ポストたずねて三千里 -13ページ目

八月十五日の記憶⑨

ポストたずねて三千里                                                      

         あの日も暑い日だった





走る人 昭和20年8月10日の午前2時20分、

天皇陛下(昭和天皇)のお言葉が下り、

ポツダム宣言受諾,

つまり日本は降伏し,戦争をやめるという

方針がきまりました。









そこにいたるまでが大変でした。

前日(9日)から続いていた閣議を最高戦争指導

会議にあらため、枢密院議長を呼び、

天皇陛下にもご臨席を仰ぎました。







最高戦争指導会議は、首相、外相、陸相、

海相、参謀総長、軍令部総長の6名です。戦争を

やめることを決めるのですから、会議はもめつづけ、

3対3のまま翌日(10日)になってもきまりません。

鈴木貫太郎首相は立ちあがり、「これだけやって

決着がつかないのなら、陛下のご聖断を仰ぐしかない」

と言って天皇陛下の前にすすみ最敬礼をしました。






天皇陛下は、「それでは朕の考えを申す」

以下、かなり長いお言葉が続いたとつたえ

られています。

「戦争終結を決意する」

というくだりで、列席者はみなはらはらと涙を

流したといわれます。










天皇のお言葉の要点は、

「このまま戦争を続けるならば、日本民族

が滅びてしまう。これまで多くの国民が

命を落としたのに、これ以上国民を苦しめる

ことは忍びない。いまは忍びがたきを忍ばね

ならぬ時だ。わたしは戦争を終らせたい」

というものでした。







終戦の大方針は決まっても、それをどう

相手国に知らせるか、また陸軍など、

徹底抗戦を叫んでいる現場を説得するには

どうするか、難問は山のようでした。







外務省は中立国スエーデンの駐在公使を

通じてポツダム宣言受諾の日本政府の意思を

英ソの2ヶ国に伝え、スイス駐在公使を通じて

米中2ケ国へ伝えることにしました。






スエーデン駐在公使は岡本季正氏でした。

日本文は届いたが英訳が届かないので、

岡本氏のところで仮の翻訳文を作って

スエーデンの外務大臣に渡したそうです。

ところが、「天皇の大権」というのがなかなか

わかってもらえず、説明に苦しんだそうです。







いまでもそうですが、役所の文章

はとにかく難しくてわかりにくい。それを英語

にするとなおさら難しくなるのです。






でも国際法学者でもあるスエーデンの外務大臣

にたいし必死の説得をした岡本公使の努力が、

実を結びます。スエーデンの外務大臣も好意的に

動いてくれました。






これによって、日本側の条件、つまり、

「天皇を中心とする国家という基本は守る」

という条件つき受諾を

全世界に知らしめることができた

のではないかと思います。






終戦工作はまさに綱渡りの連続でした。

外務省の仕事はどうにか済んだが、陸軍は

納得していません。阿南陸軍大臣は陸軍省の

幹部全員のまえで、これまでのいきさつを説明し、

ご聖断がくだったことをつたえました。

「陸軍は整然とした行動をとることだ。勝手な

行動は許されない」とさとしたといいます。

しかし、幹部のなかには不満があり、するどい

質問の矢が大臣へ放たれました







「大臣は徳義というものを重要視されますが、

それでは陸軍の徳義はどうなるのですか?」






これにたいし、阿南陸相は一歩前へ進んで、

「不服の者は、まず阿南を斬れ!」

とむちを振って強い口調で言ったと

伝えられます。







阿南陸軍大臣は、自らの命をかけて

戦争終結を実現させようとしたのですね。







終戦の日八月十五日に

阿南陸相は自刃しました。

遺書に「一死を以て大罪を謝し奉る」

と書いてありました。






ところでポツダム宣言受諾を伝えたあと、

4ヶ国の返事を待つことになります。

8月13日に返事の電報が到着します。

天皇について日本がつけた条件はどう扱われて

いるか心配です。英文では連合軍総司令官に

”subject to”

