酒とホラの日々。 -23ページ目

一律に大いなる死をもよおす

先日臓器移植改正法案の件で記事を書いたら、真に受けてヒステリックな非難がましいメッセージを送ってきたヤツがいた。(表に出ているコメントじゃありません)
  
たとえ非難めいた内容であろうとそんなこと、ブログをやっていればこれまでも何度もあったことなので、大日本下品党の私としては、フムまたかという程度のことである。それよりも読んだ人が真に受けてマジな反応がくるなんて、ブロガーとしてはしてやったりというか書いた甲斐があったというもの、快哉を叫びたいところだ。
 
でもね、今回の粗製記事はホラレベルがたいしたものではなかったと思うのだがね、メッセージをくれたキミ、この程度もホラとして受け取れないようじゃ、君はもう脳死してるよ。
 

 
さてこれからが今日の記事。

 
ついでだから前回記事のネタについて付け加えるなら、そもそも脳死が一律に人の死とされることに違和感を持つ人は多いだろうということである。

  
拒否できるとはいえ脳死判定患者の肉親は、臓器提供に協力しないと、あなたは人でなしと非難されますよ、というような風潮になるのは怖い。
目の前でまだ息している肉親がいて、脳死と臓器提供にに同意できないからといって、誰が彼らを非難できようか。   
 
一律に死とはいったいなんなのか?。国や時代、社会都合によって違ってくるような程度のものを人間一律の死としてしまって良いのか。少なくとも強制はされるべきではないだろう。脳死を人の死とは考えないという態度もまったくおかしくはないし、社会で認められ尊重されるべきものである。
    
現に、私も出張でよく行く東南アジアのデルコメア共和国では死の判定は日本や欧米諸国とは明らかに異なる基準に基づき、それが社会的な合意として通用している。
 
デルコメア共和国ではかつては心臓の停止をもって人の死とする考え方が一般的だったが、革命による共和制移行後の今では簡単に言うと、

『人は口から肛門をつなぐくだ状生物であり、取り込んだものより栄養を吸収し残余を円滑に出すことで生命を維持しているのだから、恒にこの一連の運動が出来なくなった者は人類生命体とは認めがたい・・』という理由で、
「腸死判定」が、つまり早い話が15日以上の『便秘をもって一律の人の死とする』という社会合意が形成されているのである。
   
医師の診断によって15日以上ウンコが出なかった人間は、死んだものとして本人や家族の同意なしに「ハウス」と呼ばれる施設に送られる。「ハウス」では状態と必要に応じ腸以外の各臓器が分別されて移植にまわされる。心臓や肝臓はもちろん、脳髄も移植の対象だ。腸は死んだが脳は死んでないのだから当たり前のことである。

   

かえって、脳こそはほかの人工臓器の代替の効かない貴重な部品であるので、脳の一部が病気・損傷によって損なわれた生理機能が移植により回復するのは何事にも変えがたい。彼らにしてみれば日本の脳死判定なんてなんと野蛮で不合理な法制度なのかと驚くべきことのようだ。
   
かの国では脳髄の移植を受けた患者が、便秘の幽霊の幻覚に悩まされるという話や、下痢止め薬大量投与殺人事件が起きるとか、日本人の旅行客が旅行中に便秘してはらわたをさばかれてしまったというような問題もあるようだが、人の死の管理が行き届いているという点からすれば瑣末なことだ。
  
なにより腸死判定による臓器移植法で大量に移植臓器の供給が増えたというのがこの国の自慢である。
 
日本も腸死のような最先端の考え方にはなかなか至らないだろうが、法による脳死が一律ではなくて、多様な死生観を認め合うだけの寛容さをもった社会でいたいものだ。。。

 

 

 

 

 

臓器移植法案の衆院通過に祝賀を贈る :P)

あのときは飲みすぎた・・・。飲みすぎはいつものことではあるのだが、あのときはちょっと度が過ぎた。
 
さんざん大酒をかっ食らい、仕上げに何杯目かのブランデーを飲み干したあと、しだいにあたりの景色が次第に遠くなる気がして、ついには私はカウンターの下に崩れるようにうずくまってしまったのだ。周りのみんなが、私の名前を呼ぶのが分かったが、それも次第に遠くなった。


前にも飲みすぎで体がいうことをきかなくなって友達に担いで帰ってもらったことがあるが、この日も私は体がいうことをきかないだけで薄ぼんやりながらあたりの様子は分かっていたのだ。
しかし、
呼びかけに反応しない私は救急車に乗せられどこかの病院に運ばれてしまった。
 
