最近「論理で理解することと本能が納得することは全く別物」というのを
ひしひし感じているナミキです、こんにちは。
職場にも復帰しまして1ヶ月、心も体も慌ただしい日々を過ごしています。
たまに無性に悲しくなってぶわぁ~~っと涙が出ることが。。。ひえ~。

さて、先日JIM-NETさんのイベントにお邪魔してきました!

【10/30】アラビアレストランで 「バグダッドのパレスチナ人に聞く」


某Sさんに「アブー・サイードを囲む会をしましょうよ~」と言われて
「いいですね!マンサフ食べたいです(´▽`)ノ」的なお返事をしたら
いつの間にかイベントになっていて、「聞き手」に名前が挙がっていた。
しまった!と思った。笑



このイベント、本当に興味深かったです。勉強になりました。


このイベントは、還暦を迎えたアブー・サイードおじさんが、
バグダッドで生きるパレスチナ人としての人生を語りまくる会。
そこに、JIM-NETの佐藤さんや村田さん、僭越ながら私が
ちょいちょいコメントを挟んでいきました。
(先輩・Nさんの通訳に脱帽。本当にお疲れさまでした…)


おじさんは1953年バグダッド生まれ。
当時のイラクは王朝は共和制に変わるわ、クーデターは起こるわ…の激動時代で、
アブー・サイード(本名忘れた)氏も幼少時代には
王家の人々が処刑されて市中を引き回されるシーンまで見たらしい。

イラクだけじゃなく、この時代は中東全体が戦争続き。
60年代後半にはパレスチナ人の解放運動が起こり、
当時ピチピチの17歳だった彼も参加しようと越境してヨルダンにわたったものの
怖じ気づいて一発の銃弾も撃たないまま、しかも靴をなくして数日で出戻り。
帰ったら帰ったで、パパの大目玉を食らって部屋から出してもらえなかったらしい。
「私は一発も弾を撃ったことなんてないからな!
 銃の扱いも、すっかり忘れてしもうたわ」
(どーん)と胸を張って宣言。笑 
「あぁ、こんな”解放戦士”もいたんだなぁ…」と微笑ましくなりました。
戦火の下にいる人たちが皆勇猛かといえば、そうじゃないんだ。当たり前だけど。


そんなほっこり(?)エピソードとは裏腹に、
今のイラクのパレスチナ人の暮らしは本当に厳しいらしい。


2003年にサッダーム・フセイン政権が倒れる前は、
イラクのパレスチナ人はずっと優遇され続けてきていた。
これは知識としては知っていたのだけれど、経験者の口から聞いて納得。
大学もパレスチナ人枠があったし、住むところもあったし、教育も職も困らなかった。
戦争に出陣すれば特別なバスに乗せられ、タバコの配給もあった。

これはフセインが、
「パレスチナ人への同情」「パレスチナ問題の解決」を旗印にしていたからだ。
それらはアラブ社会に対する印籠のようなもの。
持ち出したら最後、出した人間を批判なんて出来ない空気が流れる。
口だけで「パレスチナ同胞へ救いを!」「パレスチナ問題の解決を!」と叫びながら
裏で結局自分の都合の良いようにしてきた為政者も多くいる。

国を失ったパレスチナ人は、フセインの政策で本当に助かったことだろう。
けれども、優遇されるパレスチナ人より低い暮らしをしていたイラク人は
口には出せなくても、鼻持ちならない気分だったに違いない。

「目に見える」違いや格差は、人々の心の間に不協和音を生む。
ヒトラーが対ユダヤ人政策で行ったのも、この不協和音を作ることが始まりだったらしい。

2003年、イラク戦争が始まってフセイン政権が倒れた時、全てが裏返る。
住居もIDすらも保障されなくなったパレスチナ人は難民化し、
テロがあればパレスチナ人のせいにされ、
スンナとシーアの争いが本格化すれば、スンナと目されて殺される。
(フセイン=スンナ派、フセインが優遇したパレスチナ人=スンナ派、
 というロジックが流布されたため。)
IDもないから自由に国外に出て行くこともできない。


そんなこんなで。
いつどんな理由で、命を、日常を失うか分からない生活を、
彼らは10年以上も続けている。
「イラクのパレスチナ人」なんてマイナー過ぎて、
国際社会の支援の網の目からは、常にこぼれてしまう。
最後に、アブー・サイード氏が涙ながらに絞り出すような声で話し出し、
口にした言葉が忘れられない。