と書いてあります。さあ大変。







陸軍は辞書の中から「隷属する」という訳語を

取り出して文句をつける、外務省は、

「制限のもとにおかれる」だという、内閣書記官

長は「何々することを妨げず」という場合に使う

言葉だと言って一日中議論がつづきます。







そこへスエーデン公使の岡本氏からスエーデンの

新聞に乗った英国の論調が伝えられます。

天皇の扱いについては「ソ連の天皇反対を押し

切ったアメリカ外交の勝利」という記事内容でした。

天皇中心は認められたのです。

一同ほっと胸をなでおろします。







ここでもスエーデンの岡本氏は大きな貢献をして

います。

歴史の歯車が大きく回るときには、時として

岡本氏ような個人の働きが大きな役割を演じる

ことがあるものです。







「よくあの人が、あのときにいてくれたなあ」と、

後から皆で感謝する気持ちになります。







日本には、そういう貴重な人材がときどき出て、

場面場面で、貴重な仕事をやり遂げてきました。

明治維新のときもそうでした。







次の難問は戦争遂行中の国民、第一線の

兵士たちへ、戦争終結を伝えるため、天皇が

「終戦の詔勅」を放送するということでした。





放送の計画は情報局から提案が出たといわれ

ます。

詔勅は「大東亜戦争終結の詔書」とも呼ばれて

います。






原稿は、下書きを内閣書記官長の迫水久常氏

が書き、それをもとに漢学者の川田瑞穂氏が

起草し、安岡正篤氏が加筆して完成しました。

天皇の裁可を受け、鈴木貫太郎首相以下閣僚

が署名して14日付けで発布の運びとなりました。






安岡氏が加筆したところは2ヶ所だといわれて

います。

「永遠の平和を確保せんと欲す」の部分を

「万世のために太平を開かんと欲す」とした箇所。

もう1ヶ所は、

「義命の存する所」を

「時運のおもむく所」に替えた個所。以上の2ヶ所

です。なるほど、と感心させられます。








詔勅の録音をとるためにNHKの職員8人が

皇居へ向かったのは、8月14日の夜9時ごろの

ことでした。

当時は円盤録音で、レコードの形で録音しました。

録音テープが出てくるのは戦後のこと。東京通信

工業(のちのソニー)が携帯録音機(デンスケ)を

開発する時まで待たねばなりません。

大きくて重い録音機ですから人数も必要でした。






詔勅は5分間ぐらいでした。円盤1枚で3分しか

録音できないので、5分録音するには円盤が2枚

必要でした。

1回目の録音が終わったあと、

天皇は、もう一度取ろうと言われ、2回目の録音

をとりました。

録音盤は合計4枚でした。






このあとで起こった近衛師団のクーデターによって

皇居が襲撃されたとき、反乱軍の目標は詔勅を奪い

とることでした。

NHKの職員は皇居を引きさがるとき徳川侍従jに

録音盤4枚を預けました。翌日正午の放送ときまって

いましたから、放送の直前に取りにくることにしたのです。

結果的にはこれがいい判断でした。

このあと、NHKの職員は馬場先門でクーデターの

兵士に捕まってしまったからです。






徳川義寛侍従は、録音盤を侍従室の奥の金庫に

しまったといいます。金庫といっても二人で

持ち運びできるほどの簡単なものでした。

簡単なものに隠したからこそ、さいごまで発見され

ずに無事ですみました。







しかし徳川侍従はクーデターの兵士とぶつかった

とき、録音盤のありかを聞かれ、「知っていても

教えてやるもんか」と言って兵士から殴られたそう

です。

もしクーデターの兵士に奪われていたとしたら

終戦はどうなっていたでしょうか。

ここにも歴史の重要なポイントで役割を果たした

人の存在を思わずにはいられません。







近衛師団の反乱は十五日の午前2時すぎ、

天皇が録音を終えられて部屋へ戻られたころ

森 赳(たけし)師団長が反乱軍将校によって

射殺される悲劇ではじまります。

ニセの師団命令が出され、それに踊らされた将兵が

皇居内に乱入したのです。






午前4時阿南陸相が責任をとって自害します。




午前5時ごろ、NHKも反乱軍に占拠され、反乱軍

の畑中健二少佐がピストルを突き付けて「放送さ

せろ」と放送局員を脅しました。局員は「全国放送

するためには準備に時間がかかる」といって時間

を引き延ばし反乱軍の放送を食い止めました。






東部軍の参謀が電話で畑中少佐を呼びだし、

説得して思いとどまらせました。












午前8時田中静壱東部軍司令官が命がけで

反乱軍を説得し、ついに反乱は鎮圧されます。






馬場先門で監禁されていたNHK職員が解放

され、録音盤は放送局へ運ばれます。







正午に重大放送があるという予告の放送が

ラジオで流され、国民は正午の放送を待ちます。

天皇陛下もご自身の声をお聞きになったそうです。





この放送を玉音放送といいます。

数奇な運命をたどった録音盤は、現在、東京・

愛宕山の放送博物館に収蔵されています。






映画俳優の池部良は玉音放送をニューギニアの

近くの小島で聞いたと語っています。

放送が終わってあちらこちらで「ばんざい、ばんざい」

の声があがり、泣きながら「よく敗けてくれた」と

言っている人もいたと語っています。






放送は中波だけでなく、短波でも世界中に放送され、

海外放送でも英語で平川唯一が放送しました。

平川唯一は終戦後NHKの英語会話の番組で

講師として大活躍し、「カムカム英会話」として一世を

風靡しました。





 

