監督 シャーロット・ウェルズ
ジャンル ドラマ
出演 ポール・メスカル フランキー・コリオ セリア・ロウルソン・ホール ケイリー・コールマン サリー・メッシャム
鑑賞方法 自宅にて動画配信を視聴
そりゃあれもこれも映画館で観るにこしたことはないけど、そんなにヒマを持て余している訳でもないので、自宅での動画観賞も映画を観るのに重要な手段。
自宅で観ると、どうしても室内の光が画面に映りこむので基本的に暗い絵作りが多い映画は鑑賞の環境が悪くなりがちなのですが、ようやく映画鑑賞をストレスなしに観られる環境を年末に整備。
どうしたって映画館には敵わないものの、いつでもトイレに行けるし、好きなものを飲食できるし周りに気を使う必要がないことは、それはそれで格別な体験です。
選択肢に、ドルビーシネマ、IMAX、地域最大のスクリーン、両側自分用ひじかけがあるプレミアムシート、近所の行きつけの映画館、自宅モニターでの視聴、iPadでの視聴と7通りくらいあるので、そのどれにするのかを考えるのも楽しいポイント。
そして今回はこの映画は自宅鑑賞を選択。
あらすじを調べたら自宅で主人公が過去に撮影されたハンディカメラの録画映像を部屋で観ている、という設定だったので、むしろモニターで観るべきだという理由。
さて、内容なのですが、これはなかなかに強烈な映画でした。
主人公が過去に父親の撮ったビデオ映像を観ているのですが、それによって観ている劇中の主人公が撮影者ですでに他界したと思われる父親のことに思いをはせる内容となっており、その映像をとおして、この映画を観ている我々も自分の脳内に自信の体験記録のメモリー(思い出)を呼び覚ましながら映画体験を補完してゆくことになります。
このあたりの観客のいざない方は凝りに凝っていて、映画のはじめのほうで、ピントをいたずらで娘が父のカメラを使って撮る父親に向かわせて、そこからカメラを持っている娘にピントをあわせ、それすらモニターに反射した映像であるという仕掛けで”これはあなたのストーリーです”と説明抜きに感覚だけで引き寄せてしまうようにできています。
こうなると本作の映画体験はこの映画単体だけの体験ではなく、その映画体験でダブらせることになる観客自身の家族の脳内メモリーの話をしないといけなくなります。自分はこの作品のビデオカメラ映像を通じて、脳内に別のカメラ映像が同時進行で流れました。
それは父親がビデオカメラで撮影した親戚を巻き込んで行った大家族旅行の映像です。
まるで中国人のツアーのような一族での旅行は、7人兄弟で末っ子だった母が病気で体調が悪くなったりし始めた姉妹をみて、元気なうちに全員集まって思い出を作りたいと企画したもので、父が映す映像には子供にようにはしゃぎまわる母の姿がありました。この映像は母が他界したあとも10年ほど見つからず、父が他界した昨年に遺品整理していた弟が見つけて、この映像をみながら、兄弟で何も言わずに涙を流しました。父はレンズを通して母の幸せそうな表情を見つけてはそれを景色そっちのけでカメラで追って最大限にクローズアップしていました。
映像から母に末期がんが見つかる直前の映像であることが読み取れ、それから12年経って、撮られた母も撮っている父ももうこの世にいない、という現実。
悲しいことに母も5人兄弟の末っ子だった父も兄弟で一番早くこの世を去ってしまいました。
自分が親になってはじめて知る親の苦労。
この映画では夜に赤ちゃんが泣き止まない描写が出てきます。
これは子育てした人ならだれでもわかる子供を育てるとき一番初めに訪れる試練で、「これを乗り越えた親ってすご」って思う最初の一つです。子供は親のことをを慮ることができないばかりに他者としてうまく認識できないわけですが、その結果当然のように享受していた親の愛やその裏側での親の悲哀を見抜けずに無邪気に過ごします。
そして親の気づかぬうちに確実に子供は成長し、親を絶対的なものからひとりの大人として徐々に認識を変化させそれが親離れとなり、思春期に向かいます。
この映画はそうしたいくつもの世代の中で万人に繰り返されてきた気づきと後悔の連鎖を映画作品として切り取った作品で、父と娘のひと夏の思い出の記憶は誰しもが共感でき、思いをはせる体験になって、作品を観終わった後も、いやむしろ観終わった数日後にじわじわと大きくなって感動をもたらしてくれます。
ちなみに劇中で使われるREMの”Losing My Religion”と”デビッド・ボウイ&クイーンの”Under Pressure”が秀逸すぎ。これとブラーの”Tender”がいまだに頭の中で再生されています。
aftersunとは日焼け後に塗るクリームの商品名とのことですが、私にとっては、観終わった後に日焼けのごとくずっと脳内に残る余韻に塗る薬としてこれらの曲をことあるごとに聴いています。