こんにちは。「墓の魚」の作曲家です。
最近、「リメンバー・ミー」という
メキシコの死者の日をテーマにした映画が話題になっていますね。
それとはまた違いますが、同じ骨の芸術の話、

本日は私達の作品のテーマともなっている墓場の虫のお話をしたいと思います。


 

というのも、私達の音楽の二つのテーマ
「キリスト教の信仰」と、「墓地と虫」の芸術の関連がわからない・・
というお客さんの声をよく聞くからなのです。

さて、そもそも墓地の芸術ですが、
例えば一つにヴァニタス絵画がございます。



これは静物画の中に財宝や果物(人間の富と繁栄、命の象徴)を描き、
そして、そこに髑髏や、果物に集る虫(蠅が多い)を描くという芸術ジャンルで、
ようするに

「どんな富も繁栄も、
必ずいつかは蔭りが指し、滅びて無くなる物だ。
全ては虚しいものだ」


というメッセージがそこには込められているのです
(髑髏や砂時計が描かれる場合、
いつかは時が全てを無にしてしまう、というニュアンスが強く、
果物につく虫の表現は、物事に蔭りが生じる、
順風な繁栄に対する滅びの不安などのニュアンスが強いように感じます)


そう、墓地の絵や、骨、虫などのおぞましい芸術は、
多かれ少なかれそうしたメッセージを含んでいると考えていいと思います。



とはいえ、こうしたおぞましい芸術と、魂の美を求めるような信仰の芸術・・
確かに一見何の関連があるのだろう?と思ってしまいますね。

蛆虫は古い西洋絵画の世界では、罪の象徴と言われていますが、
なぜ昔の南欧の人々は、純粋なキリスト教徒でありながら、
死の描写におぞましい蛆虫を這わせ、
屍の口からはヒキガエルやトンボを這い出させる不穏な表現をしたのでしょうか?

(トランジ芸術と呼ばれるおぞましい屍の像は、
死後のおぞましい姿を見せつけ、
現世を怠惰に生きる者達に忠告を与える物だったと言われています)↓



それはキリスト教の教えに理由があります。

キリスト教では、
死後、人間の魂は大天使によって、その罪の重さを裁かれ、
その者が善人(罪を償った魂=良きキリスト者)ならば、
主の王国で永遠の命を得れると言われています。

(人間の魂の罪を計る大天使ミカエル)↓


しかし、善人とはそもそも何でしょうか?
神が人間の地位でも勲章でもなく、魂を裁量する以上、
人は大天使の前で心の中を隠す事はできません。

つまり、本当は多くの人がわかっていたのではないでしょうか?

善人のフリをして生きながらも、自分はもしかしたら楽園に行く事はできない、と。

そういった陰鬱な真実、恐れや不安、
後ろめたさが、芸術の世界で、
死後の屍を喰い荒らす、おぞましい虫共として現れているのだとしたら、
這い回るウジ共が罪の象徴である・・という絵画の文化も
納得のできる話ではないでしょうか?

そして、罪の重さに対する後ろめたさ、悲しさが、
確実に西洋世界では文学、詩などを産む原動力となっていると
私は思います。



信仰は目に見えないものですが、それは当然の事です。
もしも神が目に見えて存在していたら、それは信仰とは関係ない
現実主義者、拝金主義者、資本主義者達によって利用され、
現実を生きる道具とされてしまう事でしょう。

神は存在として見えないものだからこそ、信仰が不確かで危ういものとなり、
だからこそ信仰は高尚なものとなるのです。

いるか、いないか、誰にもわからないものを信じるからこそ、
そこに試される信仰心があり、それが試練なのです。

皮肉な事に現実を生きる人々が、
その信仰の答えを得れるのも「死」によってなのですが(笑)

心の中にやましい事、あるいは不安をたくさん抱えたキリスト教徒達には、
死はどのように写ったのでしょうか?



心の中に、やましい事のない人間なんていませんよね?

そういった事を考えて墓想の芸術を見ると、
ただ、おぞましいだけではない、
また違った面のメメントモリ芸術が見れるかもしれません。

ヴァニタスを歌った「墓の魚」の作品動画↓↓

 

 



 



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