八月十五日の記憶⑧

ポストたずねて三千里                                                   

       復興と鎮魂そして感謝




走る人  昭和20年8月9日午前11時02分、長崎に

原爆が投下されました。






 米軍機の名前は「ボックスカー」。投下した

のはチャールズ・スイ-二-少佐でした。

 広島に投下したのはウラニウム原爆でしたが

長崎に投下したのはプルトニウム原爆でした。






 放射線障害の人体に及ぼす影響を知るための

人体実験が目的でした。






 原爆を日本に落とすことは昭和19年9月18日、

ハイドパーク協定で決まっていたのです。

 アメリカ、ニューヨーク州ハイドパークでアメリカ

大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルが

首脳会談を行い、核に関する秘密協定を結び

ました。それがハイドパーク協定です。

そのとき、原爆を落とすのは日本だと決めたの

です。米英両国はドイツとも戦っていましたが

(ドイツの降伏は昭和20年5月)原爆をドイツに

落とすことは議論されなかったようです。これが

米英に人種差別の意識があったといわれる理由

です。






 原爆投下の予定地は、20年の7月24日にきまり

ました。それまで京都が予定地に入っていたのですが

陸軍長官のスチムソンが猛反対して京都の代わりに

長崎が入ったのでした。小倉、広島、新潟、長崎の

4都市が最終予定地ときまりました。






 スチムソン陸軍長官と言う人物は不思議な人物

です。1867年生まれ。イエール大学時代に秘密結社

「スカル・アンド・ボーンズ」に入会しています。

ジョージ・ブッシュ(43代大統領)も同じメンバーです。

この秘密結社はトゥーレ教会、CIA、イルミナティとも

関係があると言われています。

イエール大学のあとハーヴァード大学のロースクール

を出て弁護士になります。のちにタフト大統領のとき

政界入りを果たし、陸軍長官になり、フーヴァー大統領

のとき国務長官になり、ルーズベルトのとき再び

陸軍長官になったという経歴の持ち主です。






そのスチムソンが京都を原爆の目標から外したのは

戦争が終わった後、日本人との和解が不可能になる、

また、日本人をロシアに近づけることになる、と考えた

からです。彼の日記にそう書いてあります。彼は日記に

「かかる無茶な行為よって生じる残酷な事態のため、

戦後長期間にわたり日本人との和解が不可能になる」

と書いています。






京都を守ってくれた人と聞くと、お人よしの日本人は

すぐ親近感を持ちそうですが、それは甘いといわざる

をえません。

それより、アメリカという国には、戦争の最中にも、

終戦後のことを、そうとう先の先まで戦略的に考える

がいたという事実に注目すべきだと思います。

日本側にはそんな人がいたでしょうか?