私は病院のベッドに寝かされ一旦様々な医療装置がつながれたことや、せわしなく何人もの医者が出入りしていた事は分かっていた。
 
やがて周囲に人が増えたのは、私の家族もやってきたらしい。
医者らしき人物が話をしていた。
 
「息子さんは脳死状態になりました。」


・・・ええっ、俺はただ飲みすぎただけだよ、せいぜい急性アル中だろ!?・・


「臓器はまだいくらか活動していますが、現在は脳死は即座に人の死となります」
 
・・・おいおい、俺死んでないってば・・・
 
「息子さんは生前臓器移植に同意しない旨の意思表示をしておりません。
つきましては、息子さんの臓器はご家族の同意さえあれば、第三者に提供が可能となります。

 
急なことでまだご家族はお気持ちの整理がつかないことでしょうが、もし臓器が提供され、第三者の体の中で生き続けるとすれば、息子さんの生命はご家族と一緒にこの世界で今後も行き続けるともいえます。

 
臓器は新鮮なうちが・・、いやいや、早い段階での提供をいただけるほど息子さんの臓器がすなわち息子さんの命が今後も生き続ける可能性が高まります。

 
移植を待つ患者さんのためにも、ここは今すぐご決断をお願いできませんでしょうか」


・・・ちょっとまてよ、俺まだ生きてるってば。・・・


ここから別の男が話を引き継いだ。


「旦那さん、このたびはどうもご愁傷様です。私、臓器移植コーディネーターの中山と申します。

 
ま、ここは魚心あれば水心というヤツでしてね、今か今かと死人認定が出るのを待っている患者の方に、ピチピチと活きのいい臓器の提供を仲介していると、ま、そんなわけなんですがね、どうでしょう、息子さんはなかなか上玉の死体とお見受けしやした。

 
6時間以内なら腎臓ひとつ100万円、肝臓300百万、心臓500万、目ん玉200万、
睾丸片っぽ50万てなところが相場なんですが、ちょうど今、役立たずになった金持ちのエロジジイが若い睾丸と腎臓が欲しいなんて言い出して移植を待っているところなもんですから、ちょっと色をつけさせていただくということで、ひとつご提供に同意いただけませんでしょうかね。

 
決して悪いようにはいたしません。
いやホント、鉄は熱いうちに打て、臓器はまだ動いているうちに早めの脳死判定でとっちまえって言ってね、早けりゃ早いほど良い値がつくんですよ。。。」

 

・・・ああっだめだよう、あのギャンブル中毒の親にそんなこと言ったら、俺の臓器根こそぎ売り飛ばされちまうよう・・

 

しかし、体の言うことの聞かない私は異議申し立てするすべもなく手術室に運ばれていった。もはや万事休すか?と思ったところ、睾丸をひとつ切り取られたところであまりの痛さに酔いが覚めて体が言うことをきき出した。

 

暴れる私に医師も驚いていたが、医師らは私の手当をする前に、仲間内で言い争いをしていた。
「せっかく早めにに脳死判定したのに、何で麻酔打つなり、とどめを刺すなりしておかなかったのだ!バカ!」
「だって脳死で死んだことにしたんだから、麻酔なんか打つわけないし、
トドメなんか刺したら鮮度が下がるだろう、このタコ!」 


・・・
 
それはともかく呆れたのは、事情はどうあれ一旦摘出された臓器は本人のものではなくて、医師の裁量下にあると云うことであった。そのため片っぽ取られた睾丸は契約と金の授受に伴い、金持ちのエロジジイに移植されてしまい、

この結果、その時以来、私は片ちんで生きていくことになったのである。。。
 


 


             脳死は死? 早めに死んでと 臓器盗り
                   売買市場は 有望分野











曇り時々晴れ、ところによってはイタリア人

イタリア人の知り合いがいて時々行動を共にするが、人生を楽しむにおいてイタリア人は良く心得ているらしい。

たとえばどんなに忙しくても、たいていは午後7時前にはすでにニコニコして乾杯している。


人が人としての営みを送る上でもっとも貴重な人生資源は時間である。もちろんお金も大事だが、お金は出たり入ったりを繰り返す、というより出入りをすることで初めてお金はその機能を実現する。ところが時間は出て行く一方、流れ去っていく一方である。しかも自分の持ち時間もいつ尽きるのかすら定かではない。

 

