死を見つめて
「命あるものは必ず死という最期を迎えることになる」ことは揺ぎ無い真理ながら、科学や文明がこんなに進化していても、誰にも死後の世界のことは分かっていない。
時に「分かる」という人が現れても、誰も確認が出来ないことなのだから、その話が本当のことなのか、嘘なのかも分からないこととなる。
2011年 アメリカのポピュレーション・レファレンス・ビューロー(PRB / 人口統計研究所 )が導き出した統計数値によれば、地球上に人類が誕生してからの累計の人口数は約1080億人で、今生きている人はその6.5%と推計されるのだそうだ。
もっとも地球が誕生した時から、人間が記録を残し始めたのは、ごく最近のことになるため、地球上で生まれてきた人間の数は、推定値でしかなく、正確なことは分からないらしいのだが ... どないやねんな ...
ちなみに世界には現在、約72億の人がいて、
1秒に4.5人が生まれ、1.8人が亡くなっている。
1秒ごとに2.7人、年間で8600万人増えていると
計算されることになる。
もしもこれまでにお亡くなりになった人々が、
消えて無くなってしまうのではなく、天国か地獄の
どちらかに何らかの形を伴っているとしたならば、そしてそこがこの世に近しい状況であるとするなら、どう考えても超過密状態の大混雑で大変なことになってしまっているように思えるのは、不出来ゆえのことなのだろうか ...
肉体は消えて魂だけの存在となると考えてみても、その世界の大きさは一体「どないやねん」状態にあると思えてしまい、いるのかいないのか分からぬが、戸籍係りのような人とセクションがあったなら「猫の手も借りたい」なんて状態ではなく、実際に猫の手を借りながら仕事を進めているくらいに超繁忙の日々であるようにも思えてしまうのは、この世での物体・容積に思考が侵されてしまっていて、死後の世界の想像力が欠乏してしている所以なのかも知れない ...
最近の困った現象
どうしても死に触れた内容を綴ると重い波動が漂ってしまいがちとなる ...
自分事ながら、ここ最近の困った出来事は、
死に対するエンパシー(empathy:共感性)の
内面的な動きが異常に高まり過ぎていて、
過剰反応に対する一定の制御を意識的に行う
必要を感じながら過ごしていることになる。
心臓病を患い走馬灯を3度眺め見た時から
始まってしまったのは自覚しているのだが、
死の淵に触れたことで他者の死に対して、
一定のリアリティを感じる感度が異常に高まり
続けてしまっているといったらよいのだろうか。
人が自然死で最期を迎えられることは少なく、
圧倒的に病死が多いとは思うのだが、
同窓会の案内などを眺めていると、
知人のなかでも自死を選んでしまった人の数に驚かされ、
そんな時、走馬灯を眺めながらあの世とこの世の境にある一本のロープの上で感じていた思考・感情・感覚等々のことを想い出してしまうのだ。
死の淵に立つ瞬間 ... 他者のことは分からぬが、
自分の場合は、ロープの上に立っている力を
抜いたなら確実にあの世側に落ちていた感覚は
いまでもハッキリと覚え・残っているのだが、
その時「うげぇ ... 死ぬのってこんなに呆気ない
ものなんだ」と驚いていたことも死んで無いのに
同時に感じてもいた。
タイトロープをなぜ歩いているのかは
分からないのだが、ゆっくりと歩き続け、
不意に止まり、また歩き出し ...
そこに陽射しと風が幾重にも表情を変えながら
一緒に寄り添っていたことも想い出す。
景色そのものはとても穏やかで温かいものだったのだが ...
結果として、この世の最期に自死という選択をしてしまった人においても、
あのタイトロープの上で、本気であの世の側に行こうとしてそうなったのか、
急に吹いて来た風にバランスを崩して、まだ迷っていたのに向こう側へと落ちてしまったのではないのか等々、生死の極の瞬間に近い場面のことを想い出しては、得も言われぬ既視感に自分が覆い包まれていることになるのだ。
客観的にいうなら「この世にいながら彷徨っている」のだろうか ...
エンパシーの過剰な高まり
エンパシー(empathy・共感性)とシンパシー(sympathy・同感性)の話しは、
カウンセラー関連の人から尋ねられることも少なくないのでまた別の機会に綴ろうと思うのだが、他者の死を通じて強度に共感性が刺激され、自分自身の臨死状況の時がフラッシュバック (flashback) し続けており、その頻度・強度が徐々に強く・高まって過敏状態になってしまっている状況なのだ。
このままエンパシーが高まり続けると精神崩壊して
しまわないのだろうかと心配が過るのだが、
他者の死への想いに対する
共感性の過敏反応ならまだ扱い様があるのだが、
その時に臨死状態の自分のフラッシュバックが
繰り返されることの意味はなんなのかを
完全に掴みかね、自分自身を持て余しているのだ。
また、その人の死という結果が、ご本人が本当に望んだものなのか否かについて、
あのタイトロープの上でどう感じてのことだったのだろうかと、その瞬間のことに意識が引っ張られ続けてしまっているのだ ...
