機内で目が覚めたシリーズ1
羽田発ニューヨーク線。
1度目の食事をしている途中で2本の活動写真を観た。
戦後数十年経って、活動写真のことを映画と呼ぶようになった。
以下、映画で統一。
どの映画を観ても、必ずと言っていいほど、
人の死、他殺、接吻、抱擁、交接、フォーニケーションのシーンが出て来る。登場人物は必ずと言っていいほど、どの映画でも死ぬ。
つまりハッピーで幸せのまま何の変哲もなく幸せで終わる映画は誰も観たくないのだ。
残酷ではあり、人は認めたくない事実であるが、
他人の不幸を見て、自分の幸福度を測るのが人である。
映画の評論家ではないので、一つ一つの映画について語らない。
批判するのを専門家というカテゴリーを作って仕事を作り出した映画評論家に任せたらいいので小生は個別の映画については語らない。
ただ、活動は、いや映画は、人々の観たいものを観せるのが仕事である。
そうでなければ、売れない。
要するに、実社会で他人を殺害したら逮捕されて処刑もあるが、映画の中でバーチャルな自分が殺害してくれるのだ。 そしてバーチャルな自分がいい男、いい女と接吻、交接を繰り返す。
少しの興奮が程よく自尊心を刺激し、リビドーのバーチャルなエンハンスメントをリードする。
映画が終わったら、しばらくの間、自我が蘇る。
エンドクレジットの時間は大切である。
その数分間で、作品のストーリーを思い出し感慨にふけるのがよい。
つがいで映画を観ていたなら、つがいの相手の感性を確かめる時間である。
映画が終わった瞬間に去るつがいの姿をよく見るが、
あまり感性が豊かとは言えない気がする。
小生のブログは、人に受けることを考えて書いていない。
思っていることを書いているだけである。
なぜなら、金儲けの目的ではなく、
自分の思考の整理をしているだけだからだ。
本当に裕福に暮らしている人から見ると、
他人のことなどどうでもいいのだが、
中途半端に金を持っていて、嫉妬心のある方は癖がわるい。
そのような方は、
映画に没頭して自分がいかに幸せかを測っていたらいいのである。