「この人生を生きるチャンスがほしいんだ」



あぁ、と思った。
この人の人生は、政治に翻弄され続けてきたんだ。
持ち上げられて、地面にたたき落とされて。
ただ、華美な贅沢もなく、安心して日常を送りたいだけなのに。



この言葉を受け取った会場の一般の方々は、一体何を思っただろう。
政治、という大きなうねりのもたらした結果を突きつけられて、
同時に目の前で涙しているおじさんの激情に直に触れて、何を感じただろう。


願わくば、

このおじさんと、ずっと繋がっていてほしい。
「世界から見捨てられている」と、おじさんが絶望することのないように。
誰かの平穏な暮らしを政治が壊してしまいそうな時、声を上げてほしい。
おじさんみたいな人の話を、二度と聞かないでも済むように。
特定のグループを「あいつら」と呼ぶ風潮が巻き起こってきた時、思い直してほしい。
「あいつら」にも人生があって、失いたくない気持ちは私達と同じだって。


おじさんは多分、同情して終わりにして欲しいわけじゃない。
心の中に彼の言葉を留めて、少しでも動いてほしいんだ。
そう思う。
世界には数多くの「9.11の思い出」がある。

オムニバス映画「11'09''01/セプテンバー11」で、ケン・ローチが描き出したのは
1973年9月11日にチリで起こったクーデターだった。
米国が糸を引いて始まったクーデターでは多くの無辜の人々が殺され、
チリから亡命した作曲家が、今度は9.11の犠牲者の家族に向かって語りかけるのだった。
ケン・ローチはいつだって、愚直なくらい、
悲しくてどうしようもなくて知りたくなかったようなことを
真面目に突きつけてくるように思う。

私の恩師・伊勢崎賢治先生が、その著書の中でアフリカでの9.11体験を綴っていた。
BBCアフリカラジオの取材で、シエラレオネの主婦が「ブラック」ジョークを放ったという。
「アメリカ政府は、ビン・ラディンを副大統領にすればいいと思います。
 シエラレオネはそれで平和になったのだから」
(アメリカはシエラレオネの和平をコーディネートした時に、
 大量虐殺を行った反政府側のトップを副大統領に据えた過去があった)



* * *

私自身の9.11は、確か高校2年の文化祭直前だった。
社会研究部の先輩が、文化祭で「号外」記事を配っていたのを覚えている。

何が悪いのか、誰が”正義”なのか、当時の私には皆目見当もつかなかった。
ただ、
沢山の犠牲を出しながら崩れたソレが、以前訪ねた建物だということが、
その建物が今は無いことが、信じられなかった。


その後、転がり落ちていくようにどんどん物騒になる世界を、
(いや、本当は最初から誰かにとっては物騒で、私に見えなかっただけなのだが、)
私は高校生として、受験生として、浪人生として時折見つめていた。

最初は「イチから学問をやり直してみたくて」外国語、
「チェチェンやチェルノブイリに行きたくて」ロシア語、を志していたのに
いつの間にか目指すのは東京外国語大学のアラビア語科になっていた。

それは、
あの事件のあと顕著になった「全てを塗りつぶそうとする様々な力」に抗いたいと、
生意気にも思っていたからだと思う。
あの人たちは危険だ。あの人たちは可哀想だ。
そう言われてしまう人達、現地の人々の素顔を、
現地語でもって拾うジャーナリストになりたいと思っていた。


大学でアラビア語を勉強して、
現地に行った結果「ジャーナリスト」になることは断念したのだけれど、
この言語をやって本当に良かったと思っている。
9.11を、自分の心の中にすとんと落とし込んでくれたのは、この言語の力だった。



いま、当たり前のことを思う。
1年365日、いつだって、多分それは世界のどこかの誰かにとっての悲劇の日で、
目立つ事件だけを嘆いていても、悲劇や、悲劇を呼ぶ種はなくならない。
色々な悲劇は連鎖することが、その経路が、この言語を通じて見えてきてしまった。
だから、この世界、この立場に居心地の悪さを感じるとき、
象徴的なあの事件を追悼しながらも、私は世界に耳を澄まさなければいけない。


毎年9月11日、自分に問い直す。
国や人々や文化、宗教を一色で塗りつぶしたりせず、
世界のどこかに埋もれている命に、丁寧にスポットライトを当て直せるように、
不条理に直面する弱い人々の気持ちに、限界があっても寄り添えるように、
一年間過ごせたかどうか。

