風に舞う木の葉
10月の台風が去って、朝夕の冷え込みに秋の深まりを感じるのは案の定と言うところだが、木々の中でも気の早いのがはらはらと葉を落としているのを見るにつけ、一年の巡りと年月の過ぎることに焦りにも似た感慨を覚えずにはいられない。
この卑小なブログも、凡輩にとっては卑小ながらもせいいっぱいの日常の折々に、毎年同じようなことを書き連ねてはもうだいぶ経つのだが、読み返してみれば植物の実りのような確かな手応えがあるのかどうかは甚だ疑問で、おそらく妄言の山であろうかと思うとそれが恐くて過去記事を読むこともできないでいるのである。
植物の秋と冬はやがて巡り来る春へのそなえのためであり、休止期のたたずまいも準備のためのエネルギーを内へと向わせる落ち着いた余裕が見られる気がする。
しかしながら一方で、明日をも知れない社会に流される人間が、次の活動と飛躍のための備えとして休止期を設けることは非常に難しいのかもしれない。この世の中で生きることは絶えず補給と活動を行っていないとたちまち取り残される恐怖との競争のようなところがある。
静謐な樹になりたいと願った人間は古来より多いが、実際の私たちは天候に翻弄される木くずや木の葉のようなものであるかもしれない。
こうして書いているすぐ目の前を、また木の葉が一枚吹き流されて過ぎていくのが見えた。 風にもてあそばれて私たちは年を重ね、いったいどこへ行くのだろうか。
風に舞う木の葉の行方眺めては 果てなお知らず人生の秋
秋雨の日々を過ごす
この雨の国においては長雨は梅雨時だけの専売ではない。
せめぎ合う四季の大気のはざまに雨降りが続くことに、古くから菜種梅雨だの山茶花梅雨だの明媚な言葉が生まれてきた。
そんな長雨が上がると季節が一変しているように感じることはよくあるが、明日からの天気予報は雨降りの毎日の続くことを告げており、この後には本格的な深い秋が待っているのだろう。秋の長雨である。
日の短くなることと相まって物寂しい雨ではあるけれど、雨だからこそ暖かい家でにぎやかに過ごすにはいい時期だともいえる。
外界と内実を隔てるベールとなる雨の降る日には、ひたすら目の前を移ろいゆく季節を眺めてみよう。
長雨の続き水の惑星となった世界の底、たたずむ家は移ろう季節を航行する船のようだ。雨滴ににじむガラス窓の内でゆったりと過ごしたい。
秋雨の滴満ちたり天球の底に眺める楽しき夕べ
秋の前線を追いかけにいく
今年の夏ははっきりしない天候が続いたところ、秋に入ってはさすがに朝夕は涼しいものの、日中は夏日が続きだらだらと残暑が尾を引いている。
気の短い私としては早くもっと秋めいてもらいたいところで、いつまでもTシャツにサンダル履きで過ごせる気候には風情も情緒もあったものではない。もちろん勝手な言いぐさではあるのだが。
そこで待ちきれない本格的な秋の前線を追いかけて、この連休は高原散歩と温泉の旅に出かけてきた。
森林限界線を越えて潅木ばかりが広がる山の上は、晴れた日中の最高気温ですら10度に満たず、澄んだ空の下に鮮やかな紅葉が広がっていた。
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もちろん、普段から忙しくストレスに追い立てられまくりの私としては、休日にまで面倒も苦行も御免であるので、高山まで楽に行き来のできるロープウェイとゴンドラの旅である。
従って出かけた先も2000メートル級の山の上とはいっても、近所の散歩気分での往来が可能で、見渡せばパンプスにミニスカートやゴム草履に腹巻きの行楽客も多く、一方で一分の隙もなく山岳ブランドファッションで決めている一行もいるというあんばいで、のどかな日本の秋のレジャー風景そのものという眺めだった。
もっとも、過剰なまでの山岳スポーツブランドファッションばかりを身にまとっていたのは、例外なくシルバー世代ばかりで、きっとジジババにとっては自分なりのファッションを考えるというゆとりもなく、中学生のように仲間意識とステータスをスポーツブランドの所持で競っているようで、そこにはたわいもないほほえましさと年甲斐もない稚気が見て取れるようだった。
自分で考えると言うことをしなかった世代なのか、それとも年取って子供に返るという老人特有の行動特性ゆえなのか。
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さて、高原での日々は刻々と深まり行く秋の進行が痛いほど見て取れて、すっかり秋モードの私となってしまったがゆえに、残暑が後を引く下界に戻るのは非常におっくうなところがあった。
いまさら季節を逆行するというのはねえ・・・と言いつつも仕事もあれば日々の生活もある。こうして渋々また戻ってきたのである。
それでもとにかく昨夜家に戻って、都会にあっては天地の底にぬるくよどんだような空気を覚悟して諦め気分で窓を開けると、意外にも日の落ちて静まった空気は確かに秋のもので、庭からはほころび始めたキンモクセイの香りがじわりと漂ってきたのだった。
秋分と彼岸
秋分の日
秋の中点、昼と夜の支配域が交代する日。
公転上の単なる通過点ではあるけれど
世界を巡る天象の向きの変化を知る時である。
彼岸
先祖を供養し死者に思いをはせる日。
私に信心はないが、秋の彼岸は生から死へと
天地の間の優劣が交代する頃であることは
