生と死を分けたものは何なのか? | 「自分の事は棚に上げて」

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自由気ままに、思うがままに。
ブログはSNSに比べると、面倒な繋がりもなくて良いと最近 再認識。
フォローするのも自由だし、忖度してリアクションする必要もない。
本当に同調してくれた時にだけ、反応してくれれば。
それで良いと思ってます。

仕事帰り、いつもの道を歩いていると、この時間(18時40分現在)でも、まだ蝉の鳴き声がする。

同時にふと下に目をやると、道端には蝉の死骸が落ちていた。

一方では力尽きて死んでしまった蝉。一方では自分のやるべき事をただ全うする為に、未だ鳴き続けている蝉。

この違いはどこにあろうか?
 
いつも折に触れ、時々考えてしまう事がある。

2011年に起こった東日本大震災。

津波により沢山の命が失われたのだが、あの日あの時、同じ場所に居て無事だった人と助からなかった人との違いは何なのか?

生死を分けたものは、一体何だったのだろうか?

避難しないで亡くなった人もいれば、避難所に来て亡くなった人もいる。

結局は運だったのか? 

運命だったと云う事で済ませられるのだろうか?
 
先月起こった京アニの放火事故についてもそうだ。

スタジオ内には74人がいたが、そのうち68人が被害を受け、結果的には 35人が亡くなってしまった。

生き残った39人との生死の境は一体何だったのだろうか?
 
そういう世間一般の事件だけではない。

身近な話では、ここ1、2年のうちに、同世代の音楽仲間が4人も亡くなってしまった。

勿論、付き合いの深かった人、浅かった人も含めてだが、ここ2年の内に4人もだ。

未だやり残した事だって沢山あったろうし、音楽だってもっとずっと演り続けたかったはずだ。
そう思うだけで、何とも切なくやり切れない気持ちになるのだが、一方、今でも精力的に音楽活動をやり続けている同世代より更に上の諸先輩方も沢山いらっしゃる。

亡くなった同世代、或いは少し下の世代の方々、逆に自分より上の世代で今でも精力的に活動を続けている方々。

この違いは一体何なのであろうか?

何が違うのだ?
 
この歳になったせいか、何かが起こる度毎に、そんな考えがふと頭の中を掠めるのだ。
 
一体これから先どういう未来が待っているのだろうか?
 
2019年 今を生きてる。
2019年 まだ音楽をやっている。
20XX年 何をしている?