ニ・ニ六事件で処刑された北一輝はかなり先の先まで

正確に読んでいたらしいことを松本健一氏が指摘して

います。アメリカとは戦争をしてはいけない。もしやれば

すぐイギリスが参戦するだろう。中国もアメリカ側につき

翌日にはソ連も参戦するだろうと。かなり正確な見通し

です。これを昭和7年と昭和10年に建白書として提出

しているのです。そういう日本人は少なかったのです。

しかも銃殺されてしまってはどうにもなりません。








とにかく昭和20年7月25日にトルーマン大統領、

スチムソン陸軍長官、マーシャル参謀総長、アーノルド

陸軍航空軍総司令官の承認をえて、原爆投下命令が

下されたのでした。





「日本がポツダムj宣言を黙殺したから原爆を落とした」

という説は、これで崩れるのです。前年の昭和19年9月

18日に米英首脳間のハイドパーク協定で日本に落とす

ことが決められており、ポツダム宣言(7月27日)の2日前

に大統領の投下命令が出ていたからです。

こういう日付けは、はっきりと記憶しておきましょう。




八月十五日の記憶⑦

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      あの日も真っ青な空だった







走る人 昭和20年(1945)8月9日午前0時、

ソ連と満州国境付近にある日本軍の司令部

上空にソ連の偵察機が侵入し、照明弾を落とし

て行きました。






 これがソ連の中立条約違反の火事場泥棒的

戦争のはじまりでした。

 ソ連軍はT34型戦車を先頭に国境線を突破し

て侵入を開始しました。

 しかし日本側はすぐさま反撃できませんでした。







 なぜなら、関東軍はソ連をいたずらに刺激しない

ため「満ソ国境警備要綱」を出して、命令が出るまで

敵対行動を禁止していたのです。








 命令が出たのは午前8時ごろでした。

 ソ連軍が国境線を越えてから8時間もたってから

では遅すぎました。

 日本軍の拠点はつぎつぎに攻略されて、戦車を

食い止めるため火炎瓶や爆雷を胸に抱いて肉弾で

戦車の下に飛び込むということしかできず、死体の

山がきづかれていきました。

 ソ連のT34中型戦車は火炎放射機も持っていま

したので、爆雷を抱いて近づく日本兵を黒こげに

してしまうこともありました。








 しかし、日本軍は負けてばかりはいませんでした。

 野戦重砲兵第二十連隊は、九六式十五センチ

榴弾砲でソ連のT34中型戦車を100台以上撃破炎上

させました。日本の砲兵は射程の計測が正確で、

命中率が非常に高かったのです。兵隊の練度が

ちがうのです。








 しかし悲劇もありました。

 大木の手前から大砲を撃った時、大木の下に

日本兵がいたのです。

 砲弾は大木すれすれに飛んで行きました。

すると飛ぶ砲弾の後方が真空状態になるため、

一人の兵隊が吸い込まれるように舞いあがり、

大木の上の方にひっかかってしまったのです。

引き下ろして手当をしましたが、すでに圧死し

ていました。

そういう悲しい戦死の事実があったのです。

 五味川純平の「人間の条件」には、このときの

すさまじい戦闘場面が描かれています。

八月十五日の記憶⑥

ポツダム

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  祭り。その土地で生きる決意を新たにする。








走る人  昭和20年8月7日の朝、東京・内幸町のNHKの

海外放送スタジオで英語ニュースを放送し終えた係員

が、

「アトミック・ボム~原子爆弾ですよ。V0A(ボイス・オブ・

アメリカ=アメリカの海外宣伝放送)のサンフランシスコ

放送がトルーマン大統領の声明を出して、その中で

言ってます」

と言いました。原子爆弾という直訳した言葉はあっという

間に全国へひろまっていきます。







ここから日本政府はポツダム宣言受諾へ向かって

動き出します。







ポツダム宣言と言うのはこれより先7月に、アメリカ、

イギリス、中国の3国がドイツ降伏のあと、ベルリンの

郊外のポツダムに集まって、日本に降伏の機会を

与えること、日本の戦後処理の問題など13項目を決め、

7月26日に3ヶ国の共同声明の形で発表しました。

のちにソ連が加わり、米英中ソ4ヶ国の宣言になりました。







 若い人は、ポツダムと聞けばあのなでしこジャパンの

永里優季を連想するでしょう。ポツダムはベルリンの西南

26キロにある人口15万の小都市です。

そこにドイツ・ブンデスリーガの女子サッカーチーム

FFC・トゥルビネ・ポツダムがあります。永里優季はここで

プレーしています。そのポツダムが日本の敗戦を決定づける

場所になったのですから、歴史と言うのは皮肉なものですね。

永里選手もそれを聞いたらびっくりするでしょう。







ポツダム宣言を受諾するか否かは日本にとって大変な

ことでした。なにしろ日本は歴史上戦争に負けた経験

がないのです。

ドイツは何度も負けた経験がありますから、次はどう

なるという計算ができるし、事前に必要な手が打てます。

日本は、負けた場合どうなるのか、展開がまったく読め

なかったのです。でも外務省はずいぶんがんばりました。

ポツダムj宣言受諾にむけて積極的に働きかけた

功績はたたえられるべきです。






 東郷外相はポツダム宣言は戦争終結の絶好の機会

だと判断しますが、しかしタイミングが悪い。ソ連に

仲介の労をとってもらうため交渉中でしたから返事を

待ってからにすべきではないかと考えました。







軍部は最初はその案に賛成でしたが、時間がたつに

つれ士気にかかわるから断固反対の決意を示せと

強硬な姿勢に傾いていきます。






そこで鈴木総理大臣は「ポツダム宣言はカイロ宣言

と内容が変わらぬから重要視しない」と発表しました。

ところが、内閣書記官長の記者会見で「重要視しない

とはどういう意味か」と聞かれ、今の時代なら「ノーコメ

ント」というべきところ、「黙殺する」という言葉が出て、

それが海外放送で外国に報道する際「ignore無視する」

と翻訳され、さらに外国の報道機関が故意か偶然か

「reject拒絶する」という言葉で報道してしまった、と

そのとき内閣書記官長(今の内閣官房長官)だった

迫水氏が語っています。不幸な誤訳でした。

この「拒絶」があとでソ連に悪用されてしまうのです。

ソ連は日本から終戦の仲介を依頼されていたが、日本が

ポツダム宣言を「拒絶した」から、仲介するための基礎

がなくなった。だからソ連は対日戦に踏み切ったのだと

理不尽きわまる戦争の理由づけに利用したのです。









 ソ連は日本と中立条約を結んでいたのですが

一方的に条約を踏みにじって日本に宣戦布告し

のです。

まさしくソ連は火事泥棒をやったのです。

その火事場泥棒は8月9日午前1時、ソ連と満州

国境を突然ソ連の戦車が突破するという形で実行

されました。







 それにしても記者会見のまずさ、わかりにくさなどを

みると、今の日本政府や大企業(トヨタや東京電力)の

記者会見に通じるものがあります。

誤解を受けるあいまいな表現が、かえって状況や結果

をますます悪くするような記者会見がたくさん見られます。

当時の日本の報道機関は政府とべったりでしたから、

政府に協力するのが当たり前でしたが、外国の報道機関

はそうはいきません。そのあたりの訓練というか扱い方

ができていなかったことは否めません。

それと英語の使い方についても、

研究不足というか無知な部分が多々あったようです。

ですから、外国から誤解されたまま貴重な時間を失って

その間、戦争はつづき多くの命が失われました。










8月7日、愛知県の豊川が空襲を受け、2、000人以上

が死にました。死者数は最小2,417人から最大2818人

まで諸説あって実数は不明です。

この空襲で小学生ら447人が死んだと言われます。







豊川市には日本で最大の海軍工廠があり、たくさんの

学徒、女子挺身隊、中学生、女学生が勤労動員でかり

出されていました。この空襲に12歳と13歳の

国民学校(小学生)生徒らが巻きこまれて死にました。






空襲は午前10時13分から始まり、B29124機とPー51

戦闘機45機が来襲して、3,256発の500ポンド爆弾を

投下し、Pー51戦闘機は機銃掃射で多くの人を殺しました。

10時39分に空襲は終わりました。

小学生がこれほどたくさん殺されたケースは他に例を

みないと思われます。













 








八月十五日の記憶⑤

ポストたずねて三千里



走る人 きょうは原爆の日です。







  いまから66年前の今日、広島に

アメリカ軍が原子爆弾を落とした日です。






 広島では平和式典が繰り広げられて

いますが、だれも「原爆が投下された日」

としか言わず、原爆をおとした犯人の名

を言いません。誰が落としたのか、

”誰が”という主語が欠落したままなのです。







 犯人の名はポール・ティべッツです。

B29の機長でした。そのB29には「エノラ・

ゲイ」というニックネームがついていました。

勿論彼個人が原爆を落としたわけではなく

アメリカという国家が政府の決定で落とすこと

を命じたのです。







 でも彼自身が戦後を通じて原爆投下を正当

化したことは事実です。

 注目すべきことは、彼の息子のジーン・ティべ

ッツが、今年の広島平和祭典にルース・アメリカ

駐日大使の出席を非難していることです。






 駐日大使が出席してオバマ大統領のメッセージ

を伝えることは「無言の謝罪」になるというので

承服できないといって非難しているのです。

「戦争は終わった。放っておくべきだ。」と言うのです。






駐日大使の出席は「歴史の書き換え」につながる、

と彼は言うのです。

彼の言う歴史とは何でしょうか?






 彼は言います。「リメンバー・パールハーバー、

われわれは戦争を終わらせた」と原爆の正当性を

主張しているのです。







 

 アメリカ人の典型的な考え方がここに出ています。

つまり、原爆が戦争を終わらせたのだ、だから日本人

はありがたく思うべきだという考え方です。しかも、

注目すべきは「原爆」といっしょに「リメンバー・パール

ハーバー」を使っています。

これは原爆は真珠湾攻撃の復讐だという意味に受け

とれます。

かれは、やはり真珠湾の復讐で原爆攻撃をしたのだ

と考えているようです。

真珠湾の復讐をして、その復讐(原爆)が結果的に

日本人を(むだな大量死から)救ってやったことになる

とでもいうのでしょうか?

