~ はじめに ~

本記事は、『「 死 」のエンパシーが超過剰反応ちう ... 』の記事から、
対人支援職の方より「続きを直ぐに書きやがれ!」とのリクエストを頂き、
辛辣な内容であってもストレートに綴って欲しいとの要望もあり、
ふむふむ ... ならば ... と、己の備忘録として徒然に綴ったものになります。
上記の前提ゆえ、あくまでも内容は私見(愚見)となっていることを付記します。





理想とするカウンセラーとの出会い

対人支援者としての己のカウンセリングスキルを
高めることを目的にした、ピアカウンセリング
(同じような立場や悩みを抱えた人たちが集まり、
同じ仲間として相談し合い、仲間同士で支え合う
ことを目的としたカウンセリング)や、ある意味、
純粋な相談事の支援対応として、臨床心理士を
はじめとするカウンセラーと名乗られている方々
との様々なセッションの実施等にこれまでの間で
注ぎ込んだ時間とお金&笑顔とため息の累計はどれ程になっているのかは、
高校時代の恋模様と併せて、もう想い出したくも無いほどである ... プルプルプル ...

世の中など「所詮はそんなもの」なのかも知れないが、自分に直接向き合って頂いたカウンセラー諸氏において、「この人は素晴らしい」と心の底から思えた人は、残念ながらもほぼ皆無だった(一定分野の専門家としてリファー/自身のクライエントの紹介依頼が出来る方は何人かいたが、それでもごく僅かだった ... )。

書籍を出版されているような方とのセッションも幾度となく行ってみたが、相談の主訴に対するプラスの感情の感嘆の顛末結果ではなく、ため息がこだまし続けるような言い様もない落胆の連続のなかで、セッションに対する納得感は皆無で、無駄な時間と費用だけがかさばり、そうなのにも関わらず対応してくれたカウンセラーさんは、妙に「いい仕事をやったぞ感」を滲ませてもいて ...

あぁここもやっぱりどしゃ降りさ」と吉田拓郎さんの「たどり着いたらいつも雨降り」の心境となるのが常だった。

善し悪しやべき論はさて置き、対人支援においては、相談者と支援者との「相性」が伴うものでもあり、「自分が理想像として求めるカウンセラーとまだ出会えていないだけなのさ ... 」などと素直な感情を押し殺して性善説に立って自分に言い聞かせ続けてきたのだが、いつの頃からか「もうカウンセラーを名乗られる方々には微塵の期待もしない」と思うようになり、今に至っている。

広い日本のどこかには、理想的な人はいるのだろうが、以後、自分が探し求めることはないだろうと思い至るなか、本物(本者)出てこい! ... と叫び続けてもいる。





カウンセリング・スキルと実際



カウンセラーとして、カウンセリング・スキルを身につける訓練において、
傾聴力と共感力」は大切なスキルとして、学びの際に最重点ポイントとして向き合うことになる。

詳細は省くが、傾聴姿勢については色々な形でパーソナリティーが色濃く出るものでもあり云々は然してないのだが、共感性・共感力については、カウンセリングスキルと嘯き、言葉上の共感の単語は発するも、心において共感をしている人はなんとも少なく(果たして内面的な共感が可能なのか・出来るのかが重要な検討点)、表面的な形式を以って取り繕うような方々が少なくなく、言動・態度(カウンセリングの形に拘り捕らわれている)にこの片鱗が伺えた瞬間に「たどり着いたらいつも雨降り」のイントロが流れ始めることになる。

別の言い方をするなら「(お相手を)分かった振りをする」ことともいえ、
分からずとも自分を知ろうと一生懸命に向き合い続けてくれている人には自己開示は進むのだが、テクニックとしてのスキル開示のように理解した素振りが感じられた瞬間に相談者の自己開示は一転して閉塞となってしまう

