こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。
本日は「墓の魚」の重要テーマである
「腐敗の芸術」についてお話していきたいと思います。
◆この世の栄光も、命も、やがて腐り、
土に帰ってゆくものだ。
◆100年後にはみんな死者だ
(スペインのことわざ)
こうした哲学を表現した芸術にヴァニタス絵画というものがあります。
ヴァニタス絵画は、財宝や食物の中に
墓地から拾ってきた様な粗野な頭蓋骨を置き、
[この世の繁栄も永遠ではない。
世の栄光など虚しいものだ]
というテーマを描く写実画です。

ヴァニタス画は16世紀の古い芸術ではありますが、
イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス・・・
要するにラテンや、南欧の世界の人々の精神に根付き、
近代でも画家達によって描かれています。
(あのピカソも、B・ビュッフェも、ヴァニタス画を描いています)
どんなに美しい花園にだって、日陰があるように
ムカデやゴミムシが這い回る哀れな場所があるのだ。
(黒実音子「墓の魚」の作品
「ボティーガス墓地の一夜」より)
腐敗は、死は、
この世のあらゆる物質が
受け入れなければならない真実であり、
だからこその哲学であるのです。
私達は華やかな喧噪や、富に身を隠し、
そうした真実から目を逸らそうとしますが、
[腐敗]から逃れる事は出来ません。

泥棒も、教会の司教も、死んでしまえば同じ土の中だ。
腐ってしまえば同じだ。
この腐ってしまえば同じだという表現は、
シェイクスピアも劇の中で
墓堀りの道化や、ハムレットに言わせている台詞です。
またキリスト教において「腐敗」というものは、
人間の罪の象徴であり、
犯した罪故の結果であると考えられていました。
しかし、ここで、
ある人は疑問を持つかもしれません。
泥棒も、教会の司教も、
死んでしまえば腐る・・というのなら、
罪のある泥棒も、罪のない司教も、
なぜ同じく腐ると考えられたのでしょうか?
また、
そもそもキリスト教が土葬なのは、
いつか最後の審判がやってきた時に、
許された者達が復活し、
永遠の命を得る時に肉体が必要とされる故のものなのに、
その肉体が腐ってしまう事については
どう考えているのでしょうか?
この辺に、キリスト教の深い哲学があると私は解釈します。

誤解されがちですが、キリスト教では
人間である以上、全ての者は罪人である
と考えるのです。
むしろ[自分は罪人ではない]と考え、
他者の罪を責める様な者こそが
生まれた時から一度も罪を犯していない者だけが、
この者に石を投げよ
とイエスは、石を投げられた女性を庇い、
言ったと伝えられていますが、
ここでもキリスト教の原罪の哲学を垣間見る事が出来ます。
つまり
他者を責められる者などいないであろう?
自分も罪人なのに。
というメッセージがこの説話には込められているのです。
よって、
キリスト教の司教であろうと、泥棒であろうと、同じ罪人。
死ねば腐るのです。
むしろこの腐敗こそが、人間の本質であり、
世界の真実と芸術家達は考えます。
ちなみに、もう一つの疑問、
最後の審判での復活に関してですが、
最後の審判で得られる肉体とは、永遠の肉体・・・
すなわち霊の世界での肉体を得る事を意味していると
解釈される事が多い様です。
逆に、現実の肉体が罪により腐り、虫達に喰い尽くされ、
しかし、やがては崩れ、土に消えてゆく事で、新しい肉体を得る
という罪の浄化と赦しを考える事も出来る現象です。
その工程の中に
[腐敗と浄化の神学]があるのでしょう。

さて、
ヴァニタス絵画だけでなく、
メメントモリ芸術、ヴァド・モリの詩、死の舞踏、
メキシコの死者の日、近代のボードレールの詩など、
腐敗の哲学は
様々なヨーロッパの芸術作品の中で顔を出します。
そして、私達ラテン楽団「墓の魚」の作品こそ、
そういった南欧やラテンの死生学の思想を
ユーモラスに引き継いだラテン音楽なのです。
ラテン精神の一つ「腐敗の芸術」を、
ぜひ「墓の魚」の作品から感じ取っていただけましたら幸いです♪
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