春のお買い物 (あるいは春の天然生活)
通勤用の靴をごっそり買い替えたら気分がリフレッシュして
姿勢も伸びた(気がする)。
酒を飲んでいない(ピロリ除菌中)ので
チョコレート中毒になり、やたら甘いものばかり買っている。
あるとき、家の周りを徹底的に掃除しようと思い立って
いろいろと掃除道具を買った(が、何もしていない)。
アマゾンでCDを買ったら全く違うCDが届いた。
このところなんだか、主体的に何かを行うと云うより、
通販やお買い物をもって何かをした気になっているような気がする。
買い物依存症というわけではないけれど、
春のせいか花粉症の薬でぼーっとしているせいか、
あまり気合いを入れて何かをしようという気にならないのだ。
まあ、気分が乗らないときはゆるゆると天然自然に
暮らしてもいいのではないか?
変に力んではいけないのだ。
草木の芽吹き、花のうつろいとともに
うつらうつらと過ごす・・・春だものねえ。

何でもない春の直前の何でもない美しさ

昨日の夕方の帰り道、木立の間をぬってほとんど真横に差し込む日を眺めながら、ずいぶんと日脚が延びたものだと思っていたら、それもそのはず、今年ももうお彼岸に至っている。
暑さ寒さも彼岸まで? もう春なのだ。もうすぐ木の芽が吹き出し、花が咲きそろい、虫が動き回って、人は何となくそわそわと浮かれ出す。春の訪れはただそれだけで喜ばしいことだという暗黙の合意があるかのように、世の中はどこかほっとした雰囲気に包まれる。「春だねえ」
春を嫌う人はあまりいないようだが、それでは果たしておまえはどうなんだと言われると、はて、実のところそれほど春は好きではないのではないか、とも思われる。
子供の頃などは春には受験があったり、そうでなくとも進級やクラス替え、担任の移動などがあって、いろいろと環境が変わるのは面倒だわ、いやでも知らない奴と会わなければならないわ、気疲れするばかりだった。
大人になっても春になったら人事異動はあるし、雑草は出てくるわ、害虫は出てくるわで雑用が増えるばかりであるし、その上気温も上がって動けば汗もかく。花見だなんのとうるさい奴も出てくるし、ほっといてくれ、私は静かにしていたいのだ!と言いつつも、人間がそうプログラムされているのか体が勝手に外へと動き出してしまう。疲れることこの上ないのである。
本格的な春直前、まだ植物も虫も動かず、葉のない静かな木立は自在に光が通り抜ける。輝く静謐な眺めを私はひたすら美しいと感じ、昨日は帰宅の足を止めて金色にくれていく日をしばらく眺めていたのだった。
だが本日、東京の桜が開花したとの報せ。ああ、ご愁傷様、私の好きな冬は終わりを告げ、季節はいよいよ騒々しい春へとなだれ込んでいく。
だからなのだろう、春には花見で酒でも飲まないとやってられないのは。
水仙月の訪問者

二月、まだまだ寒さの厳しい日が続いているが、日ごとに延びる日脚と日中の光は確かな季節の歩みを実感させてくれる。先日も冷たい空気の吹き抜ける中、ダウンジャケットを着込んで野道を歩いていると、日当たりのよい斜面の緑地にはスイセンの花が光を取り込むようにしてあちこちに咲いていた。
この先の春を呼び込むようにたくさんの黄色の花が、寒風をものともせず頭をもたげているのを見るにつけ、寒さや煩わしい日常に鬱屈したこちらの気分をも一掃してくれるような気がする。
だが、こうしてなんだか小さな花に元気をもらったような良い気分に浸っていたのもつかの間、実はその先の道でいやな奴に出会ってしまったのである。
またあいつか・・・。
この前そいつを最後に見たのは去年のゴールデンウィークの頃だから、会うのはだいたい一年ぶりだが、今年もまた相変わらず図々しそうな、誰にでも嫌われる典型的なうっとおしいオヤジであった。
私は思わず顔を背けたのだが、そいつはかまわず近寄ってきた。
「やあ、久しぶり。今年も私が君の担当ってことでよろしく頼むわ。」
