少し、イタリアの話をさせて頂きます。
動物の命の尊厳を、単に頭で認識するというレベルから、具体的に法を用いて動物を護りレスキューへとつなげていく、実践の段階に入ったイタリア。
年間7万匹の野良猫手術を、行政・保健所が全額負担して行っているイタリア。
その背景には、多くの動物保護ボランティアのたゆまぬ日々の活動、発言、運動があります。
そして、その周囲には、彼らに賛同し、理解を示す国民がいるのです。
生きとし生けるすべての命を大切にした聖フランシスの精神がイタリアには息づいているのでしょう。
映画「ブラザーサン・シスタームーン」には、彼の青春時代が描かれています。
所有を放棄し、清貧に徹し、ことばでなく行動を重んじたフランシス。
忌み嫌われるライ病患者や社会の底辺に生きる人々のお世話をし、農作業などの労働と祈りのなかで日々を過ごし、自然との調和に生きようとした彼には、
日本人のファンも少なくなく、生地アシジは日本人観光客であふれています。
聖フランシスの残した詩「被創造物の賛歌」では、太陽、月、星、水、大地など、そして肉体の死さえもが讃えられ、力強さに満ちています。
鳥と心を通わせ会話ができたという聖フランシスは、世界の動物愛護団体の守護聖人とされました。
彼は、音楽や詩を通じて、人の心に語りかけました。
「神の道化師」といわれる所以です。
イタリアが早々と犬猫の殺処分を放棄したことの背景には、聖フランシス、そして彼に
従って尼僧になった聖クララの存在があっただろうと思います。
まさに700年以上の時間をかけて、フランシス会の教えは、人々に浸透していったのでしょう。
一夜のうちにできるものではないだろうと思います。
そして、フランシスの教えは、「人間による自然の管理」「自然と人間との闘争」でなくて、自然との調和のなかで人が生かされている、というもので、これは、欧米的というよりは、アジア的な感覚です。
わが国の仏教の精神にも繋がるものでしょう。
不殺生戒を、第一に重んじた仏教の日本公伝は、6世紀。
12世紀のフランシス誕生の、600年も古いですね。
不殺生は、私たち日本人の感覚にはごく自然で、馴染みやすいものではないでしょうか。
無駄な殺生はしないのはもちろんです。
でも、どうしても殺さなくてはならない場合には、福祉的な配慮をもって、
みだりに痛みや苦しみをあたえず恐怖を与えず、なされなければなりません。
それが、文明国というものです。
①いかなる動物も、虐待または残虐行為の対象とされない。
②動物を殺すことが必要な場合には、即座に、苦痛なく、不安を生ぜしめないやり方で死に至らしめなければならない。
必要なく動物の死を伴う行為はすべて、ならびにそのような行為へと至る決定はすべて、生命に対する犯罪を構成する。
ここに書かれる「いかなる動物も」の動物は、定義がないため、科学上の「動物」をさしています。
つまり、牛、ブタ、犬、猫、トリ、魚類、昆虫、カエルなど両生類も、もちろん含みます。
ゼロか100かの議論ではありません。現実に即して、目の前の動物に対し、私たち人間が、どこまで人道的に、理性をもって向き合えるのか、でしょう。動物実験の分野でも、「どうせ実験したあとで殺すのだから仕方ない」でなく、代替法への移行や、数の削減、痛みの削減、第三者機関による監視・規制が、「この国の外では」常識になっています。食肉の分野でも、「どうせ殺すのだから何でもあり」でなく、家畜の輸送中の、あるいはと殺の現場での最低限の福祉的配慮が常識とされ法制化される時代です。同じ食べるにしたって、同じ科学的利用をするにしたって、「いかに」が大切なのです。利用するのかしないのか、食べるのか食べないのか、の議論ではないのです。あらゆる場面で、この地球に生まれた別の生命体=動物たちへの「残酷な行い」をなくすことです。残酷さとは、不必要な痛みと恐怖のことです。
byおかめ