そして、私は中東で声を拾うことはできるけれど、
他の地域については誰か「通訳」の力を借りなければいけない。
だから、声を拾おうとする人、何かを伝えようとする人に対して、いつでも謙虚でありたい。
誰かを杖にして世界を知り、自分自身も誰かの杖でありたいと思う。
それが、個人としてできる、精一杯の、世界のための追悼。


そんな、2014年の9.11。
先日、生後2ヶ月の乳児がいる我が家に保健師さんがやってきた。
日本には生後1ヶ月を目処に役所から保健師を派遣する制度があって、
子どもの生活環境や発育状態の調査、そして両親の悩み相談をしてくれる。


我が家の悩みで一番大きかったのは、多分コレだ。

「父親がうつ病を患っていることで、子どもに悪影響は及ばないのか?」



子どもの健全な発育に影響を及ぼすもの第一位は「両親の不仲」で、
「親の病気」はその次にくるらしい。

私もだんなくんのうつ病に関しては気になっていたものの
(しかし最近は「朝7時に起こす以外は世話をやかない、気にしない」と決めている)
やっぱり当人は本当に深刻に悩んでいたようだった。
しかも彼の周りには、母親がうつ病を患ったため不登校になった女の子の実例があった。

先日私が相談を受けた時は
「子どもが『君を』求める時だけ応えられればそれでいいんじゃないかな」
と答えてみたものの、彼がプロの意見も訊きたい気持ちは当然だと思う。



保健師さんの回答は、こんな感じだった。



近年は家庭の形が、家族構成から経済状況、年齢まで本当に多岐に渡って異なるから、
それぞれが異なる悩みを抱えていて当然。
マイナス要素がない家庭なんて、存在しないかもしれない。

だから、例えマイナス要素があったとしても、他で補えばいい。
他の人が補っていけばいい。
この家庭は家族も多いし、経済的な面では奥さんが働いているから、
だんなさんはのんびり、見られる時にお子さんのことを見てあげればいいと思う。
子どもにとって一番大事なことは、
大人に笑いかけてもらって、お話ししてもらって、抱っこしてもらうことだから、
無理はしなくていい。



* * *


「構える時に、笑顔であかりさんに接してあげられればそれでいいんだね」
訪問が終わった後のだんなくんは、おかげさまでさっぱりした顔をしていた。

文化も習慣も違う、結局はやっぱり「他人の家」と感じられてしまう義実家で子育てすることを
私は本当に悩んだ末に決めた(そして一度決めたら動かさないよう努力した)けれど、
彼や子どもに手を差し伸べられる人間が多い環境を選んだことは
正解だったんだな、と私も思えた。
保健師さん、一つのコンパスを見せてくれてありがとう。



世の中の、うつ病を患う家族がいるお家に、
それぞれ心強いサポーターがついていますように。
最近、我が家の乳児(生後2ヶ月未満)は、
自分を取り巻く1.6-1.8m級の巨人たちをカテゴライズして把握するようになった。
則ち、「ママ」と「ママじゃないやつ」である。

そして機嫌が悪くなると、後者の接近を全力で拒否する。
あまりに泣き喚くため、孫を目に入れても痛くないくらい可愛がる義母も
抱っこし続けるのを諦めて「ママ」に引き渡してくれるようになった。
(以前はなかなか返してもらえないような微妙な緊張感があったことは否めない)


正直、母親として嬉しくないといったら嘘になる。超絶可愛い。

そして驚きもある。何で今更、「ママ」以外がダメだというのか。
だって私は毎日5時間、日中混血児として産まれた娘の中国語のレッスンと親孝行を兼ねて
義母(上海出身)に彼女を預けていたのだから、
娘が「ママ」以外に抱っこされる機会は存分にあったはずだった。
更に言えば、母乳とミルク混合で育てているため、
母乳=「ママ」から離れても生命の危険に曝されることがない認識もあるはずで。
全くもって、子どもというのは不思議な生き物だなぁ。


可哀想なのは「ママじゃないやつ」にカテゴライズされた「パパ」。
抱っこしても泣かれる、風呂に入れても泣かれる、
寝かしつけをお願いしたときなんぞは30分ノンストップで泣かれていた。
私が風呂から上がって髪を乾かす時間を貰い、
慌てて駆けつけて娘を引き取った時の彼の疲れきった表情といったらなかった。
(ちなみに娘は私に抱かれた瞬間ピタリと泣き止んだ。)

せめて両親に抱かれる時は泣かないでいてほしい…。
仮にだんなくんがくじけてしまったら彼のケアもしなくてはならないので、
この事態は微笑ましくも私にとってはある意味深刻である。