持ち時間が尽きるのは30年後かもしれないし、明日かもしれない。それは若い人でも健康で頑強な人でも同じ事である。

イタリア人は自分の自由になる時間が今目の前のテーブルにのっているだけと言うことをよく知っている。だから自分の時間と言うものをとて大事にする。

  

私たちは仕事に過剰に人生資源を奪われてはならない。

 

それよりなによりイタリア人の行動で特徴的なのは、感情豊かに人間的に暮らそうってことらしい。

初対面の人との食事でも、とにかくよくしゃべり、つまらない日常のことでも独自のレトリックでいっぱしの物語風に仕立て上げてしまうし、目の前のテーブルの時間を最大限に楽しむすべにみんな長けている。


彼らといると、とにかく私たちも仕事のロジックばかりに引きずられて自分のハートやエモーションを窮屈にしてはならん、と言う気にさせられる。

 

みなさんも情感たっぷりにくらしてますか?

 

  

 

 

 

聖老人の行伝

私たちは駅前のベンチ付近に座り込んでのみ騒ぐフーテン老人の群れを離れて、駅前のビルの地下にあるこぎれいなレストランに入ったが、中ではすでに座って一杯やっていた弁護士のB氏がここだここだと手を振るのが見えた。
 
この日は気楽な仲間内でのたまの食事会であったのだが、A君はまだ老後のことを考えているのか、先ほどの老後は場末の聖人になる案を引きずっているのか、浮かぬ顔である。
  
私も多少の責任を感じないわけでもないので、それとなく話を振った。
「まあ、なんだ、若いカップルなんかは別にして、電車の中でも道を歩いていても
大人はみんな余裕のなさそうな暗い顔した人間が多いよな。
今の仕事も含めて毎日の生活に閉塞感が漂っているというか、いっぱいいっぱいというか。」

 

A君も仕方なく相づちを打った。
「おかしな話だよな。物質的には豊かでもみんな持って行き場のない悩みを抱えて生きているなんて」

 

「仕事で多少失敗しても、家族にできの悪いのがいたところで、たいていは命までとられるわけでない。それでもみんな悩みを抱え込んで、病気になってしまう人間のなんと多いことか」

 

「蘇東坡や陶淵明なんかがどんな不遇にあっても自然のなかの人生を謳歌して
いるのはうらやましい。やろうと思ってもできないきわめて例外的なケースだから、
みんな憧れるのかもしれないが」
        (注:蘇東坡は宋代の詩人、陶淵明は西晋の詩人)

 

するとB氏はこれを明確に否定してきた。
B氏は弁護士という職業柄、様々な種類・階層の人間と関わりがある。だいたい同質のサラリーマンを相手にしている会社員とはちょっと違う観点があるようだ。

「そんなことはない、だれだってどんな不遇にあっても明朗闊達に生きることはできるさ。誰でもだ。」

 

「それはおまえが、社会的には成功したエスタブリッシュメントゆえの余裕の発言じゃないのか」 
A君は突っかかって、多少の議論になったが、なかなか双方とも話に納得を得るまでにはいかなかった。
駅前の聖老人達の話も出たが、はたして人はどんな境遇でも朗らかに尊厳を持って自己肯定して生きることができるのか。

 

話がかみ合わぬまま、なんとなく消化不良で食事会はお開きとなったのだが、駅へと向かう途中、聖老人の一人と思われるような風体の年寄りが近づいてきた。

彼はB氏と顔見知りのようだった。B氏は弁護士だからなにか法的な事案に絡んで関わりがあったのだろう。B氏に分け隔てのない面倒見の良さがあるのもまた確かだ。

 

彼は聖人にふさわしく、何日も着続けた垢じみたシャツとズボンその持ち物から、
屑や廃品を拾い集めて暮らしているように見受けられた。

 
彼はつかつかと近づくと高そうなスーツを着たおじさんであるB氏に彼我の風体も境遇の差も気に留める風なく快活に話しかけた。


「おう、先生、元気かい? 通風の具合はどうだね。」

 
眼には生気を宿し屈託なく振る舞う彼は、確かに聖老人に違いなかった。

 

 

 

 



 

聖老人の教え

老人になると人は何もわからない子供に返ると言うけれど、そうではなくて、
より神様に近い子供に育つと言うことなんですよ。。。

と、言うようなことをゲーテがファウストの冒頭の方でいってたような気がするが、

一方で夏目漱石などは吾輩は猫であるのなかで、狡猾になるのも卑劣になるのも皆知ることの結果であって、事を知るのは年を取ることの罪であり、老人にろくな者がいないことの理である、と言うようなことを述べていた。