 不思議な論理ですが、アメリカ人の気持ちを慰める

にはピッタリくる考え方なのでしょう。
アメリカ人には広島長崎28万人を一瞬のうちに殺した

罪悪感がついて回っていますから、どこかでその罪の

重みから逃れる必要があるのです。






 原爆投下について当時の連合軍総司令官の判断は

投下の必要なし、でした。

 軍事的に日本は壊滅していたからです。

 それなのになぜ投下したのか?

 それは前にもこの欄で書きました。

 実験したかったからです。






 アメリカ人には受け入れがたいでしょうが、

その事実を日本人は示すべきです。

でないと、ジーン・ティべッツのような頑固な

考え方のアメリカ人がますます増えていく

からです。

 広島に主席されたアメリカのルース大使は

まことに御苦労さまです。

しかしあなたの出席はけっしてむだでは

ありません。原爆を落とした主人公を明らかに

することが、どれだけ日本人にとって大切か

を知らしめたのですから。66年もかかりました。









 


八月十五日の記憶④

ポストたずねて三千里




走る人 アメリカで講演会に招かれた日本人

女性(留学生)が、

「女性の地位」について講演しました。

講演が終わったあと、ひとりの五十代の

アメリカ人女性が質問しました。







「アメリカは日本のために原爆を落としたのですよ。

あのまま戦争を続けていたら、もっと多くの日本人

の生命が失われたでしょう。アメリカは戦争を終わ

らせるために原爆をおとしたのです。あなたはどう

お考えですか?」








「原爆投下は日本のため」という言い方は、

アメリカ人からよく聞きます。おそらく学校で教えて

いるのでしょう。







講演会で質問を受けた日本人女性は、

「私は、そうは思いません

ときっぱり答えました。








会場はどよめきました。








「なぜ?」「理由は?」

と矢継ぎ早に質問が飛んできました。






この女性は、会場を埋め尽くしたアメリカ人

の聴衆全員を敵にまわしたかっこうになり

ました。








それでも女性は、ひるむことなく、敢然と

反論をはじめました。






「もし日本を降伏させるのが目的なら、

原爆投下は必要なかったと思います。

なぜならば、それより1ヶ月前に、日本は

降伏のあっせんをソ連に頼んでいたから

です。日本には降伏する意志があったのです。」





 すぐ質問が飛んできました。

「では、あなたは、なぜアメリカが原爆を落とした

とお考えですか?」







「効果を実験したかったのだと思います。」







 叫び声が上がりました。会場は騒然となり

ました。





 さきほどの五十代の女性が詰め寄ってきて、

「なんておそろしいことを!あなたは自分が言って

いることの意味がわかってるんですか?あなたは、

わたしたちがどれだけ人間を殺せるか

実験するために原爆を落とした

と言ってるんですよ!」




 会場全体が燃えるような非難のまなざしを

この日本女性に集中させたのです。

さすがに女性は内心怖じ気づき、<軽はずみな

ことをしてしまった>と思ったそうです。







でも、この大和なでしこは勇気をふりしぼって

言葉をつづけました。








「あなたがたとは申しません。わたしはあなたがた

の善意を理解いたします。しかしアメリカの

暗号傍受の技術は優秀でしたから、日本の降伏

の意図は知っていたと思うのです。わたしは、

アメリカ軍部の決定を指摘しているのです。」







 このやりとりはすべて英語で行われました。








質問者が、英語でWeというとき、アメリカ政府、

軍部、一般市民全体をさすことを、この女性は

知っていました。






女性はわざと会場の聴衆と

軍部を分け、またかれらが信頼している政府

のことには触れないように気を配りました。







会場はシーンとなりました。







 そこでもう一つの質問がきました。

「それはあなた個人の意見ですか?それとも

日本では多くの人がそう考えているんですか?」







 ここが最大のポイントでした。







「日本では、多くの人がそう考えています。」

と言いきったのです。


 一人の中年男性の冷静な声が会場に

響きました。

「これはコインの表と裏のようなものです。

私たちは表ばかり見て裏に気がつかなかった。

多くの日本人が私たちと違う意見をもっている

事実を直視しなければなりません。

そのことを教えてくれた今日の講師の勇気に

感謝したいと思います。」

会場から大きな拍手がまきおこりました。







 言葉で相手を説得するための

さまざまなヒントがこのエピソードには

含まれています。






 おそれずに自分の意見を主張し、

相手を納得させるためにどう言葉を

使ったらいいのか。






 以上の話は、この勇気あるやまと

でしこの加藤恭子さんが書いた本*

なかにでてくるエピソードを若干潤色して

紹介したものです。

 

 *「言葉でたたかう技術~日本的美質と

雄弁力」(文藝春秋) 