そう思っていた矢先、タイミングよく横浜市某区の保健師さんが我が家へやってきたので
訊いてみた。


この乳児、ママ抱っこ抱っこ星人になっちゃったんですけど、
これはどうにかならないんでしょうか。


保健師さんは
「そりゃ、ママは特別ですから!」と満面の笑みで答えてくれた。

「でも、子どもは適応力が高いから、
 最初は大変でもそのうち慣れてくれるし、
 ママ以外の人も、そのうち『その人なりのあやし方』を身につけますよ。
 保育園も、子どもはちゃんと適応しますから心配ありません」


…ううむ、プロだなぁ。
母親の嬉しい気持ちも、聞き手がアレンジする「のりしろ」も残っている柔軟な回答。
そしてちゃんと子どもの力を信じるよう暗に伝えてる。



つまりは、「ママじゃないやつ」の皆様は
「とにかく今は耐えて、あれこれあやし方を探すしか無い」
「そのうち子どもは慣れてくれる!」
ということに尽きるらしい。
私も、泣き喚き始めたらすぐに反応して引き取ることを少し控えよう…。


というわけで、頑張れだんなくん。頑張れ世の中の「ママじゃないやつ」の皆様。
今その瞬間は辛くても、いつか報われる日が来るらしいです。
(そういえば、この子が生まれたばかりの頃は私すら泣かれていて、
 一人であれこれ必死に試したからこそ今があるんだよなぁ。)
先日、友人に出産について訊かれたものの、
バタバタしていてきちんと答えられず少々引っかかっていたので、
ここに排出しておこうと思います。
(子どもがいると話題と時間は全て子どもに持って行かれるのだなぁ。)
全くもって、書くことは精神的な排泄行為ですな。

* * *

「陣痛、どうだった?」「産むの、大変だった?」
と訊かれれば、
「痛かったことは忘れた」
「この調子ならあと2、3人は産めそうな気がする笑」

というのが正直な回答になると思う。
つわりで仕事が回らなくなった時期が一番辛かった(精神的にも)。
子どもを産むのが激痛を伴う武勇伝のように語られる中、
自分の経験をどう話したものか、いつも悩む。


確かに、陣痛は怖かった。そして結局、痛かった。
でも、終わった後に疲労困憊で動けなくなるほどのものではなかった。
あと、予想外に気持ち良かった。

私は痛みには強い方なので(ポーカーフェイスで我慢強いだけなのだが)、
「陣痛は鼻の穴からスイカを出すような痛みだ」という言われように
「やばい、私の自制心をもってしても耐え切れない痛みってどんなだ…」
「我を失いたくない」

と内心思っていた。
一方で、薬を使って無痛分娩することには抵抗があった。
子どもが頑張って出てくるのだから、私もある程度頑張りたかった。

それから、旦那がうつ病を患っている関係で、
産後の自分が大イベントでヘトヘトになって憔悴し切っている、
という事態は絶対に避けたかった。
旦那が倒れていても、自力で物事を進められるエネルギーを取っておきたかった。


という訳で、色々調べた結果、「ソフロロジー」で産むことにした。
ソフロロジーは、簡単に言えば
「ヨガの呼吸と自己暗示で、陣痛をポジティブに捉えて産む」
というような方式だと思う。
実家のそこそこ近くに、ソフロロジーの総本山みたいな病院があったことも後押しになった。
ソフロロジー、という単語を出産直前まで正確に覚えられなかったことは
もう時効ということで許していただきたい。
(どうしてもリフレクソロジーと混同してしまう)


以下、出産の顛末。

* * *

陣痛は、7月2日のAM2時くらいに始まった。
10分おきに、50秒くらい、お腹を壊したのを強くしたような痛みの波。
ソフロロジーはとにかく呼吸と精神統一がキモなので、
痛みがくる50秒の間はとにかく細く長く息を吐いて体に酸素を送り、
痛みと痛みの間は寝るくらいリラックスして過ごす、というのを徹底した。
それから、この痛みは子どもが出てくるためのエネルギーになるんだ、と
自分を納得させることに徹した。
この2つは子どもが出てくる時までずっと続けた。

ちなみにこの時点では、
まだ余裕だ、と思ってパソコンを開き、各所に「多分入院します」とメール連絡。
いくら日本でも万が一があっては困るので、重要ファイルを転送したりした。
正直、「なんだ、こんなもんだったのか陣痛の始まりって…」と思ってもいた。

