
多くのウイグル人が政治的なあるいは宗教的な理由で、チャイナ当局に逮捕され、投獄され、牢獄の中で強制労働を経験したことがあります。ここでは、ある元政治囚の筆者に語った実体験を報告します。
アブドラ・ミジティ氏は東トルキスタンカシュガル市出身のウイグル人で、今はトルコのイスタンブールで調理師として生計を立てています。
2001年5月5日、彼はチャイナのカシュガル市国家安全局により深夜に家から連行され、約1ヶ月半におよぶ取り調べを受けてから、秘密裁判を受け、ウルムチの第一監獄で5年間刑期を過ごし、2006年3月釈放され、2008年7月中央アジアを経由してトルコに亡命し、現在に至っています。
「私の家庭は代々宗教的な雰囲気の強いウイグル人家庭です。祖父がカシュガル市内のある大きいモスクのイマーム(イスラームで集団礼拝を指導する職)で、40年間務め、アラビア語、ペルシア語ができ、翻訳したイスラームに関する著書も数冊ありました。人民解放軍が1950年1月にカシュガルで影響力のある宗教指導者を逮捕した時に、祖父も捕られて、10年間カシュガルの監獄で過ごし、1960年の初め頃釈放され、その後はあの文化大革命時に、豚を飼育することを拒否したため、紅衛兵達に連れて行かれ、拷問等を受けて、心身ともにぼろぼろとなり、1969年81歳でなくなりました。父は、いつも私達に、祖父が当時の紅衛兵によって殺された、と言っていました。父は、1980年代、比較的な自由な社会情勢で、その宗教的な知識が認められ、町で再建されたモスクのイマームになり、10年間務めていました。その後は、体が弱くなり、退きました。私は、中学校卒業してから、家計を助ける為に、町で小さい商店を開き、商売を始めました。商品を買い取る為に、チャイナ本土の広州、上海などに行って、生地や衣料品を仕入れ、東トルキスタンの各地に卸売りをしていました。経済的にも潤い、余裕ができました。その様な状況で、カシュガル市内のいくつかのモスクに浄財を寄付し、ウイグル人の未成年の宗教教育を支援しました。私のこの活動に、カシュガル国家安全局が目をつけて、逮捕に踏み切った様です。実際に、私はチャイナの法律に反することは何もやっていませんでした。私が寄付を寄せたモスクは全部国が認定した宗教法人でした。皆さんから、寄付の領収書ももらっていました」。
アブドラさんは筆者にご自身の“政治犯”として逮捕された原因をこのように説明しました。確かに、彼のやっていた寄付は、チャイナの法律上は何も問題ないです。しかし、チャイナ共産党はウイグル人の中におけるイスラーム信仰には常に危機を感じ、目を光らせています。東トルキスタンにおける各地の国家安全局の重要な監視対象の一つには、アブドラさんの様な宗教団体に寄付するウイグル人の裕福層が入っています。
「私は逮捕され、実刑判決を受けてから、ウルムチの刑務所に連れて行かれました。私の体力は強いようでしたので、多くの拷問にも耐え、その挙句に、刑務所内の重労働に引っ張り出されました」。彼を思いため息をしながら、筆者に刑務所の中における重労働の実態について、話し出した。

「ウルムチ第一監獄は、“政治犯”がメインのところで、当時は二万人いると言われていました。我々は毎日、8次から労働に出て、仕事が終わるのは夜中の10時頃です。私は、出来上がったきたワイシャツにアイロンをかける仕事を半年間つづけ、その後は、梱包作業を半年間やっていました。毎日14時間働いていました。作業場は、冬は暖房が効かない、夏は冷房のない、過酷な状況でした。体力の弱い人は、1、2ヶ月で何らの病気にかかり、現場から消えたことがよくありました」
「場合によって、我々は工事現場に連れて行かれることもよくありました。殆どは、どこなのかも分からない山の中が多いです。道路の舗装作業、瓦礫の片付け、コンクリートの練り作業、何でも経験しました。一回、山の中で道路の舗装作業をやっている時に、隣の作業場に、突然山の上から大きな岩石が転がって落ちて来て、逃げるのに遅れていた二人のウイグル人“政治囚”を直撃し、下の川に落としました。あのときの悲惨な思いは今もはっきり覚えています」。
アブドラさんは大きなため息をしました。筆者は、いままでこの様な残酷な話はいくつも聞いて来ています。チャイナ共産党にとってウイグル人の“政治囚”は改造せねばならない相手ですので、その改造の手段は重労働を課すことで、彼らの命の安全はまったく考えていないです。
「私が監獄の工場でワイシャツを作っていた時でしたが、ある日突然我々は全員同じ色の制服、靴、帽子に着替えさせられました。警察は、外部の人が視察に来るので、誰も視察者に話しかけたり、勝手に質問を答えたりしてはならない、と命令しました。すると、その日5、6人のチャイナ人が作業場に入ってきた、我々の作業状況をみて、出て行きました。後から分かったのですが、それは台湾からの視察で、我々が作っているワイシャツは囚人の物かどうか、確認にきたそうです。監獄側は台湾の商人を騙す為に、我々の囚人服を別の作業服に変えて、作業場の入り口に「囚人の入室は厳禁」という看板を出して、その台湾商人を騙して、我々が作ったワイシャツを外国に輸出することが出来ました」。
なるほど、日本や台湾などの市場に出回るチャイナ生衣服はこの様な騙し方法で、輸出されたのでしょうか。我々一般消費者は全く何も知らない中で、チャイナでは過酷な状況下で、強制労働によって制作されている衣類を安く購入し、チャイナの刑務所の運営を助けているかも知れませんね!
「刑務所が運営している工場の労働環境が悪いだけではなく、そこでの待遇はまるで地獄です。1日14、15時間働いていて、場合によっては夜通し残業し、翌日は休むことができなかったため、眠くなってしまうこともしばしばあります。ミシン作業をしている囚人の中では、作業中にミシンの針が手の指に刺さってしまう事故もよくありました。その様な時に、監督のチャイナ人警察はその囚人をすぐ介護するのではなく、襟から引っ張って地面に倒して、持っている電気警棒で殴ることでした。我々は、この様な悲惨を目の当りにして、ただただ涙を流すしかなかったのです」。
「それだけではないです。何ヶ月もこの様な環境で重労働に従事すると、体力の弱い囚人は現場で倒れたり、または熟練していないために生産が遅れることもあります。その様な方々は、しばしば刑務所の警察に殴打されます。私と同じ囚人室でクチャ出身のレヒムという60代の方がいました。ある日アイロンをかけながら倒れ、アイロンが大きな音をして地面に落ちました。すると、すぐさま3人の警察官が彼を取り囲み、電気警棒で彼の顔、腕、手、体を殴り続きました。彼の体に電流を流すたびに、レヒムは大きな叫びを声を上げました。この出来ことの後、レヒムさんは二度と作業場に姿を現さなかったのです。殺されたと思います」。
筆者には、あまりにも悲惨すぎて、絶句しました。外国に輸出されるチャイナ製のワイシャツに実に無実な多くの“政治囚”の血と汗と涙が滲んでいるように思います。体が震えます!