とかなんとか言うがはやいか、なんとそいつは私におぶさってきた。
「これも仕事なもんだからねえ、ほな、いきまひょかあ。」
なにが、ほな、だ、なんでここだけ関西弁なんだよ。などと詮索する間もなく、とたんに私は体の重さに頭痛までしてくる。
こうなるとプロだけあってその小汚いオヤジをふりほどくのはほぼ不可能である。
それだけではない、そいつは始終人の鼻や目に汚いなにかをすり込んできたりするから、私は体が重いだけでなく、くしゃみや目のかゆみに悩まされることになるのだ。
ああ、今年も春の兆しとともに、こんな嫌なオヤジまで背負って2,3ヶ月を過ごさなくてはならないなんて。
小汚いオヤジの名はカ・フンショーとかいう、春の妖精の一種らしいのだが、とりつかれたら最後、人間は妖怪ハナタレくんと化してしまうのである。
ハナをかみながらふとあたりを見ると、世の中の3人に1人くらいは似たような薄汚いオヤジを背負って歩いているようなのだが、なんだか年々こんな妖怪ハナタレくんが増えているような気もする。
それはともかく、せめて私の分だけでも誰かこいつを始終背負って歩くのを代わってほしいものだ。
酒もホラも停止した日。
実は今、この私がしばらく酒を断つという
世にも不思議な事態に至っている。
正月にひいた風邪が抜けた後、
ずっと胃もたれがしていたので
ちょっと薬でももらおうと医者に行ったところ
一因として考えられた胃の中に棲息する悪玉を
退治する必要を告げられたのである。
悪玉とはいわゆるピロリ菌というやつで、
成人の7、8割は保菌者だというから
たいして珍しいものではない。
ただ、ここ数年、かのピロリと胃炎や潰瘍との関連が明確になって、
厚労省も医師会も「除菌を強く推奨する」
というトーンで一致している。
除菌自体は1週間毎朝毎晩指定の抗生剤を
飲み続けるだけなのであるが、
この除菌が成功してピロリが確かにいなくなったことを
確認する検査がその12週間後となる。
1度の投薬で除菌が成功する確率は7割ほどだそうだが
これはつまり3割は失敗するということである。
そこで医者が言うには、
「成功確率が気になるのなら、
3か月後の検査が終わるまでの間、
酒・たばこはきっぱりとあきらめること」
だという。
私はたばこは吸わないから何でもないが、
酒は人生の友である。
だから12週間の断酒申し渡しには驚いたが、
健全な体あってのうまい酒と思い、
今はひたすら清らかな生活をしているのである。
それにしてもまあ、なんだ、
酒量はロシア人並みと言われた私が
何日も酒を断っているというのも
なんとも不思議な気がするが、
やってみると平気なのは当然ながら、
これが意外に悪くない。
元来、アルコールの依存癖はなかったことを
確認証明できたのも結構なことではあるが、
これが断酒からものの1週間もすると、
天地開闢以来、はなから世の中に
酒の存在などなかったかのような生活である。
驚いたことに、先週など酒屋に寄るかわりに菓子店によって
ケーキなどを買ってきたのである。この私が。
酒を飲んだ後わけもわからずホラを吹いていたのが
素面の時間が増えて、学術書の類を並べて
調べ物をする時間ができたりもした。
役にも立たない勉強をして過ごすなんて
いったいどうしたことだろう。
しかも特にそれでもストレスは感じない。
これは新たな境地、
新たな冒険の始まりであるのかもしれない。
ことの始まりはともかく、
新しい生活の展望やわくわくする活動の種は
ちょっとしたきっかけとわが身の中にあるということだろうか。
いやまて、これでは酒もホラもない日々なんて、、、いったいどうしよう。
寒さですべてがおっくうな毎日

このところ朝夕など厳しい冷え混みの底を這うような、寒を実感する日々。私など暖房費をけちるうちに様々な活動すべてがおっくうになり、やろうとしていたことの一切が先送りとなってしまっているようだ。