結して確かめることも本質的な意味における共感や同感も出来ぬなかで、自分の内面と向き合わざるを得なく、言葉を換えると「何かに憑依されてしまうような感じ」でもあるといえるのだが、内省の深め方が足りずのものなのだろうか ...
閻魔様の呼ぶ声が聞こえる
癌で逝去した兄の病床で、鎮痛剤のモルヒネなど何も効きはせず、断末魔と壮絶な戦いをすることになる数日前に「今更ながら宗教というものの凄さを感じる」と弱弱しく伝えられ、なぜだか無性に腹立たしくなってしまい「今まで人一倍に、本を読み、文章を書き、学び続けてきたのは何のためなんだ? 宗教に頼らずも自分の中でそれを見つけるためだったんじゃないのか?」と言い返してしまい、少し困ったようにそれ以上の言葉を紡ぐことなく小さな笑顔を浮かべた兄の姿を想い出しながら、自分は、なんて優しさ・愛のない罪深い者なのかと自責の念に駆られ続けてもいる。
命の最期を前にした者に対する愛情を手向けられぬ者など、逆に生きている意味・価値などあるのかと、取り返しのつかぬ現実に自問自答を繰り返すばかりなのだ。
死と生に対する自分なりの見方である死生観が形付けられて得ているとは言い難い。
あの走馬灯を眺めるまでは一定のものがあったようにも思うのだが、
あの日以来、自分の中にある死生観は揺らぎ続けている。
他者の死に対する過敏な共感性の反応状況は、生存本能を強化するために失った死生観を新しく再生させようとしている無意識の欲求反応なのかも知れない。
最近の体調状況を踏まえると4度目の走馬灯を見ることになるのだろうか ...
理由など微塵もないのだが、走馬灯を見ることはもうないようにも思える ...
そんな状況なのに他者の「死」へのエンパシーの超過剰反応って ... その心は~なぬ?
いまはただ、死ぬのでも生きるのでもなく、贖罪を背負いながらも「生き抜く」ことだけを考えながら日々を過ごすのみなのだろうか ... ガンバ・おら ... か ...
笑顔の行方を見つめて
all written by careerwing T.Yoshida@ponyo
素敵な笑顔溢れる1日でありますように!
「命あるものは必ず死という最期を迎えることになる」ことは揺ぎ無い真理ながら、科学や文明がこんなに進化していても、誰にも死後の世界のことは分かっていない。
時に「分かる」という人が現れても、誰も確認が出来ないことなのだから、その話が本当のことなのか、嘘なのかも分からないこととなる。
2011年 アメリカのポピュレーション・レファレンス・ビューロー(PRB / 人口統計研究所 )が導き出した統計数値によれば、地球上に人類が誕生してからの累計の人口数は約1080億人で、今生きている人はその6.5%と推計されるのだそうだ。
もっとも地球が誕生した時から、人間が記録を残し始めたのは、ごく最近のことになるため、地球上で生まれてきた人間の数は、推定値でしかなく、正確なことは分からないらしいのだが ... どないやねんな ...
ちなみに世界には現在、約72億の人がいて、
1秒に4.5人が生まれ、1.8人が亡くなっている。
1秒ごとに2.7人、年間で8600万人増えていると
計算されることになる。
もしもこれまでにお亡くなりになった人々が、
消えて無くなってしまうのではなく、天国か地獄の
どちらかに何らかの形を伴っているとしたならば、そしてそこがこの世に近しい状況であるとするなら、どう考えても超過密状態の大混雑で大変なことになってしまっているように思えるのは、不出来ゆえのことなのだろうか ...
肉体は消えて魂だけの存在となると考えてみても、その世界の大きさは一体「どないやねん」状態にあると思えてしまい、いるのかいないのか分からぬが、戸籍係りのような人とセクションがあったなら「猫の手も借りたい」なんて状態ではなく、実際に猫の手を借りながら仕事を進めているくらいに超繁忙の日々であるようにも思えてしまうのは、この世での物体・容積に思考が侵されてしまっていて、死後の世界の想像力が欠乏してしている所以なのかも知れない ...
最近の困った現象
どうしても死に触れた内容を綴ると重い波動が漂ってしまいがちとなる ...