不信感 ... もうこうなると相談者の自己開示は叶わず、合わせ貝の如く頑なになってしまい、閉ざされた心の扉を再度開くのは至難の業となる。

そんな共感の振りの形などは、カウンセラー側が勝手に「これが正しい」と形を学んだだけのキッチュなモノであり、相談者が本気で「悩みを解決したい」と心の奥底を見せようとしているのに形式で対応されれば一気に期待の熱は冷め、逆に不信感が生まれ、味方が転じて敵となるくらいの状況を迎えてしまうことを分かっていない対人支援者の方が多いことを残念ながらも「いや」という程実感させられ続けて来た。

カウンセラーの存在理由は、目的である「問題解決」であり、傾聴に纏わる諸々はそのための手段であり、手段の実践が出来ることが問題解決に直結すると勘違いしているように見受けられる(手段の対応が出来ることが望ましいことには違いない)。

相談者と同じくカウンセラー側も悩みを「解決したい(この点の烏滸がましさの内省的な取り扱いも自己一致の観点で大切)」という姿勢が前提になければラポール(信頼関係)形成など出来よう筈もなく、相談者にとってはカウンセラー側のカウンセリング・メソッドなどどうでも良いものなのだとの認識が皆無なため、誰のためのセッションの時間なのかと思えてしまうことが少なくないのだ。

それほどまでに対人支援・対人支援者の技能というモノは難しいモノでもあると思っているのだが、「形重視の自己満足で心姿の本気度を持たず」、軽く考えて対応されている方の多さに辟易とし、もう本物探しをする余力は残っていないのだ ...




カウンセラー・対人支援者として、支援力向上のためのカウンセリング・スキルUPに繋げるためのブログを綴ることはもうしないと思うが、カウンセラーとして学ぶ心理学については、座学ではなく、日常生活のなかで活用出来る「応用心理学」がかなりあるため、そんな観点から「共感」を見つめてみたいと思う。


エンパシー(empathy):共感

シンパシー(sympathy):同感



自分自身の「理解者の存在」というものは、自己肯定感を育む上でとても大切なこととなる。

悩みが生じる過程で自己肯定感が低くなっている状態ゆえに問題解決が遠のき、解決の糸口を求めて相談をされることが少なくないことを踏まえるならば、対人支援者が良き理解者となる必要が生まれ、そのためには傾聴により、諸状況や感情等々の情報を集め、そこから客観性をもって要約を行い、主訴の理解とともに心姿(感情)に対して、理解者としての「共感」を伝えることでラポールが育まれ、弱り気味な自己肯定感の適正を支え、自己決定を促すことに繋がっていくといえる。


共感を紐解くと、「エンパシー(empathy)」と「シンパシー:sympathy」の2つの言葉・意味に辿り着く。


エンパシー:empathy(共感)とは、相手の立場に立って意思や感情を理解し、相手が感じたり考えたりしたことを共に感じる行為、または、これを想像する力のことで、共感や感情移入という意味になる。

ex. 相手にそんな風にされて、とても傷付いたんだね ...

相手の価値観に基づいて、気持ちを受け止め、理解しようとすることになる。


シンパシー:sympathy(同感)とは、相手の感情に共鳴して湧き上がる思いやりや同情といった感情のニュアンスの動きを指すものとなり、エンパシー(共感)のなかのひとつのあり方として定められる。

ex. あ ... 分かるわ ... それはとても傷付くよね ...

自分の価値観に照らし合わせて、自分も同じ価値観・意見であると、相手の気持ちに同意することになる。



上記のように話を受けた際の言動(反射)の機軸が相手・自分のどちらに置かれているのかに異なるニュアンスを持つものとなる。


さらに共感の種類を分類化すると次のようになる。


感情的共感:相手の感情に対して特に深い共感を示すエンパシー。

エンパシーのなかでも感情的共感を相手に示すことができれば(感情的共感+励まし・労い・底支え 等々の併用対応)、相手は「この人は自分を分かってくれている」「自分を認めてくれている」という感覚を持ちやすくなる。
そのため感情的共感を上手に使うことが出来れば、お互いの信頼関係が深まり、相手のモチベーションやパフォーマンスの向上が期待出来るようになるといえる。