堅い本も読まず、整理も後回しとなって、楽だがつまらない情報を眺め、いたずらに無為のうちに冬をやり過ごしかねない毎日だ。
いかんいかんと、こんな時には、我が身の行動を修正するような先賢の言葉を眺めてみることにしている。 たとえば、こんな。(道元の正法眼蔵から「行持」の一節)
しかあれば一日はおもかるべき。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり。かなしむべき形骸なり。
善く生きようとする努力を怠り、むやみに飲食にふけったりテレビやネットのゴミ情報にだらだらとつきあって時間を過ごすようなことでは、形の上で生物的には生きているとはいっても、人間として生きているとはいえないというのである。
頭の痛い言葉だ。
寒いから、明日があるからと、何かと理由をつけ、とかく怠惰に流されがちな我が身に繰り返し唱えたい。
寒中の恒例行事
もちろん、降ったのはたった一日、しかもわずかばかりの雪ではあるけれど、例によって交通混乱や転倒者が続出のお祭り騒ぎ。もう三日もたつので日向は雪もだいぶなくなったが、それでも油断大敵、あちこちに残るコールドスポットが罠のように道行くマヌケを待ち受けている。
昨日も今日も底のつるつるの靴はいてふんぞり返って歩く男女がひとときの空中遊泳を披露していた。無様な着地はさぞ痛かろうし、道行く人の視線はもっと痛いし、大丈夫~?などと声をかけられたりしてかなり恥ずかしい思いをしたことだろう。
東京だけでも雪を踏んで空中遊泳ののち転倒ショーを行った者は数百人をくだらないというから、驚いたものだ。
毎年のように繰り返す祭りである上、降ってからこれだけニュースにも流れているのに、それでも滑り止めもない靴で不用意に歩いてひっ転ぶというのは、不運というより、不注意、注意力のなさ、自分もまた転ぶかもしれないという想像力のなさ、つまりはバカなのか。
ツルツルなのは道路だけでなくて転ぶ奴の脳みそなのではないか。だからいくら注意を呼びかけても転倒者はなくならない。
さらに雪が降るとやっかいなのは町に出現する空中遊泳者とともに、白い色ゆえに否応なく目立つ雪の上にこぼれた黄色い水、さらには茶色い固まりの点在する眺めである。たしかにこれは目にすれば思わず身構えてしまう。でもこれもまた簡単にはなくなりはすまい。
転ぶ奴は雪を歩くときの緊張感が足りないと誰かが言っていたが、いっそのこと雪が降ったら、例の黄色い水と茶色の固まりを積極的に増やしてしまえばいいのではないか。そうすれば雪の上を歩くときはみな緊張感を抱くようになって、緊張感と注意の足りないマヌケな転倒者も減るのではないか。
こういうのをなんというのかな、毒をもって毒を制す、いや、バカにはさみは使いよう、いや、蛙の面にしょ○べん、あれあれ、また雪が降ったら酒飲んで考えよう。
冬の日と勤め
朝、ようやく空が明るくなってあたりが本来の色を取り戻してくると、のろのろと太陽が地平から顔をもたげてくる。このとき、空と接する地の際からはほのかな紅色の光が持ち上がってくる。青く澄んだ天蓋にほのかなバラ色の縁取りが朝の一時だけ地上の外周をぐるりと取り巻くのである。
夕暮れ時、冬は時間の経過に伴う空の色の変化が急なので、ダイナミックな色の展開が演じられる。西空に傾いた日の光が辺り一面を茜色に染めていたかと思うと、上空は藍色が広がりたちまちその深さを増していく。地上が力を失った光の行き惑う黄昏に包まれるのも一時、空は紺と茜の濃いコントラストのせめぎ合いのなかに、あっという間に色を失っていって、闇色の支配するモノトーンの中に落ち込んでいくのである。
朝も晩も空のドラマにつきあうにはある意味規則正しい生活が必要で、実際のところこの時期は早起きも晩の外出も実におっくうなものだ。