 

実際見方によってどちらも真実であるけれど(ボケ老人になるか偏屈老人になるかという事かもしれないが)、どういう年寄りになるのかはある程度何年も前の生活習慣として人は選択可能なのかもしれない。

 

実はA君が最近体調を崩し、将来のことを考えることがあったらしく、「将来年取ったらオレは何をして暮らそうか」、などと真剣に悩んでいた。

 
まあ、若いうちから将来のことを考えておくのはいいことなのだろう。
会社のロジックですべての生活が左右され、定年と同時に役立たずの非社会適合者、やたら威張り散らすわりには何もできない世間の厄介老人になるという例もあることだし、まあ若いうちから社会的・会社的でない本来の自分を取り戻す準備はしておくのに越したことはないだろう。


「どうするよ?」

A君は真剣であるが、私もまたとくに明確な将来ビジョンはないものの、根が楽天家で、きっと面白いことになるかも、と根拠のない自信があるので、A君の真剣な悩みも面白い見物である、悪いけど。


そこでたまたま目についたのが駅前のベンチにたむろして、ワンカップ酒片手に
明るいうちからくだを巻く老人の集団である。


それは半分都市ジプシーのような住所も定かでないような老人達が酔っぱらって
口から泡を飛ばし、雑巾を引き裂くような声で互いにののしり合いながら昼間の
酒盛りをやっているのだった。


そこで私はA君に言った。

「ほれ、ああいうのがいいんじゃないか?老後の計画としては。
明るいうちから飲んだくれて、なにやっても大概のことは、

『嗚呼、あの連中じゃなあ』、とみんな見て見ぬふりをしてくれるし、

いったい人はいかに生きるかなんてロクでもない悩みにもきっと無縁で、明日の酒をどう手にいれようかと考えているうちに道ばたで行き倒れてつまらない俗世におさらばできるなんて、ある意味達観や悟りの上を行く覚者、聖人の域にあるのかもしれない。」

  

A君は真面目でないと思ったのか私をじろりとにらみつけたが、かまわずに私は続けた。

「だって考えても見ろよ、あの世には財産も持って行けない。あくせく働いた結果立派な葬式を出して大きなお墓を建てていったい何になる?

 

年取ってからだな、学問にせよ芸事にせよ、極めるには何をやるにももう体力も気力もない、アタマもぼうっとしている、食ってもたくさん食べれないから面白くない、その上長年働いた老人を見る目は、世間も家族も厄介者のお迎え待ちだときた。

 

そんなおまえがいかに生きるか悩みを抱えて残り少ない老いぼれ人生を過ごすくらいなら、すべてのしがらみや悩みを超越して目の前の酒と陶仙峡に遊んで暮らすっていうのは賢い選択でないとどうして言える?

 

そう思えば、彼らは野鳥のように天真爛漫で率直な生をおくってると言えるじゃあないか」

 

そのうちに赤ら顔の小汚い聖老人達は、酒のつまみの配分を巡って「天真爛漫」なケンカを始めたが、A君は呆れたように半分口を開けて、聖老人の群れを眺めていた。

 

さてA君にはいいアドバイスになったのだろうかな?
(まあ、現実的にはン十年後の老後の生活を考えるより、目先の生活習慣病やタバコの悪習をなんとかすべきだろう。。。)

   

 

  

雨空の下では

酒とホラの日々。-蓮の池


このところ降るのか降らないのかはっきりしない天気の日が多い。
心身の不調は天気のせいなのか、心身が不調だから天気までうっとうしく感じるのか
その後先は分からないがけれど、梅雨時が巡ってくるのは避けられない。
晴れの日ばかりは続かない。人生もまた同じことだ。
 
もちろん雨が降れば人は晴れを心待ちにするが、一方で雨の効用を疑う人はいないだろう。
なにより日本の雨というのは美しいものだ。

実際、停滞する低気圧はうまく行かない日常ともあいまって鬱屈した気分をもたらしたりもすれば、洗濯物が乾かないとか、出掛けに傘を持とうか気にしなければならないとか不都合があるのも確かだけれど、傘を差して出かけてみると、思うにまかせないわが身と日常の鬱々とした気分も、清冽な雨と一緒に流れていくような気分になる。
ぬれた緑に咲きかけた花、池の上の雨雲に映える葉などを眺めて歩くのは楽しいものだ。

この時期の雨は緑や花の成長を促して、天地の間には生気が満ちる。
 
もちろん雨上がりの風景はまたいっそう美しいのだが、そんな雨後に美しさをもたらすのは、雨時の妖精がひっそりと頑張っているからだ。

晴れない雨はないし、雨中の妖精の頑張りとその働きぶりは誰もがみな知っている。
 
降った日には雨降りの妖精に思いをはせてみるといい、雨時に耐えて働くのは妖精だけでもない。 あなたの雨上がりもきっと美しいに違いない。

   

 

 



道徳的指導!