※カウンセラーのテクニックとしてもここにヒットさせることがポイントだとされている。


認知的共感:相手の考えや感情などに対して、共感を持ち難い相手に使う種類のエンパシー。

認知的共感は、自分にない考えや価値観を相手の立場に立って想像する知的作業の側面が強いのが特徴となり、社会生活においては、自分と考えや価値観が異なり、共感できない相手ともうまくコミュニケーションをとる必要があるため、認知的共感による対応がより円滑な対人関係の構築に際して重要になる。


同情的共感:相手の感情的な痛みやつらさを共有する共感の意味合い(シンパシー)。

「同情」とは、相手の立場に立って相手の考えや感情を体験するのではなく、自分自身の立場から苦しみや悲しみなどの感情を表現することであり、同情的共感は、エンパシーのなかでもどちらかというと自分の立場から感じた考えや感情を、相手と共有するニュアンスが伴うものだといえる。



カウンセリング・スキルの観点でいうなら、これらの使い分けが効果を踏まえ意識的に出来ることが望まれ、応用心理学的にいうならば、対人関係の改善策として、日常の自己表現の振り返りにおいて、どのような共感態度が多い・少ないのかを見つめて課題形成に繋げることで自己成長の促進とすることが出来る。

また昨今の社会状況や背景を踏まえると「認知的共感」の対応力を高めることで、社会適応性の向上に繋げられるといえ、強化訓練の課題(素材)とすることも可能であることを付記する。





カウンセリングの手段と目的





カウンセリングでは、相談者の苦しみや辛さを追体験し、できる限り分かってあげることを共感というが、他人から共感されることは自分の存在を認めてもらえたという承認欲求を満たすことに繋がり、カウンセラーが傾聴し共感を示すことは精神的な援助となることは間違いがない。

しかし、相談者の個人的な人生経験によって発生した苦しみ・辛さ等々を、あくまでも他人がその場で話を聴いて適正(この点の解釈も難しい)に理解することは、現実には無理があると考えることの方が自然であり、カウンセラー諸氏との話しのなかで、「上手く共感できた・出来なかった」という発言を耳にする都度、強烈な違和感に苛まれ続けてもいる点である。

肝心なことは、カウンセリング上の形式ではなく「理解しようとする心姿の姿勢」であり、先ずはこれが本物であることが対人支援の大前提をクリアーする第一段階となるだろう(以下のラポール形成に繋がる)。

ラポール(信頼関係の構築)形成のための手段のひとつとして共感性を踏まえてスキル発揮をする分については違和感を覚えることは無いのだが、深く共感しているような形の表出が目的化されてしまい、肝心な問題解決については「同じ答えはなく、それを決めるのは相談者自身である」との無責任極まりない甘美な言葉・ロジックに酔い痴れて逃げ交わすことが少なくないと見受けられ、なかなかどうして理想とする対人支援者としてのカウンセラーと出会うことは至難の業となってしまうのだ。

対人支援という活動行為の目的は「問題解決」となるが、そのための「行為責任」についてどう考えているのかは「相談者の利益保護」のために重要な要素となるため、是非、事前に自己開示をして欲しいと思う点でもある。


欧米では、カウンセリングが社会生活上のインフラ機能・役割のひとつとして日常生活に深く入り込んでいることが、ドラマや映画等のシーンでも伺える。

日本でも徐々にここに近づきつつあるともいえるが、文化的に見ても個々人の死生観においても、カウンセリング・リテラシーが成り立つ社会状況背景そのものが欧米とは大きく違い、本当の意味で日本社会にカウンセリングが根付くためには、欧米の心理学をベースにした日本独自のアレンジが加えられたメソッドが誕生してはじめて成り立つことになるのかとも思う。

