は大東亜戦争勃発の日だ。
運命的な何かを感じさせる。
彼は終戦時に関東軍参謀の地位にあり、
ソ連軍によってシベリアに抑留されるが、
かの地で十一年を過ごしたのち
昭和三十一年八月十九日、帰国する。
ソ連という国がどういうことをしたか、
また悲惨な抑留生活を日本人たちは
いかに耐え忍んだか、
抑留末期に収容所で起きた
大堀事件とハバロフスク事件について
も、『動機』『指導部』『戦術』が
ことこまかに記述されている。
瀬島龍三は明治四十四年、富山県の
松沢村に生まれた。
県立砺波中学一年を修了したのち、
東京の陸軍幼年学校に進む。
さらに士官学校、陸軍大学校を
トップの成績で卒業し、翌年第五軍参謀
に任ぜられて満州へ向かう。
陸軍のエリートがあの戦争を
どう総括したのか、
また、
戦後の日本の進むべき道を
どう考え、
どう行動したか、
この本「幾山河」は
語っている。
古本屋のワゴンで105円で
手に入れたにしては
内容が濃いと言わなければならない。
さて話はヨコハマにもどる。
石川町の駅の南口を出て
左の方へぶらりと歩きだすことにする。
やがて行く手にリセンヌ小路の
看板をかかげたアーチが見えて
くる。
梅雨明け十日は古本屋へ行こう!
JR藤沢駅前の古書店太虚堂
ぼやぼやしてる間に梅雨が明けて
しまいました。
しかたなく
タイトルを変更しました。
今回は
JR藤沢駅北口を出て
すぐ目の前にある
さいか屋デパートの
西側入り口の
真ん前にある
太虚堂に
行きました。
太虚(たいきょ)とは何ぞや?
広辞苑によると、
「①大空②万物の根源、宇宙の本体」
などが出ています。
また、漢語林を見ると、
「①宇宙の根源たる大元気、宇宙生成
の初め②おおぞら、天空
などと書いてあります。
この書店の創業者は、
なみなみならぬ精神の持主ということが
店名を見ても想像できます。
エライ人です。
そこで
例によって、
外に出ているワゴンから
見て行きます。
ここのワゴンはバカにしては
いけません。
すごい掘り出し物が
ときどきあるからです。
きょう最初は
角田文衛著「椒庭秘抄~待賢門璋子の生涯」
(朝日新聞社・昭和50年1月第一刷)です。
山本耕三氏の美しい装丁が
まず目に飛び込んできました。
二番目は、
武田 花の「仏壇におはぎ」(角川春樹事務所
2004年6月第一刷)でした。
例によって猫がいたるところに
でてくる写真が多いですが、
今回のフォトエッセイは
猫以外の話題が豊富で面白い。
その次は
ちょっと分厚いけれど
「瀬島龍三回想録 幾山河」
(産経新聞社・1995)
これは
戦争終結時の陸海軍作戦課の
合同研究、政府・大本営間の討議
を経て御前会議へ至る動きを
知るのに役立つ。
とくに巻末の兵籍と履歴(手書き)が
興味を引く。
梅雨の晴れ間は古本屋へ行こう②
茅ヶ崎サザン通りの古本屋
サザン通りは
茅ヶ崎駅南口を下りて
「ドトール」の角を右へ曲がり
二本目の通りを
左へ入ります。
その通りが「サザン通り」です。
一本手前の道も
サザン通りだと
いう人もいますが、
サザン通り商店街ののぼり旗を
掲げているのは
二本目の通りです。
お米やさんとか
小学校とかが
ある通りです。
古本屋は四つ角のすこし手前に
あります。
『古本買入』
と正しく書かれた
看板が
外に出ています。
古本屋は
「ほづみ書店」と言う名前です。
古本屋があるかないかが
まっとうな町かどうかの
判定基準になります。
古本屋がある町は
まっとうです。
まず外に出されている
ワゴンの本から
点検を開始します。
3冊200円というからには
3冊探さなければ
なりません。
まず選んだのは
武藤誠著「明治の炎~『警察手眼』の世界」
