戦国史研究の糟谷幸裕さんの論考(42号及び72号)によれば、小原鎮実と三浦右衛門佐義鎮は親子であるとみられ、小笠原氏との関係も深かったとのことです。


大澤寺さんのBlogによると、小原鎮実の墓は毛森村(高天神城付近)にあるそうです。
 すでに(三浦右衛門佐義鎮の最後)取り上げましたとおり、三浦右衛門佐は沓掛原/四宮屋敷跡付近で 花沢城の落城前に殺されています。 

 この毛森村と沓掛原は高天神城からみて反対方向であること、時期も明らかに分かれていることを考えると、三浦右衛門佐と小原鎮実はそれぞれ別の場所で小笠原氏に討たれた(または自害した)とみてよいかと思います。

  この観点から大三川史をみると、一時期 馬渕塚の小笠原氏が徳川勢と一旦戦った記述があります。 (馬淵塚の小笠原美作守長秀 室井の渡しに出して徳川軍と交戦。 )


  また、四宮氏がどうなったのかについては一切記載がありません。掛川城に今川氏真がこもった時に、周辺の国衆の協力を確保していくのは当然の流れであり、三浦右衛門佐は小笠原氏と四宮氏を押さえにいき、一旦徳川と戦うことを決意させるものの、敗走して自刃または(徳川への従属を決めた)小笠原氏に討たれた、と見るのが すっきりする見方と思います。

  一方小原は、花沢城を開城後 同じく高天神城に小笠原氏を頼ったと思われます。「高天神城のあとを訪ねて」によると、小原の別の子どもは上杉を頼って落ち延びたとされていますが、小原は残党を抱えているため同行できず、高天神城をめざしたものと考えます。

  そして同じく小笠原氏に討たれるわけですが、大将が討たれただけで部下たちは受け入れられたと思いたいところです。(が、徳川方から小笠原は酷いことをする、とわざわざ書かれていることを考えると、、、、)

  なお、直虎男性説での直虎は、部下とともに花沢城にこもったとされており、小原の指揮下にあったものと思われますが、その後の消息は不明です。