誰しも実感することだろう。
この時期、植物の秋の実りは一年の生の到達点であり
これからは朽ちて地中に引き込まれ
やがて虫たちも姿を消していく。
今はひととき平衡した生も死も、ただ等しく秋の微光に包まれる。
秋微笑う かそけき光に包まれて
かっこ悪くったって毎日は続いていく
私の好きな作品が映画化されるというので(公開は2010年の春)、以前に書いた書評を再掲しておきたい。
『ソラニン』 浅野いにお / 小学館 ヤングサンデーコミック
大学卒業後1年半、会社勤めの将来に展望がもてず身をすり減らすような毎日から逃げ出すようにOLを辞めてしまった芽衣子。その恋人でミュージシャン活動への未練が絶てず、なんとなくフリーターをしながら中途半端な毎日を過ごす種田。その種田が達観したようにつぶやくシーンがある。
「俺は・・・夢のためならどんな困難でも立ち向かうべきなんだと思っていた。でもこの頃は、俺はミュージシャンになりたいんじゃ無くって、バンドがやりたかっただけなんじゃん?ってさ。・・・」
好きなことを仕事にして生きていける人は幸運だろう。同時に企業論理の支配する現代においては、好きなことと食うための仕事の一致を見ることはまれでもあるだろう。多くの人間は経済的な動機からいやでも働かざるを得ないが、会社や仕事の与えるニンジンである経済的利得と出世栄達だけで自分の心にふたをすることには常に疑問があり、そこに「迷い」と「苦」が生じる。
だが、好きなことと仕事をすることの不一致に誰もがどこかで折り合いをつけては生きていく。 それでも生きていくのは大変だ。
人生は思うようにならないうえに、いつまでも目的も定かでなければ、目的に向って突進する覚悟も無い自分にいつまでも苛立ちはなくならない。
そこであなたは、自分には何の能力も確たる意思もないと嘆息するだろうか。自分は誰にも認められず取るに足らない人間だったと卑下するのだろうか?
本書はそんな煮え切らない毎日と不条理なめぐり合わせの中をもがく平凡な若者たちの日常を、静かな、でも圧倒的な共感をもって描いた好著である。
自分という立場で、自分のおかれた環境という重荷を抱えて、自分自身という悩みを噛みしめて生きていくのは自分自身をおいて他になく、その生を日々完成することがそんなにつまらないことなのだろうか。自分を生きるというのはただそれだけで唯一無二の作品ではないのだろうか。
頑張ったバンドの売り込みもうまく行かず、種田は心境を吐露するが、これは逃避からではない。
「・・・みんながいて芽衣子がいて、きっとホントはそれだけでいんだ・・・」
決して切れも良くなければ格好良く決まった話でもないが、きっとその煮え切らなさゆえに不恰好に生きるすべての読み手の共感を得らることだろう。そして不恰好でもまた毎日は続いていくのだが、なんでもないつまらない、でもかけがえのない毎日を、日々かみしめることができたらその時きっと無意味に見えた世界はモノクロの景色がカラーに変わるように豁然と意味を帯びるのではないか、そんな感慨をもたらしてくれた良作だった。
秋を刻む音
9月とはいえまだ日中は蝉も鳴けば、日射しもきつい。
一日一日の昨日との差はほんのわずかなようだが
それでもこのところ風景も音も匂いも、
五感に触れるものすべてが刻々と変化してきたような気がするのは
やはり秋への歩みが確実に進行していると言うことなのだろう。
虫の声は言うに及ばず、昨日までと同じはずの風に揺られる梢も草も
どこか乾いた葉ずれの音を立てているようだし、
夏枯れの葉の混じった土も昨日とは違う芳香を放つ。
そこに雨などが混じると、変化はいっそう顕著となり、
雨が上がるたびに私たちは一段と進んだ景色に出会うこととなる。
昨夕も風呂に入っていたところ急に虫たちの合唱が低くなったと思ったら、
いつのまにか雨が降ってきていた。
雨などというものは夏だろうと秋だろうと、
雨粒が土やら草やら虫や人家などの上にただ落ちてくるだけのことなのに、
秋雨の音は明らかに夏とは違う。
不意打ちの雨に、私は思わず風呂場の外の様子に聞き入ったが、
窓から入り込む音色は季節をしだいに秋の深いところへと導いていくように、
静かに淡々と窓からしみ入って私を包んだのだった。
秋雨に耳そばだてる湯船かな
紅色(くれないいろ)の複葉機
とんぼの語源は「飛ぶ棒」だと思っている人も多いが
古語ではあきつ、またはかげろふ、と呼ばれていた。
とんぼと呼ばれるようになったのは江戸時代からのことだ。
飛行機も虫も翼や翅あってこそ「飛ぶ物」となるし
見事な羽の造形を見ると、私としてはもう一つの語源、
「飛ぶ羽(は)」の変化した物という説を採りたくなる。
いつも8月の半ば頃からちらほら見かけて、秋には空をいっぱいに
うめつくすほどになるのだが、今年は少し早めの出現だろうか。
また戦時にはアカトンボと呼ばれた軍事練習機(後に特攻にも使用)があったが、
この時期に姿を現すアカトンボに何か象徴めいたものを感じてしまうのは
きっと癒えない心の傷が世代を超えた記憶として刻み込まれているためだろう。
確かに私たちは忘れるわけにはいかないのだ。
いずれにせよこいつが現れたと言うことは、
今年は梅雨明けと盛夏の到達を十分に実感できぬまま
季節は転換期を迎え、いよいよ夏は終盤へとなだれ込んでいく知らせらしい。
転季令 持ちて飛来すアキアカネ








