三浦右衛門佐義鎮は、今川義元 及び 氏真に仕えた武将で、特に氏真の時には側近No.1 と目されていました。

 

城東郡特化の歴史マニアとしてはあまり関係ない人物なのですが、今川家の没落・遠州の混乱を作った人物であること、一族郎党とともに最期を迎える際に城東郡を通っているであろうこと、時々「最期まで氏真に仕えた忠臣」とされていたりして個人的には違和感を覚えることから、今回はこの人についてしらべてみました。


三浦義鎮の出身は、 小原鎮実の子で、三浦家が絶えたのでその名跡を継いだとも、京の商人の子とも半武士半商の出身だったとも言われています。もう一人の奸臣として武藤新三郎の名前がよくあがるのですが、同一人物だったとも別の人だったともされています。

 

その後氏真に重用されますが、武田信玄が駿府に攻め込んだ折に掛川城に行った氏真と別れて花沢城に籠り、その後掛川城に入った際にいれてもらえず高天神城の小笠原与八郎をたよったがここでも拒まれ、馬伏塚城付近(現在の袋井市)の四宮右近を頼っていったがその後一族郎党 子女 合計約70人が自殺かあるいは殺されたかでなくなっています。

(親子で殺されているとの記述もあるようです)

 

 

甲陽軍鑑は、今川氏真が代々の今川家を滅ぼした暗愚な君主とされているのは、この奸臣である三浦右衛門を重用したためと名指しで批判し、悪口を何度も書いています。

 

曰く、

  • 氏真は(美男子だった)彼の言いなりだった
  • 氏真は彼の我儘をなんでも聞き、遊興三昧になった
  • 氏真への報告ルートを独占し、一門の者にもあわせなかった。(このため武田信虎も氏真に具申できなかった)
  • 義元のお手付きの女性(四宮右近の妹)を、義元が亡くなった年に妻にしたが、氏真には報告しなかった
  • 氏真に義元の弔い合戦をさせなかった
  • 井伊家の相続にも口をだしたり、相続にあたって賄賂をとったり勝手に自分の領地にして私腹を肥やした
  • 今川家の家臣はみんな彼にあきれていた。
  • 茶碗一つに三千貫をつぎ込むなど、遊興にふけり判断力に欠けていた

 

武田は、今川に攻め込んだことを正当化する立場なので甲陽軍鑑へのこういった記載は寸小棒大とする見方もありますが、私は、下記の理由からこの指摘はかなり正しい、すなわちこの人こそが今川家滅亡の主犯の一人ではないか、とみています。

 

その理由は下記のとおりです。

  1. 遠州高天神記(現代語訳してBlogに記載をしている方がいらっしゃいます)にも同様の記載があること。
  2. 今川家は当初はあまり国衆の相続に口をだしていなかったが、その後かなり介入するようになったこと(なにかで読みましたがどこだったか思い出せません)
  3. 井伊家の相続にも口を出していることが、井伊家伝記や直平公一代記にも記載されていること
  4. 井伊直親・ 飯尾家の謀殺に際しての実務方のトップであったであったこと。直親の殺され方もひどいですが、飯尾連竜の謀殺も婚姻を名目で呼び出して親子を謀殺するというひどいものであったこと
  5. 小原鎮実による人質の串刺し等三河衆のうらみを買っていたために殺された、との説は、小笠原与八郎は家康直属扱いで、家康の人質は殺されていないこと、一族皆殺しにするほど家臣に配慮する必然性があると思えないことから説得力がないこと
  6. 一方で、掛川城でも高天神城でも受け入れを断られて、今川側に敵が多かったことが推測されること
  7. 今川家の忠誠心低下は義元死亡だけでは全く説明がつかず、家臣全般がモラル崩壊状態であったことが、 遠州忩劇 及び 武田氏の駿河侵攻時の 古参武将の裏切りから推察されること
  8. 一般に リーダーを暗愚にする一番の方法は、情報入手を制限して偏向した情報しか伝えないことであること

 


本人に悪人の自覚があったにせよなかったにせよ(たぶんあったとは思いますが)、

頭脳明晰で武芸に秀でた者の最期としては一族郎党死亡との結果は重く、諸行無常を感じさせます。(子孫の一部は生き延びたとのことですが) 

 

追記) 三浦右衛門佐についてはこの記事を書いたあとに更に情報を入手し考察しました。

2017-8 三浦右衛門佐義鎮の最後: 菊池寛の小説および廣文庫からの考察です

2018-1 小原肥前守鎮実の最後 & 三浦右衛門佐義鎮の最後(再考): 小原の墓が別にあることについての考察です。

 

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(参考1) 甲陽軍鑑より

その後信虎公被仰は今川の家十ヶ年の内外に滅却有るべき子細は上方牢人武藤と云ふ武篇の義 假初にもしらざる利徳ばかりの役に義元の申付られたる町人半分侍半分の者あり其子うまれつきよきとて氏真の御座をなをさせ三浦右衛門と名づく 氏真は皆彼右衛門がままになり霜月極月にも右衛門が所望なればおどりを七月のごとくにおどらせ扨又五月の菖蒲斬を七月すへまでたたきあわせ能猿楽、遊山、月見、花見、歌、茶湯、川漁、舟遊、あけくれありて民百姓をたたきはり久敷家老今川一家の衆にも、つふりをあげさせず殊に 遠州井伊のが跡を三浦右衛門が望み今川一の家老朝比奈兵衛尉もささえ地下も、侍も氏真をうらみ候事此三浦右衛門がしわざ也、彼の右衛門義理をしらぬ者とみへて、義元の手付けられたる女子に菊鶴とて近習四宮右近が妹をしのびて妻女にする事、義元討死の年中より如此それをもおそれて氏真にしらする者なし、さやうの事信虎氏真へきかすべきとて我等を右衛門憎候へば、右衛門が気に入るとて、なごやの興七郎と云う者我等を甲州の武田がうやく入道と名付候是と云うも本は氏真の心得悪きわざなり、氏真二十三の時父義元を旗下の弾正が子信長に殺され、はや四年になり当年二十六歳に氏真年をひろひても父のとふらひ合戦する心ばせ夢にもなし氏真も臆病にはなけれどもただ心がけなき故・・・・・・

 

(参考2) 甲陽軍鑑より

・・・・・信玄公は六年以前より駿府へ町人百姓出家、本より侍、何も者の善悪よく辨る人を撰ひ御越被成候て聞給へば氏真公御前にて惣一番の出頭人三浦右衛門分別悪くして、今河家の大身小身御一家衆共に右衛門助にあきはて候今川家の人々心持あしくなり、そでなき事に物をいれ、堺の紹肆が流の茶の湯がよりなりとて茶碗一ツを三千貫にて買取栄花にふけり申候は三浦右衛門がしわざ也仍如件。

 

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2016/8/13  表記を若干直しました。

2018/8/9   タグを修正しました。他の関連記事へのリンクを記載しました。