いま日本人が一番必要な

外国人との接触の仕方、

外国人への意見の伝え方、

外国人を説得する方法を

アメリカ留学の豊富な体験から

教えてくれる必読の書と言える

のではないでしょうか。










八月十五日の記憶③

ポストたずねて三千里



走る人ハワイのアメリカ太平洋艦隊司令長官の

キンメル大将は解任されました。責任をとらされ

のです。そして少将に降格されました。






 しかし、戦後になってキンメル大将の遺族が

名誉回復の訴えを起こし、アメリカ上院と下院が

名誉回復の決議を採択しました。





 なぜかというと、アメリカ大統領のルーズベルトは

日本海軍の真珠湾攻撃を事前に知っていたという

説が出てきたからです。





 日本の暗号がアメリカ側に解読されていたこと

が明らかになったのです。

1941年(昭和16年)9月24日、東京からハワイの

ホノルルにある日本領事館あての暗号電報が

10月10日に解読されています。つぎのとおり。

「戦艦および航空母艦については錨泊中のもの、

埠頭に繋留中のもの、浮標に繋留したもの、入渠

中のものを報告されたし。(艦型と艦種を簡単に

示せ)」という指示でした。






 このあとホノルルの喜多総領事からの返事の電報

もアメリカ側に解読されました。その電報には、

海軍工廠内の修理ドックをKS、フォード島近くの

繋留泊地をFVなどと真珠湾内の艦船の位置を示す

符号がいくつか含まれていました。

 こういう符号をみただけで、情報に携わる人間なら

ピンと来ます。日本が真珠湾を狙っていることは

確実でした。





 アメリカ側に暗号電報をすべて解読されていた

わけですから、大統領とその周辺は真珠湾攻撃

を事前に知っていましたが、そのことを隠しました。

 ハワイの太平洋艦隊司令長官には誰も連絡

しなかったのです。

 国務長官、陸軍長官、海軍長官、陸海軍情報

部長、陸海軍計画部長、海軍作戦部長のもとに

情報は伝えられたのに、ハワイのキンメル司令官

へはだれも知らせなかったのです。

何らかの意図があったとしか考えられません。







大統領とその周辺が日本の真珠湾

攻撃を知っていながらハワイへは連絡しなかった

事実については、いかにももっともらしい解説が

なされています。






たとえばつぎのようなものです。

「アメリカ海軍は1930年代から日本が真珠湾を

攻撃する可能性があるとして、たび重なる演習を

おこなってきた。

たしかにキンメル将軍には情報を伝えるべきだった

が、彼ほどの地位と責任のある立場なら、つねに

戦争と言う最悪の場合に備えておくべきだった」






当時アメリカは世界大戦に参加せず中立の立場を

とっていました。国民は戦争をきらっていました。

そこで大統領は日本に真珠湾を攻撃させ、

国民の怒りに火をつけ、世論を一気に戦争参加へ

と動かすことをもくろんだのです。






キンメル大将はなにも知らされずに責任追及され、

クビをきられ、大将から少将に格下げされ、

職務怠慢の烙印を押されたのです。

その悔しさはいかばかりだったでしょう。

遺族が訴えをおこしたのも当然です。








大統領の思惑通りことはすすみました。

アメリカ国民ははげしく怒り、真珠湾を忘れるな!

の大合唱が巻き起こり、議会はアメリカの

戦争参加を承認したのです。

このことは、ルーズベルト大統領の陰謀として

今日まで語り継がれていますが、

上院と下院がキンメル将軍の名誉回復決議を

採択したあとのアメリカの大統領は、

クリントンもブッシュも署名はしていません。






 このあたりが微妙です。

 キンメル将軍はいわば犠牲者だから、上院

と下院が名誉を回復して遺族の無念をいちおう

晴らしておきたい。

 しかしながら当時の大統領の陰謀説はどう

しても認めたくない。

 

 もし陰謀説を認めてしまったら、あの戦争は

正義の戦争だったことにならないからです。

アメリカという国は、いつも相手が先に手を出し

たからやむを得ず応戦したと言う風に自己正当

化する国です。

 いつも正義のために戦うのだという大義名分を

必要とする国です。

 たとえどんなこじつけであっても、罠をしかけて

でも正義は必要なのです。







 思えば日本はルーズベルトの罠にはまったと

いう気がしてなりません。

 真珠湾奇襲攻撃で沈めた艦船のなかに

航空母艦はありません。航空母艦はなぜか港の

外に出ていました。これは奇跡的と言われて

います。

 また山本五十六の攻撃計画には燃料貯蔵庫

と作業場が入っていなかったために、アメリカ側

はすぐさま破壊された軍艦の修理作業ができま

した。このことは、航空母艦が残ったこととあわ

せて、のちの珊瑚海海戦とミッドウエー作戦で

日本海軍をたたきのめすことに役だったのです。






 結果からみれば、ルーズベルトの描いた

シナリオにまんまとのせられ、踊らされた真珠湾

攻撃作戦だったと言うこともできます。






 もし真珠湾で航空母艦を沈め、燃料貯蔵庫を

破壊し、作業場をやっつけていたら、アメリカ側

の戦力回復はずっと遅れたでしょう。

 暗号が読まれていたとしても、珊瑚海やミッド

ウエーでの展開がかなり有利になっていたかも

知れません。






 しかし、つまるところ山本元帥さえ初戦の勝利

しか期待していませんでしたし、飛行機の増産が

できず、燃料もない戦争にはおのずから限界が

ありました。

 この戦争の教訓の第一は、日本が長期的な戦略

を持っていなかったことです。海軍も陸軍もそうでした。

 先の見通しを持っていないと、結局戦いには勝て

ません。

 末端の兵隊はじつによく戦ったのですが、全体の

作戦計画jを立てる部分と司令官クラスの上層部が

だらしなく、無責任だったことは残念なことでした。





 今の日本にも、これとおなじ傾向が見られる

のが不思議です。

 企業でいえば社長とか重役クラスがだらしなく

無責任で、現場の社員だけはじつにがんばって

いる、こんな風景があちこちで見られます。

 