どこにでも困った迷惑なヤツというのはいるもので、
会社帰りの電車の中ちょっとした出来事があった。

きっかけは電車はぎゅうぎゅう満員というほどではないにしても、乗客の半分は立っていた中で、男が股を広げて3人がけの座席を一人で占拠して大声で携帯電話で話をしていることだった。
男は見るからに手間のかかった茶髪のおっ立て髪に、派手なピアスとサングラス、時代遅れの暴走族のようなロゴの入った上着とズボンに、はだけたシャツの胸元にはタットゥーが見えるといういでたちで、ヤクザにもならないただのイカれた町のチンピラなのは誰の目にも明らかだった。

車内は立っている乗客にはお年よりもいれば、小さな子連れやけが人もいて、席を譲り合うべきは明らかなのだが、チンピラ然とした若い男とのトラブルは避けたいのは当然だから、みな遠巻きに見てみぬふりをしていた。
 
公衆道徳、住みよい社会、社会良識、子供たちへの教育、、、そんな言葉が頭を横切り苦々しい時間が早く過ぎ去ってくれればいいと誰もが思っていたとき、思わず私の体が勝手に動いてしまったのだった。
まあ、社会的にも率先して行動すべき大人であるといいう意識を捨てて置けなかったのかもしれないし、なにより私には武道の心得もあるし、140kgの大男を投げ転がしたこともある。
チンピラとのトラブルも何とかなる、と思うまもなく体が勝手に動いてしまっていたのである。

とにかく私は一歩前に進み出て、男の目をじっと見据えた。
すぐに視線に気がついて睨み返してきた男も、私が目をそらせようとしないのをガン付けと思ったのか次には体をゆすらせて低い押し殺した声で、なんだテメエこのヤロウ・・・とからんできた。

暴力沙汰を予感させるような殺気に、車内には緊張が走り、周囲の客が体をさらに固くするのが分かった。殴り合いになるだろうか、次の駅について警察が駆けつけるまでどれくらいかかるだろうか・・・。
だれだっていやな乗客の多少の行儀の悪さより、周囲に迷惑の及びかねない喧嘩沙汰を目の当たりにするのはもっといやだ。
 
緊張が急激にピークに達し、みんなが一触即発の事態が避けられないと思った瞬間、私は静かに言った。
「あなた、ここんところに霊がついてますよ。。。」 

「え?」

「いや、さっきからずっと言おうか言うまいかと思っていたんだけどね、
そう、この後頭部のあたり、たぶん中年女の霊のようだけれど、これは手ごわい、実に手ごわい。いろんなところで判断を誤らせてあなたを良くないほうへ引っ張っていくタイプだね、うん、これは間違いない。
パチンコの負け続けとか、交通事故とか、ヒヤッとしたこととか、ほら、なかったかな? ほらね、それだんだんひどくなるよ」


心当たりがあるのか、男に動揺の色が浮かび、声がうわずってきた。
「え、なんだよいい加減なこというなよ、な、なんだってんだよう」

「いやいや、私は霊感が強くていろんなものが見えてしまうのだけれど、これほどの霊体にはなかなかお目にかかれないものだから、つい心配になって話してしまったんだよね、まああまり気になさらないでくださいね」

「うそだろ、気にするよ~、おれどうすりゃいいんんだよ~」

この後私にでたらめとは言わないが、適当な神社のお祓いの相談先を教えられた
チンピラ男は、たっぷりの不安と動揺を抱えて電車を降りていったのだった。





え~と、オチは?

