縮景園は戦時中の空襲避難場所にされていましたので、被曝後は多くの市民で溢れかえっていました。
もちろんその多くの人がここで亡くなっていったという悲しい歴史があります。
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ここで亡くなった人の遺体は、荼毘の火が米軍機の目標になることを恐れて火葬にされず園内の丘に埋葬されました。
その場所が迎暉峰(げいきほう)と呼ばれかつてはここから遠く広島港も見渡せたそうです。
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もちろん今ではこんなところに遺体はなく、一家全滅で引き取り手がない遺体や身元不明者は平和記念公園にある原爆供養塔へ移されました。
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当時朝日新聞のカメラマンだった人が撮影した写真をもとに発掘調査が行われ、昭和62年(1987年)に多くの遺骨が発見されました。
わずか25年前まではこの足元には多くの遺骨が埋められていたということで、勝っても負けても悲惨な結果しか生まない戦争というのは絶対にやるべきではないと、肝に銘じなければなりません。
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日本語というのは難しいもので、「日本最初の喫茶店発祥の地」というのに、少々戸惑いを感じました。
「日本最初の喫茶店跡地」または「日本の喫茶店発祥の地」が正しいのではないでしょうか。
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明治21年(1888年)4月13日に日本初の喫茶店「可否茶館」がこの地に開業したので、4月13日は喫茶店の日とされています。
当時の新聞のよれば、「二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館で、一階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縦覧に供す部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。」とされています。
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コーヒーは1杯1銭5厘、ミルク入りは2銭でしたが、当時もりそばが8厘でしたので、かなり高価ということで、経営難のため4年後に閉店となりました。
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現代の私達が気楽にコーヒーを飲むことができるのは、こういった人たちが日本にそういった文化を持ち込んだことから始まりますので感謝しなければならないのですが、その跡地はかつては三洋電機、今はパナソニックのオフィスビルとなっていて跡形はなくなっています。
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河合曾良(1649-1710)という名前もあまり聞いたことがなかったのですが、松尾芭蕉が奥の細道で東北・北陸を旅した時に、ほとんどの行程に同行していた人物。
「かわい・そら」などという名前は現代では芸能人の名前のようですが、江戸時代中期の俳人としてはかなり有名な存在です。

松尾芭蕉が奥の細道に旅立ったのは元禄2年(1689年)のことですが、この時の松尾芭蕉は45才、河合曽良は40才ということで、当時の平均寿命から見ればかなり初老の男二人旅ということだったのでしょう。
年下の河合曽良の方がゴールの大垣を前にして病に倒れています。

河合曽良は芭蕉の弟子たちの中でも優秀だったことから、蕉門十哲(しょうもんじってつ)と言われる10人の一人と数えられています。
奥の細道に同行して、その覚書「曽良旅日記」は最初その信憑性を疑われていましたが、今では重要文化財となって天理大学の天理図書館にて保存されています。

宝永6年(1709年)には幕府の巡見使随員となり九州を回ることになりますが、翌年、壱岐を巡見中に62才で病死しています。
当時は62才でも徒歩で巡見をしていたわけですから、かなり過酷な労働条件だったのでしょう。



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