母に起きてもらって、AM6時半くらいに、電車を2本乗り継いで病院へ向かった。
ちなみに通勤ラッシュで、2本目は優先席の前に立っての10分。
後日友人にその話をしたら
「”陣痛中”ってタスキでもかけたら良かったねw」と言われて笑った。
まさか目の前に立っている妊婦が陣痛真っ最中だなんて、
優先席で薄目を開けたり携帯電話をいじったりしてた人たちは思わなかっただろうなぁ。


で、病院に到着したものの、やはり表情が余裕過ぎるということで
家に返されそうになった。
が、暫く病院のベッドで休ませてもらった後、AM11時頃にもう一度診察。
「あー、子宮口開いてきてるね」ということで入院と相成った。


病院のベッドで最初にしたことは、とにかく食べることだった。
出産はエネルギーを使うと聞いていたので、無差別に食べまくった。
旦那が色々と買い込んできてくれており、
サンドイッチもおにぎりもチョコもいちごミルクも摂取した。
濃いブラウニーを食べられたことはちょっと幸せだった。笑
あとは寝ていた。


夕飯の時間になる頃には痛みは3-5分間隔になっていて、
ひたすら呼吸して、痛みの合間に相変わらず睡眠をむさぼっていた。
夕飯に出てきたサンドイッチもむさぼった。完食。
母妹がお見舞いに来て、病室で談笑していたけれども眠過ぎて内容を覚えていない。
でも私はきちんと会話を返していたらしい。私の無意識すごい。


20時に内診。
「陣痛の間隔は短いけど、まだ弱いね~」と助産師さん。
「本当の陣痛は耐えられないくらい、喋れなくなるくらいなんだよ~。
 こんだけ余裕じゃ、明日のお昼前くらいじゃないかな~産まれるの~」ってことで
付き添いの旦那は家に返されそうになった。
私も、「駅前のホテルとか、ちゃんとしたところで寝たら?」と勧めた。
が、彼は意地でも踏みとどまった。結果的にはこれが大正解だった。旦那偉い。


日付が変わって0時、今までと違う感覚で目が覚める。
これまでは会話ができていたのに、今度のは口の動きを全て呼吸に使いたくなる痛み。
こ、これなのか本当の陣痛は…でもまだまだかもしれない…まだ私耐えられるし…
と思って、遠慮してナースコールを押さなかった。
とりあえず旦那も可哀想なので起こさず、一人でベッドの端に座ってみた。
この時点で痛みは2分弱間隔。
が、見回りにきてくれた助産師さんに内診されたところ、分娩室に即連行。
「次からは素直にナースコールを押してみよう」と思った。(次っていつやねん)


分娩室では、ひたすら1分間隔になった痛み、というかエネルギーに耐えていた。一人で。
1分ごとに50秒、体がずーんと重く熱くなり、意思とは別に、勝手にお腹に力が入った。
そして痛みは背中に来た。ここは正直メリメリと痛かった。
というわけで、一人でイスみたいなのに座って、ひたすら細く長く呼吸をしながら
痛みが来た時に自分の背中を強くさすっていた。合間はやっぱり寝ていた。
助産師さんに聞いたところ、背骨の根元を子どもが通ってきているが故の痛みらしかった。
子どもを産む時はこんなところが痛くなるのかー。びっくりである。


AM2時頃、分娩台になるベッドによじ上って、横になった。
「赤ちゃんはそう簡単には産まれないから大丈夫よ~」と一言かけられ、
それまで寝ていた旦那が連れてこられる。一人が二人になった。
彼は手を握ろうとしてくれるものの、「ベッドのバーの方が心強い」と拒否する私。
「私がバーを握っている時に背中を強く押して、そうじゃない時は触らないで、寝るから」
と訴えたらその通りにしてくれた。指紋が消える程さすってくれたらしい。


そうこうしているうちに、足の間に丸いものがボコッと出ては引っ込む感覚が。
頭? 頭なの??
でもプロが簡単には産まれないっていうし、違うかも…。
と悩み、もうちょっと我慢しようと思ったそのとき、丸いものが引っ込まなくなった。
ここで一念発起してナースコールを押した。やっと押した。
「あの、頭、出てるっぽいです!」


慌てて駆けつける助産師さん。
ベッドを分娩台の形に組み立ててもらって、体勢を立て直した私。
「いきまなくていいからね~」「っていうか力抜いて! もう出てる!」
「うう、体が勝手に動くんですけど!」
というやり取りの末、直後に産声が聞こえた。
7月3日、AM2:49だった。