自分事ながら、ここ最近の困った出来事は、
死に対するエンパシー(empathy:共感性)の
内面的な動きが異常に高まり過ぎていて、
過剰反応に対する一定の制御を意識的に行う
必要を感じながら過ごしていることになる。
心臓病を患い走馬灯を3度眺め見た時から
始まってしまったのは自覚しているのだが、
死の淵に触れたことで他者の死に対して、
一定のリアリティを感じる感度が異常に高まり
続けてしまっているといったらよいのだろうか。
人が自然死で最期を迎えられることは少なく、
圧倒的に病死が多いとは思うのだが、
同窓会の案内などを眺めていると、
知人のなかでも自死を選んでしまった人の数に驚かされ、
そんな時、走馬灯を眺めながらあの世とこの世の境にある一本のロープの上で感じていた思考・感情・感覚等々のことを想い出してしまうのだ。
死の淵に立つ瞬間 ... 他者のことは分からぬが、
自分の場合は、ロープの上に立っている力を
抜いたなら確実にあの世側に落ちていた感覚は
いまでもハッキリと覚え・残っているのだが、
その時「うげぇ ... 死ぬのってこんなに呆気ない
ものなんだ」と驚いていたことも死んで無いのに
同時に感じてもいた。
タイトロープをなぜ歩いているのかは
分からないのだが、ゆっくりと歩き続け、
不意に止まり、また歩き出し ...
そこに陽射しと風が幾重にも表情を変えながら
一緒に寄り添っていたことも想い出す。
景色そのものはとても穏やかで温かいものだったのだが ...
結果として、この世の最期に自死という選択をしてしまった人においても、
あのタイトロープの上で、本気であの世の側に行こうとしてそうなったのか、
急に吹いて来た風にバランスを崩して、まだ迷っていたのに向こう側へと落ちてしまったのではないのか等々、生死の極の瞬間に近い場面のことを想い出しては、得も言われぬ既視感に自分が覆い包まれていることになるのだ。
客観的にいうなら「この世にいながら彷徨っている」のだろうか ...
エンパシーの過剰な高まり
エンパシー(empathy・共感性)とシンパシー(sympathy・同感性)の話しは、
カウンセラー関連の人から尋ねられることも少なくないのでまた別の機会に綴ろうと思うのだが、他者の死を通じて強度に共感性が刺激され、自分自身の臨死状況の時がフラッシュバック (flashback) し続けており、その頻度・強度が徐々に強く・高まって過敏状態になってしまっている状況なのだ。
このままエンパシーが高まり続けると精神崩壊して
しまわないのだろうかと心配が過るのだが、
他者の死への想いに対する
共感性の過敏反応ならまだ扱い様があるのだが、
その時に臨死状態の自分のフラッシュバックが
繰り返されることの意味はなんなのかを
完全に掴みかね、自分自身を持て余しているのだ。
また、その人の死という結果が、ご本人が本当に望んだものなのか否かについて、
あのタイトロープの上でどう感じてのことだったのだろうかと、その瞬間のことに意識が引っ張られ続けてしまっているのだ ...
結して確かめることも本質的な意味における共感や同感も出来ぬなかで、自分の内面と向き合わざるを得なく、言葉を換えると「何かに憑依されてしまうような感じ」でもあるといえるのだが、内省の深め方が足りずのものなのだろうか ...
閻魔様の呼ぶ声が聞こえる
癌で逝去した兄の病床で、鎮痛剤のモルヒネなど何も効きはせず、断末魔と壮絶な戦いをすることになる数日前に「今更ながら宗教というものの凄さを感じる」と弱弱しく伝えられ、なぜだか無性に腹立たしくなってしまい「今まで人一倍に、本を読み、文章を書き、学び続けてきたのは何のためなんだ? 宗教に頼らずも自分の中でそれを見つけるためだったんじゃないのか?」と言い返してしまい、少し困ったようにそれ以上の言葉を紡ぐことなく小さな笑顔を浮かべた兄の姿を想い出しながら、自分は、なんて優しさ・愛のない罪深い者なのかと自責の念に駆られ続けてもいる。
命の最期を前にした者に対する愛情を手向けられぬ者など、逆に生きている意味・価値などあるのかと、取り返しのつかぬ現実に自問自答を繰り返すばかりなのだ。
死と生に対する自分なりの見方である死生観が形付けられて得ているとは言い難い。
あの走馬灯を眺めるまでは一定のものがあったようにも思うのだが、
あの日以来、自分の中にある死生観は揺らぎ続けている。
他者の死に対する過敏な共感性の反応状況は、生存本能を強化するために失った死生観を新しく再生させようとしている無意識の欲求反応なのかも知れない。
最近の体調状況を踏まえると4度目の走馬灯を見ることになるのだろうか ...
理由など微塵もないのだが、走馬灯を見ることはもうないようにも思える ...
そんな状況なのに他者の「死」へのエンパシーの超過剰反応って ... その心は~なぬ?
いまはただ、死ぬのでも生きるのでもなく、贖罪を背負いながらも「生き抜く」ことだけを考えながら日々を過ごすのみなのだろうか ... ガンバ・おら ... か ...
all written by careerwing T.Yoshida@ponyo
素敵な笑顔溢れる1日でありますように!