ただ、私などは今はまだ勤めがあっていやも応もなく決まった生活リズムを強制されている格好になっている。だから単調な冬の日々に小さな感動に出会えるのも仕事が生活の構造を作ってくれているからということでもある。
私など仕事がなかったら、朝は毎日遅く日が昇るまで起きてくることは滅多にないだろうし、冷え出す晩もさっさと家に引きこもって朝夕の景観に感じ入ることなど果たしてあるかどうかわからない。
生活のため経済的自立のための現代社会人に課された面倒な宮仕えではあるけれど、とかくグウタラ自堕落に流されがちな凡人にとっては、仕事がまた人間を人間らしく律していってくれるという面もまた大きい。
私たちは自由気ままな暮らしに漠然とあこがれることがあるが、怠惰と放縦の中に小さな感動を見つけることは存外に難しいものだ。悟りを求める修行僧が日々の作法・行持を重視したように、生活の型を保持していればこそ気づくことのできる小さな幸福というものもまたある。

寒風と寝正月
年が明けたと思ったら、あっという間に今日は5日。落語風に言えば、早いもので今年も後残すところ360日と少々・・・。なんだか年をとるごとに1年の巡りは早くなる一方で、正月の支度をしてやっと年が変わったと思ったら、ふと気がつくとまた次の正月を迎える準備をしているような気がします。
ワタクシはといいますと、実は昨年末は不覚にも風邪を引いてしまいまして、正月に風邪を引いているわけにはいかないと、薬と気力をもってひたすら寝て過ごし風邪を追い払ったのあります。で、当の正月三が日は風邪こそ引いていなかったのですけれど、毎年正月は基本的に寝正月と決めているので、ただ酒飲んで寝ていただけだったわけです。
ところが昨日四日、正月休みがあけて仕事始めの当たりからまた風邪を引いてしまい、また今日も寝ておりました。
その結果、ここ十日のうちほとんどを寝て過ごすという、私は何ともなまけ者の年末年始の時を送っていたのでありました。
まあ、ごみごみした人混みや混雑が嫌いな私としては、家でゆっくりして他人が渋滞や行列に巻き込まれているのを眺めるのは一種の娯楽です。その意味では今年も大変楽しませてもらったというところでしょう。
それに今日は今日で、関東も冷え込みが厳しく昼近くになっても庭のバケツの水に張った氷が融ける気配もなく、寝ていたのは正解だったかもしれません。
人間は常にがんばり続けることなどできませんから、必要ながんばりどころでがんばれば、あとは鋭気を養ってのんびり過ごすのがいいと、今年もここはうそぶいておくとしましょう。
ともあれ、今年も世の中の流行り物やごみのようなマスコミの宣伝にあおられず、マイペースで穏やかな自分のリズムを刻んでいきたいものです。
世の中に寝るより楽はなかりけり
浮き世の馬鹿は起きて働く
年末のご挨拶
私の日常はと云えば、今年は寒さに血迷って余計な冬用グッズを買い込まないように、例年使わないような暖房もそれなりに使って、なるべく寒さをやせ我慢しないようにしている。
それはともかく、年よりじみたことは言いたくはないが早いもので今年もあと残りわずか。
年も押し詰まる師走というものは世の中が騒々しく忙しいということになっていて、世の隅っこで生きる私などもなんとなく忙しく振る舞わないといけないような脅迫めいた圧力がある。忘年会の予定はどんどん入ってくるし、年賀状書きから大掃除だの庭木の手入れだの、果てはあいさつ回りなんて、別に好きな時にやってもいいような気もするけれど、この時期にやらねばならないのは世の中の習わしであるかのようにせき立てられているような気もする。
別に日の巡ることは年末年始だろうと、いつだって変わらないのだからわざわざ改まることはないではないかと文句を言いたくなることもたまにあるのだが、それはただ怠け者の愚痴にすぎないのかもしれない。
でもまあ、忘年会だって声がかかる内が花であるかもしれず、人並みに同じような掃除をして、あいさつに回って、愚かしくも世の中と歩調を併せて何とか今年も生きてきた、どうにかこうにか自分もこの世の中の一員であるらしい、と実感する時期でもあるかもしれない。