 










八月十五日の記憶②

ポストたずねて三千里







走る人  昭和16年12月8日(アメリカでは7日)の

朝早く、日本の海軍はアメリカ・ハワイの真珠湾

に停泊中のアメリカ海軍の太平洋艦隊の軍艦を

攻撃しました。






 アメリカの人々は非常に大きなショックを受け、

「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を

忘れるな)という言葉がのちのちまで語り継がれる

原因となりました。






 あのニューヨークのツインビルを崩壊させた9.11

テロのときに「リメンバー・パールハーバー」の

言葉が引き合いに出されたほど、この言葉は現在でも

アメリカ人の頭に深く刻み込まれているのです。






 それは「だまし討ち」不道徳な攻撃」という言葉で

今でも語られ、日本にたいする憎しみ、侮蔑のイメージ

をアメリカの子どもの頭に植え付けるのに役立っています。








 これに対して日本側からは、それは誤りだと公式に

反論していません。いやできなかったのです。

なぜなら、当時アメリカ駐在の日本大使は、戦争

開始の事前通告をアメリカ国務長官に手渡すのに

手間取って(本国からの電文を英語に翻訳してタイプ

で清書するのに時間がかかった)、

真珠湾攻撃のあとになってしまったからです。








 ほんとうは最後通牒を出してから、攻撃する手はず

になっていたのですから、「不意打ち」のつもりはなく、

「不道徳な攻撃」と言われるすじあいはないのですが

結果的にこちらの不手際で「不意打ち」になって

しまったのです。これを説明しても相手が納得する

わけがないので、沈黙するしかないのです。







 でも心の中では、日本人は不意打ちではないと思って

いますから、今になって、「お前らは不道徳な攻撃をした

よな」と言われると釈然としないし、

だからと言って日本大使館のお粗末ぶりを理由に

くだくだ説明するのも弁解がましくてみっともないし、

もういらいらして、

腹の中がぐらぐらと煮えくりかえってしまうのです。

(ほんとに外交官なら英訳や英文タイプをちゃんとやれ

よと言いたくなります)

八月十五日の記憶

ポストたずねて三千里  





走る人今日から8月です。日本が戦争に負けた日が

まもなくやってきます。







 昭和20年の日本は、正月3日の大阪空襲に始まり

16日京都、19日明石、姫路、尼ヶ崎、和歌山、新宮、

27日東京という風に、毎日、日本のどこかの町が

空襲を受け、人々は家を焼かれ、逃げ惑い、路頭に

迷っていました。






 8月1日、アメリカ軍の飛行機が撒いたビラには

爆撃予定地が漢字で書かれています。

 そこに書かれていたのは、

長野、高岡、久留米、福山、富山、舞鶴、水戸、

八王子、郡山、前橋、西宮、大津でした。

 長岡は書かれていませんが、実際には空襲を

受けました。ひょっとすると

高岡と間違えたのか?とも考えられます。








 空襲というのは、

アメリカの爆撃機ボーイングB29というバカでかい

飛行機が何百機も飛んできて、雨のように焼夷弾を

落とすのです。







 なかには油脂焼夷弾と言って、爆弾の中に

油を入れて、燃焼効率を良くした焼夷弾があり

ました。これにやられるとまわりじゅう火の海に

なって、なにもかも焼き尽くしてしまうという

おそろしい爆弾です。







 これは黄リンとか重油などを詰めた

小型爆弾(М69焼夷弾)を数十個束ねた形

の爆弾で、

E46集束焼夷弾と呼ばれました。

のちにヴェトナム戦争で米軍が使ったナパーム弾

がそれです。

 東京大空襲ではこのE46集束焼夷弾が使用

されました。木造家屋が建てこんだ下町は、

それこそ火の海と化し、巨大な火の柱が町中を

走ったと言われます。

 






 また昭和20年7月28日の青森大空襲では

E48集束焼夷弾(これにはМ74六角焼夷弾が

数十発束ねてある)が使用され、米軍はこれを

実験だと言っています。

木と紙と竹でできた日本家屋の場合、非常に

効果があったと報告しています。

 この実験が役に立って、のちにベトナム戦争の

時、米軍は使用するのです。






 実験で人を殺すのですから、とても残虐で悪質な

行為といわなければなりません。





日本の家が木造家屋だというのをよく知っていた

アメリカは、焼夷弾で家を焼き払うことを計画し、

反撃する能力を失った東京を対象に実験的に

使用したのです。

驚くべきことです。







 断っておきますが、アメリカが爆弾を落とした

相手は軍事施設ではないのです。

一般市民です。

非戦闘員の一般市民を対象にしたのです。

ジュネーブ条約違反であることは明らかです。


 





 この焼夷弾は、
のちに1983年、特定通常兵器使用禁止制限

条約で禁止されたくらいひどい兵器でした。






 戦争中日本軍は南京で市民を虐殺したと

か(これはウソですからね。殺したのは

兵隊です。これはゲリラ攻撃に応戦した結果

のことです。しかも多くて二千人くらいだと言わ

れています。)

 捕虜を虐待したとか(英国軍も日本

兵捕虜を虐待していますし、アメリカ兵は、

日本兵の死体から金歯を抜きとるという蛮行を

やっています。)そんな悪口をいう人がいます。


”日本人は残虐な国民だ”と宣伝する人がいたら、

戦争中の、とくに昭和20年の

アメリカ軍の日本空襲のことを例に挙げて

反論して下さい。

これほど残酷で悪辣な行為は、世界史上かつて

なかったのですから。勿論この空襲の最後には

広島と長崎での原爆がありました。







 私たちは、日本のことを悪く言う外国人の悪質

な宣伝に対し、ひとつひとつ反論しなければいけ

ないのに、






 お人よしというか、無関心というか、無知というか

黙って見過ごしていることがおおいようです。






 黙って見過ごしていいのでしょうか。

 欧米では黙っているとそれを認めたことに

なります。

 「わかるやつはわかる」

と腹芸ですませようとしても欧米人には

まったく通用しないのです。



 





