聖老人の教え
老人になると人は何もわからない子供に返ると言うけれど、そうではなくて、
より神様に近い子供に育つと言うことなんですよ。。。
と、言うようなことをゲーテがファウストの冒頭の方でいってたような気がするが、
一方で夏目漱石などは吾輩は猫であるのなかで、狡猾になるのも卑劣になるのも皆知ることの結果であって、事を知るのは年を取ることの罪であり、老人にろくな者がいないことの理である、と言うようなことを述べていた。
実際見方によってどちらも真実であるけれど(ボケ老人になるか偏屈老人になるかという事かもしれないが)、どういう年寄りになるのかはある程度何年も前の生活習慣として人は選択可能なのかもしれない。
実はA君が最近体調を崩し、将来のことを考えることがあったらしく、「将来年取ったらオレは何をして暮らそうか」、などと真剣に悩んでいた。
まあ、若いうちから将来のことを考えておくのはいいことなのだろう。
会社のロジックですべての生活が左右され、定年と同時に役立たずの非社会適合者、やたら威張り散らすわりには何もできない世間の厄介老人になるという例もあることだし、まあ若いうちから社会的・会社的でない本来の自分を取り戻す準備はしておくのに越したことはないだろう。
「どうするよ?」
A君は真剣であるが、私もまたとくに明確な将来ビジョンはないものの、根が楽天家で、きっと面白いことになるかも、と根拠のない自信があるので、A君の真剣な悩みも面白い見物である、悪いけど。
そこでたまたま目についたのが駅前のベンチにたむろして、ワンカップ酒片手に
明るいうちからくだを巻く老人の集団である。
それは半分都市ジプシーのような住所も定かでないような老人達が酔っぱらって
口から泡を飛ばし、雑巾を引き裂くような声で互いにののしり合いながら昼間の
酒盛りをやっているのだった。
そこで私はA君に言った。
「ほれ、ああいうのがいいんじゃないか?老後の計画としては。
明るいうちから飲んだくれて、なにやっても大概のことは、
『嗚呼、あの連中じゃなあ』、とみんな見て見ぬふりをしてくれるし、
いったい人はいかに生きるかなんてロクでもない悩みにもきっと無縁で、明日の酒をどう手にいれようかと考えているうちに道ばたで行き倒れてつまらない俗世におさらばできるなんて、ある意味達観や悟りの上を行く覚者、聖人の域にあるのかもしれない。」
A君は真面目でないと思ったのか私をじろりとにらみつけたが、かまわずに私は続けた。
「だって考えても見ろよ、あの世には財産も持って行けない。あくせく働いた結果立派な葬式を出して大きなお墓を建てていったい何になる?
年取ってからだな、学問にせよ芸事にせよ、極めるには何をやるにももう体力も気力もない、アタマもぼうっとしている、食ってもたくさん食べれないから面白くない、その上長年働いた老人を見る目は、世間も家族も厄介者のお迎え待ちだときた。
そんなおまえがいかに生きるか悩みを抱えて残り少ない老いぼれ人生を過ごすくらいなら、すべてのしがらみや悩みを超越して目の前の酒と陶仙峡に遊んで暮らすっていうのは賢い選択でないとどうして言える?
そう思えば、彼らは野鳥のように天真爛漫で率直な生をおくってると言えるじゃあないか」
そのうちに赤ら顔の小汚い聖老人達は、酒のつまみの配分を巡って「天真爛漫」なケンカを始めたが、A君は呆れたように半分口を開けて、聖老人の群れを眺めていた。
さてA君にはいいアドバイスになったのだろうかな?
(まあ、現実的にはン十年後の老後の生活を考えるより、目先の生活習慣病やタバコの悪習をなんとかすべきだろう。。。)