(啓正社文庫)
『警察手眼』とは警察手帳ではないですよ。
明治維新のあと
町奉行とか与力、同心、岡っ引きなど
江戸幕府の警察制度がすべて廃止され
かわりに近代警察制度が
スタートしました。
司法省(いまの法務省)の中の
警保寮が警察の事務を担当する役所で
警保頭(局長)は島本仲道、
警保助(次長)が薩摩出身の川路利良
ほか2名でした。
明治5年のことです。
川路は任命された翌月、
ヨーロッパ視察のため1年間
日本を離れます。
帰国後、川路はフランス、イギリス、
ドイツ、ベルギーなど欧州列強から
学んだことを建白書にまとめ、
これからの日本の警察はこうあるべき
との指針をあきらかにしたのです。
この指針こそ
『警察手眼』なのです。
『警察手眼』という
聞き慣れない語が、
まず
ぼくの興味をひきました。
”手眼”というのは、
”手快眼明”の略で、
「解説」とか「手引き」
というような意味らしい。
ぼくはうっかり
警察手帳の解説書かと
早とちりしてしまい、
途中で
手帳じゃないことに気づき、
不明を深く恥じた次第です。
「明治の炎」というタイトルも、
川路利良という薩摩人の
ぶれない人間性をよくあらわしている
と思いました。
西郷隆盛と行動をともにした薩摩出身者
が多い中で、
西郷への私情に流されず、
公的使命を全うした人でした。
いまの政治家や官僚を見ると、
たとえば原子力村のように
東京電力の支配下に喜んで
はせ参じた
金儲け主義の情けない人間たち
ばかりが主流ではないですか?
川路の「手眼」を彼らの目の前に
つきつけてやりたいくらいです。
この本を書いた人は
大正11年生まれ、
九州大学を出て警察畑に入り。
途中外務省に出向しますが、
のち鹿児島県警や兵庫県警の
本部長になり、最後は
警察大学校校長をつとめました。
警察官の心得を
明治の黎明期にまでさかのぼって
そのよって立つところを
みんなに知らせたい、
という
炎のような熱意が
つたわってくる本です。
めずらしい本だなと思い、
これが1冊目。
つぎに手に取ったのは
筒井康隆著「敵」(新潮文庫)
です。
第1ページ目に、
「若い夫婦が朝方に巣巣巣巣巣・・・」
などと書いてあるのが
いかにも筒井康隆らしい。
「あなたはご飯の炊き方が上手」と
死んだ妻におだてられたという
主人公儀助の
ご飯の炊き方というのは、
カップ1の米にカップ10分の9の水
を加え
炊飯器で炊くというもの。
すこし固めが好みらしい。
目次は
朝食から始まって友人、物置、講演、病気・・
老臭、親族、買物、性欲、夜間飛行・・
目次からして老人臭い。
この夜間飛行とは主人公がときどき
行く会員制のクラブの名である。
目次の最後は 春雨。
春雨の「しとしと」のイメージを
文字にあらわすと
「使途使途使途」か
「死都死都死都」か
「使徒使徒使徒」
だという。
川本三郎が解説を書いている。
「老人文学の傑作である」
これが2冊目。
次は、内田康夫著「萩原朔太郎の亡霊」
これは
最初から、
末尾の解説に目をやった。
前回の川本の解説が面白かったから。
吉村達也が解説を書いている。
彼によると、
内田康夫の自作解説がすごいという。
解説で解説の話をしているところが
すごい。
この解説を読んでいると、
内田康夫という作家が
世にもヘンな作家に
見えてくる。
いままで読んだことのない
作家だったが
ヘンな人柄を検証してみようと
読むことに決めた。
以上3冊、決定。
きょうは、
ワゴンだけで時間切れとなった。
次回は本屋の中を
点検することとする。
サザン通りには、
新しいイタリアンの店が
できたというから
そっちの方も
試してみようと思う。