その意味においては、ある意味、過渡期にあるため国内のキッチュな状況も致し方なしなのかとも思うが、過渡期だからといって当事者がババを引いても良いということには通じず、何とも悩ましさを感じることになるのだ。

繰り返しになるが簡単な話し、カウンセリングとはカウンセラーのためにあるのではなく、相談者たるクライエントのためにあるもので「問題解決」が行為結果となることを忘れてはならず、過渡期と言いつつこの点の相談者の利益保護の観点から諸状況調整を積極的に図って欲しいと願ってもいる。




カウンセリングのあるべき姿




話しがあっちこっちに広がってしまうのだが、いまは心理学を実際の社会生活に応用して活かす実学としていくことが必要なのだろうと思い至っている。

そして詳細は省くが、日本においてはカウンセラーではなく(カウンセラーが本来的な機能を果たす諸環境整備が出来ていないとの意)、コーチ・メンターの方が社会機能としての即応的な重要性は高いとも思っている。
ただし欧米追随を標榜している国は、カウンセラー創出に向かうだろうが ...


汚れた掃除道具を使ったのでは綺麗な掃除が出来る訳もない。
カウンセラーのライバルは占い師」などとも言われる現実に、
真摯に対人支援に向き合う方と占い師の方々に失礼な言葉だと感じる。

しかし、自分の対応の結果に責任を担わぬ者に対人支援を行う資格が本質的にあるのかと問えば、クライアントの不利益でしかなく、個人的にはそんな輩のカウンセラーなど危険極まりない存在で「いらない」と思ってもいる。

その中途半端な姿勢で相談者に対応したがために取り返しのつかぬ事態に及ぶことの想像力も持てないなら不適応とはいわぬが、「(他者の人生・命の弄び)迷惑を被る人が生まれてしまいますよ」と業界からの退出を促してあげたいとも思う。


対人支援者が先にありきの世の中など手順が違うのだ。

先ずは、手本となるべくの道を教えることからはじめ(教育の拡充)、その土壌が形成されている上で対人支援者のサポートがある世の中を作ることが大切なのに、この王道たる手順が見事に変えられてしまったのがキッチュな国内の現実だ。

異論も反論も多々あるだろうと思うが、墓場まで持っていかねばならぬ多くのことを胸の奥に仕舞い込み、実学としての心理学の応用活用がもっと々実社会の中で活かされることを期待していこうと思う。
そのなかから生まれ出る本物(本者)のカウンセラーが誕生することを期待したい。


カウンセリングの手段と目的を履き違え、カウンセラー側の種々のエゴをクライエントにぶつけるのは止めなければならない。
目的達成のための手段なのにも関わらず、手段に拘り結果を蔑ろにしている状況が溢れていると感じ、この本末転倒なマスターベーションに気付き、修正をしていかぬ限り、国内にカウンセリングリテラシーが根付くことはないだろう。

カウンセリングを受けなくても良い社会環境の整備と一対をなし、社会機能として対人支援がインフラ機能・役割として役目を果たす環境整備が、国内における対人支援の成果を上げるうえで必要不可欠な絶対条件となるのではないかと愚考する。


そのためにも「共感」は大切なエッセンスであることを最後に綴り、
カウンセラー諸氏に「先ずはテクニックではなく心姿の姿勢を正せ」と囁きたい。
※カウンセリング・スキルやテクニックが重要なのは当然のことながら。

カウンセラーなんていらない」ことを前提に社会環境作りを行い、そこからそれでもとのニーズが零れ落ちた時にサポートケアするのが本来的な姿だと思い至る。

カウンセラーなど影よりも薄い存在で良いのだ。

本気で他人様の人生に関与して背負い切る覚悟が持てぬのなら掲げた暖簾は下ろした方が良いことは自明の理だろう。



... な~んてことを夢の中でじいちゃんが熱弁していたので、忘れぬようにここに綴っておこうと思ったのだった。










笑顔の行方を見つめて

all written by careerwing  T.Yoshida@ponyo



素敵な笑顔溢れる1日でありますように!