徳川家康による今川氏の掛川城攻めについてはネット上には二次史料ベースのものでさえあまり見当たらないので、ちょっとメモを作ってみました。まずは12月分から。

とりあえず、ネタ本としては愛知県図書館で画像データが提供されている「大三川志」を採用
大三川志自体についての国立公文書館の解説は↓です。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/daimyou/contents/26.html

 



永禄11年12月中旬 

家康は本多信俊に引間城を預けて掛川攻めに出発

日時不明: 

  馬淵塚の小笠原美作守長秀  室井の渡しに出して徳川軍と交戦。
     西郷清員が室井の西ヶ崎に戦うが、敗退。
家康みずから軍を向かう途中で大須賀康高が手洗い水を手配するが、熱かったので家康が叱った。康高は悔やんで、この恥をすすがずには家に帰らない旨宣言。大須賀康高は一番に室井川を渡って馬渕塚の兵と戦い、戦う。小笠原長秀 降伏する。 


19日久能氏に天竜川に舟橋を造らせる


20日 天竜川・荒井を渡り、見付、袋井を過ぎ掛川城から一里離れて陣を構える。
桑田山: 酒井忠次・石川家成
曽我山: 酒井正親・竹谷の松平清善・加藤播磨景元・平岩親吉
天王山: 高力清長・小笠原の一族、久能の一族
監軍:  本多重次、渡辺守綱、服部正成


26日 家康 掛川城外 金丸 青田山 笠町 に附城を構える
 金丸山: 久能宗能、久能佐渡守宗憲、本間五郎兵衛長季
 青田山: 形原・福釜・東條・竹谷ノ松平一族
 笠町:  山家・三方ノ輩


27日 家康 天王山に陣を移す
    小笠原長忠が掛川城下の居民に放火する
    朝比奈泰朝これをみて城外にでてきたため、石川数正がこれにあたる。
    日根野源太、鈴木深右衛門等を殺す
    原与太夫 死亡

28日 昼頃
    西郷清員・水野藤十郎忠重、奥平喜八郎信光  掛川城兵と戦う
    家康、城砦を維持したまま軍を見付に納める


*武田の秋山が遠州に来て人質を集めていた話、奥平監物貞勝入道、菅沼伊豆守貞則、菅沼正貞、田岸新三郎などがそれを攻めた話、久能六郎五郎と久能十郎が争うところなどは省略。

**鵜殿氏長、鵜殿藤九郎、鵜殿旧案・松井和泉守・松下市三・稲垣宗六郎、本間長季・小野田・佐古・木原・篠原・飯尾、中島与五郎が長子、久能宗能の子 千菊丸等に領土を安堵した話、鈴掛の城主 松平因幡 日比沢の後藤 沢渡 弟藤八郎村 鹿野弥兵衛 天方の山内山城守通綱、西方の松下 匂坂 植村等が人質を浜名の城に送り、家康に従属した話も省略。
 

***小笠原与八郎長忠は高天神城で三河小笠原氏の説得に応じて徳川方につくが、馬渕塚城の長秀は別だったらしい。