この場合まず、「どこのどなたか存じませんが、幽霊さんご協力ありがとう。」かな、

それとも、「バカに付ける薬はこれだ」、かな。


やっぱり、「正義は勝つ。」・・・でいいのかな。

 

 


 

愛と欲望の読書行

る日会社で、
 「来週からの新しい仕事に取り掛かる前に、関係した本を5,6冊読んでおいたほう  がいいですね」
とつぶやいたところ、上司から
 「ん?私は一日で30冊は読むけどね」
と言われた・・・。

そんなわけで(私に一日30冊はちょっと無理だが)、このところある種の仕事関係本ばかり読んでいた。専門書から業界本からいろいろあったが、もちろんこれは仕事の本なので、読書のうちには入らない。

仕事の仕込みなのだから仕方がないのだが、それでも私はたとえ毎度店が違っていてもずっとカツ丼単品ばかり食べて暮らすようにはできていないから、ケーキやラーメンや洋食やエスニックやら、自由気ままな読書がしたくなってくるのは当然である。
 
そこで、今にもはじけそうな欲求不満を抱えて本屋に行ったのだが、いざ山のような本を前にすると、気持ちだけが空回りして今の私の気分にぴったりの本を探し当てるというのが大変困難なことだと気がついた

 
さあ、読んでやるぞ、この読書欲の空隙をしっかりと埋めてもらおうじゃあないか。中身の薄い半端な本や著者の自己満足だけのつまらない本なら勘弁しないからな!と勇んで本屋を見回したのだが、実際本というものは、値段と気分と様々な欲求を満たすだけのコンテンツを持ったものはいくらもありはしないような気になってしまうのだった。

 
こうなるとピカピカの新刊の山もキロあたり何円のくず紙の山である。
 
困った私はいったい私は気ままな読書とは何が読みたいのか、何をしたいのか再度考えようとしたのだが、考えるまでもなく結論はすぐに出た。要は私は欲求不満をまた持ち帰る気にもなれなかっただけなのである。


 「たいていの欲求不満は単純な量で一時的な解決が図れる」

そうなのだ、とてつもなく腹減ったら豪華料理はいらない、たくさん食う。買い物に出かけバーゲンで買いまくる。これはどちらもある種の欲求不満を量で解決する例である。

そこで見ると、あったあった・・。

酒とホラの日々。-honn 2
 死ぬまでに見たい世界の名建築1001

 絡新婦の理


名建築の本はほとんど写真で千ページくらいあって枕に出来そうなほどだし、京極堂シリーズの文庫はもともと既成のブックカバーも届かない「ブロック本」として有名だ。

酒とホラの日々。-本3


この本のたっぷりのボリュームに、すでに読むまでもなく欲求不満は胡散霧消し、本を前にしてなんとなく私は満ち足りた気分に包まれたのだった。。。 

どうだ~、これが欲求不満の本やにおける量的解決であるが、ま、人間とはなんと単純な生き物であることか。(私だけか)


 


 




 


 

大人顔の季節

子供の成長とは早いものだ。
とくによその子ともなると、たまに見かけて挨拶などされては
一瞬誰だかわからず面食らうことすらある。
 
ついこの前まではランドセルを背負って、あるいはおむつをして駆け回っていたのが、いつの間にか背も伸びてもう中学の制服を着ているのなどをみると、
その間の時間を瞬時につかみかねて戸惑ってしまうのだ。
 
もちろん中学などというのはまだまだ子供のうちには違いないのだが、
時折見せる表情に大人びた雰囲気を帯びているのを見かけると、
自分は(青年の部Bで)まだ若いつもりでも、
世代は確実に進み更新されつつあることを鋭く思い知らされるようだ。
 
5月の連休期間帯も終盤の今日は、そんな子供の見せる大人の一面に出会って帰ってきたのだが、夕方からは日中薄日も射していた天気が急に雷を伴った強い雨となった。
 
暮れ時の残光を貫く雨筋と稲妻は、どこか夕立を思わせるとともに、
まだまだ春だと思っていた季節が、いつの間にか一瞬夏の顔を見せるほどに成熟していることを

稲妻の閃光のように私に思い知らしめたのだった。
 
 
立夏から三日。もう夏も遠くない。 











ゴールデン・ウィークの閑暇

強い日射しの中を、緑の匂いをはらんだ風の吹き抜ける、さわやかな五月晴れ。

いい季節になった。

 

連休も山場で行楽地は大変な人出で賑わっていることだろう。

私は人混みを避けてのんびりすることにしている。

 

日よけの中、花と緑を眺めているとハーブティーが運ばれてきた。摘み立てのハーブと焼きたてのクッキーの香りが心地良い。

 

ふとテレビを見ると、ニュースが信じられない距離の大渋滞で喘いでいる高速道路の様子を伝えていたが、私はちょっと眉をひそめて目をそらし、

ティーカップに口をつける。

するとたちまちまた、私はのんびりした時間におし包まれたのだった。。。

  
酒とホラの日々。-新緑


皆さんもどうぞ良い連休をお過ごしください。