たしかに、忙しいの慣例・虚礼は馬鹿らしいと言いつつも、何とかこの一年この世の中に生き延びてこられたことの有り難き不思議。
そう思えばこんどは、世話になった人や家や身の回りの関係を振り返り、共に過ごした一年に感謝して送り、新たな年の幸運を願うことは自然なことに思えてくる。
私もやはり、師走のひと騒動が収まったら、年の暮には門前を掃き、感謝と希望を持って静かに新年を迎えることにしよう。
忙中閑あり、でめずらしく純文学を読んでみた「何もかも憂鬱な夜に」

『何もかも憂鬱な夜に』 中村文則 / 集英社文庫
このところは仕事がらみの本(資料)一辺倒だったが、息抜きに新聞の書籍紹介で見かけた本を読んでみた。
親に捨てられ施設で育った主人公は刑務官として働いている。社会や自己の矛盾が破たんした結果犯罪に至ったような様々な受刑者と向き合う毎日は、自分を含めた人間という得体のしれない存在のとりとめもなさや陥穽を目の当たりにする毎日だ。多少なりとも感受性のある人間ならば過敏にならざるを得ない。そんな主人公は、死刑判決に対し控訴しようとしない若い殺人犯を担当することになる・・・。
私はこの物語を、多かれ少なかれ誰もが若いころに経験する不安と焦燥に向き合った作品として読んだが、それはたぶん、私の若い頃に漠然と自己の毎日を包んでいた何とも言えない陰鬱な気分を多少なりとも思い出すことになったからだ。
漠然と包んではいたものの、若いころの様々な気分のうちもっとも支配的な気分だったかもしれない。
このまま自分は、どうにも何ともならないのではないかという不安。今の自分でない何者かになってしまえばきっと楽になってうまくやっていけるのにという根拠も実現のあてもない願望のむなしさ。でも、今まで引きずってきた自分から自分でない何者かになってしまうことへのおびえ。そんなやり場のない今とこれから先への混沌とした不安に絡み取られて、ひりひりする痛みの中で過ごす毎日。
そんな不安と焦燥は若いころに通過するちょっとした疾病というだけではなく、年を経ても痛みに慣れはすれ完治することなく、今も時折そんな記憶が身を苛むことがあるようだ。たぶんそれは治ることはない。
この小説は何もかも憂鬱な陰の部分を描いてはいるが一筋の光として芸術との出会も述べている。
確かに「世界にはすばらしいものがある」ことを知るのは憂鬱な壁の中の気分を一時楽にしてくれるものだし、芸術が「お前の狭い了見を広げてくれる」としたらそれは世界を囲む息苦しい壁を押し広げてくれることに他ならない。
また終盤近く、主人公は親しい女友達に対し二人で新しく自分たちだけの生活を少しずつ作っていこうと提案をしている。確かに他人のコピーでない、自分だけの生活こそはオリジナルなアートでもある。アートでなくとも、ささやかでも丁寧に自分なりの生活を紡いでいくことこそ憂鬱の壁の外へとつながっていく手堅く現実的な手段の糸口であることを示唆しているようにも読める。
もっともこれは幾多の憂鬱の壁を見てきたもう若くもない私のただの個人的な思い込みに過ぎないかもしれない。
だから憂鬱の向こうへの希望を読み取るかどうかは各人の受け取り方次第ではある。
ただ、この本は身近で果てのないような憂鬱に生きる息苦しさに圧倒される作品だが、本来それぞれに個人的な感覚であるあの憂鬱な気分を、小説という手段で表現することで、みんなで共有して客観的に眺めることを可能にしてくれた。これは作品の大きな魅力であり功績だ。
・・結局今に至るその後の私はひょとして強い何者かになったのかもしれないが、ちゃんとした解を出せるような何者にもなりはせずわが身を痛みに鈍く作り変えてきただけなのかもしれない。
ただ、何者にもならなかったかもしれないけれど、今も毎日酒飲んで大飯食ってちゃんと生きている。(爆)