 事実はどうだったのかを調べることが

なにより大切だと思います。

 調べたうえで証拠をあげて、一々反論し

なければ、

間違ったイメージが定着してしまいます。

 日本人は反論できないのだ。

 だから事実なんだ。
ということになります。











 昭和20年8月1日の八王子市の場合は、320機が

飛んできてまず照明弾を落として市街を明るく照らし

てから、

М17集束焼夷弾を落としました。

 2時間で1,600トンの焼夷弾(市民一人当たり10個)

を落としたため市街のほとんどが壊滅しました。

 死者445人、負傷者2,000人以上、被災者70,000人

の被害が出ました。

同じ日、静岡県の浜松市、新潟県の長岡市が空襲

を受けました。

 長岡空襲では死者1,476、

 罹災戸数は11,986戸です。

 長岡の場合は、B29が125期飛んできて、

焼夷弾163、456発の焼夷弾を投下しました。








夜の10時30分からE46集束焼夷弾投下がはじまり

中に詰められたМ69子爆弾は161、272発にもおよび

ました。

このМ69は火のついたゼリー状の油脂ガソリンを撒き

ちらすので、落ちたところは周りがすべて火の海になり

ます。

またМ47焼夷弾も2,172発投下されました。これは

大型ガソリン焼夷弾で、川に逃げてもガソリンが燃える

ため逃げ切れないのです。残酷です。








さらに、М47-WP黄リン焼夷弾は消火活動を阻止する

目的で投下されました。明らかに殺すことが目的なの

です。川に逃げても逃げ切れないように、また、

消防團が消火活動できないようにするなど、

民間人、非戦闘員の逃げ道をすべてふさぎ、確実に

殺すことを意図した爆撃でした。








富山市でも夜十時ごろからB29の不気味な爆音が

聞こえはじめました。空襲警報が発令されました。

ラジオが「空襲警報発令、空襲警報発令」と叫びます。








日付けが変わるころ、B29の編隊がごうごうたる音

をたてて飛んできました。

 

 





家の外では警防団のひとがメガホンで「空襲警報

発令!」と怒鳴って走って行きます。サイレンが延々と

鳴り続けます。






シュルシュルシュルという音、シャーっという音、

ざわざわという音・・・・・これらが爆弾が落ちて

来るときの音です。何も音がしない時がもっとも

おそろしい時です。それは直撃弾で確実に死んで

しまう場合です。





 遠くの方でドカーンと言う音がして爆弾が落ちた

ことがわかります。外へ出てみると空が真っ赤に

なっています。






 逃げ惑うひとびとの黒いシルエットが右往左往する

のが見えます。翌朝富山の町はがれきと化していました。

町のいたるところに死体がごろごろしています。

防空頭巾をかぶった少女は胸を真っ赤に血で染めて

死んでいます。胴体だけの死体があります。手は空を

つかんでいます。







 ぼく自身の経験では、電信柱の高いところに

一本の腕が突き立っているのをみました。

ちぎれた腕が飛ばされて電柱にぶつかって

付着したのでしょう。血が糊の役割をしたのだろうと

思われます。






 



 当時の日本は若い男子は勿論、男と言う男は

ほとんど戦地へ行ってしまって、残っていたのは

女と子ども、あとは老人だけでした。






 



 アメリカの空襲はそんな弱い人々を焼き殺した

のです。命が助かった人々も家財産を失い、

着るものも食べ物もいっさいがっさい失って、

焼け跡にただぼう然と立ちすくむのみでした。








 


 なでしこジャパンがW杯決勝でアメリカに勝った

とき、東京都知事の石原慎太郎氏がこう言った

のをぼくは覚えています。

「おれはアメリカに勝ったことが嬉しいんだ。

なにしろ遺恨があるからね」と。

 この言葉の意味を心の底から理解できるのは

空襲の経験者でしょう。

 彼は昭和20年当時中学1年生でしたから、

米軍の残虐な焼夷弾による日本焼土作戦を

熟知していたのです。13歳のこどもながら、お国

のためにすべてを捧げる覚悟を持っていたのだと

思います。

むろん命をも。


地蔵堂の双体少女像

ポストたずねて三千里                                                            

         地蔵堂の少女像





走る人妙義坂の地蔵堂にもどります。









 地蔵堂にはお地蔵さんのほかに

いくつかの石仏が置かれてあると

さきに書きましたが、








 いちばん左の端に、

小学生の少女が二人並んだ石像が

あります。








 見たことがありません。こんな

石像は。







 なんですか、これ?







 説明パネルがありました。








 昭和8年に、この前の道路で

交通事故があり、小学生が車に

轢かれて亡くなったらしい。








 昭和8年と言えば1933年です。

 その年に生まれた人は78歳に

なります。








 天皇陛下が昭和8年のお生まれ

です。







 「鳴った鳴ったサイレン、サイレン、サイレン」

という当時の皇太子のお誕生をお祝いする

歌が日本中で歌われました。








 二人の小学生のお墓の石像に

手を合わせてお参りしました。

 妙義坂は歴史のある坂道なんですね。