そして、私の体に訪れた爽快感といったら、
人生で経験したことのないようなものだった。これも驚いた。
これを味わうためならあと2人くらい産んでもいいなぁ。
(でも会陰は切れた。これも恐怖だったけど案外痛くなかった)



(出産直後の娘のヌード。娘よごめん。
 そしてこの写真は可愛過ぎて私の宝物であります)



ちなみに分娩後、病室に戻って私が真っ先にしたことは
上半身を起こして産前に食べ損ねたプリン・アラモードを食べることだった。(再び食い意地)
各所にメールを打ち、更に朝ご飯も完食して、一人でトイレ行って、ひたすら寝て、
夕方の面会時間の頃には一人でスイスイ歩き、階段も上り下りした。
「無理するとあとでガクッとくるよ!」と言われたものの、寝ている方が暇だった。
(産後3週間目に一度高熱を出したものの、今のところそこまでガクッとはきていないつもり。
 更年期にくるのかしら? ま、その時はその時。)


* * *


こんな感じだったので、もし同じように産めるのであれば
あと2人くらいは行けそうな気がするのです。
産院でのケアも、大変癒されました。これは母からのプレゼントなので感謝。
大変なのは、やっぱり子育てなんだな~。


チラシの裏に書いとけよ、みたいな長い記事でしたが、
誰かの参考にでもなれば幸いです。
ガザ、停戦。ひとまずこれ以上人が死なないことになってホッとしたけれど、ここが本当のスタートライン。問題の根本解決に向けて交渉するためのテーブルに双方が(少しでも対等に近くなるように:本当に対等になることは国/自治区の立場その他の違いから結局出来ないのだが)着くまでの犠牲が本当に大き過ぎて悲しい。犠牲の大きさの非対称性も悲しい。

支援物資を入れる、漁業水域を拡大する、なんていうイ側の”譲歩”は「当たり前じゃ! それをしなかったら極悪非道すぎるわ!!」という程度のものなので、今後の交渉の詰めがホントに重要。
大体、人道危機に瀕するその他の地域では、自分達の身の安全すら何とか確保できればNGOや国連が支援を行えるのは当たり前なのだ。多少の調整の必要はあれど、人道危機をもたらした張本人側の”許可”なんて要らない。この問題の根本は、強者が東京都23区より小さな場所を壁と武力で囲い込み、弱者170万人を押し込めて物流も移動も外部から最低限(本当に最低限だ、常に足りない)にコントロールしている、そのおかしな状況にある。

*  *  *

私より2歳年上の、めっちゃ美人なガザのお姉さんから、「お気持ちありがとう。私達、生きてるわよ。いいニュースでしょ?笑」とメッセージが来た。
彼女の振り絞ったような明るさが再び打ちのめされないように、今後の交渉を注視したいと思う。あーよかったよかった、で流されないよう、国際社会に注視してもらえるように努力したいと思う。
アイス・バケット・チャレンジについて、
最近遅まきながら知った乳児の母です、こんにちは。
チャリティ方面のアンテナが鈍っている…。

数多くのセレブや有名人を巻き込みながら、
賛否両論を巻き起こしているようで、
私が人から意見を問われたらどう答えるか、というのを考えておりました。

現時点での結論は、
「いいと思う」。
ALSについて知ってもらうこと自体がすごいことだと思う。
このキャンペーンがなければALSを知らなかったヨ、ってひとが
多分たくさんいる。
ゴールデンタイムのニュースで取り上げられて、
小学生からお年寄りまでの耳目に入っているだろうし。
例え学校でALSについて教わっても、きっと右から左だっただろう。

このキャンペーンは多分、「知って、考えてもらうこと」自体に大きな意義がある。
自分にバトンが回ってきて、
「さてどうする? 氷水を被る程、自分にとって関係の深い問題だろうか?
元々深くなかったとしても、今どうだろうか?
寄付をしたいと思うだろうか? どうだろう?」
等々と考えることに意味がある(世間体を考えることもあるだろうけど)。
全くの「他人事」が、ほんの少しだけ「自分事」の土俵に乗っかる瞬間ができるから。

そして、考えた人が、未来のある日突然、何かのきっかけで当事者に出会ったとする。
そこでスルーするか引っかかるか、という分岐が発生するだろうけれど、
このキャンペーンでALSの名前を知っている、
もしくは何らかの行動を起こした(パスしたことも含めて)ことで、
恐らく後者になる可能性が少し高くなるんじゃないだろうか。


*  *  *

その他、主要な反論について私なりに現時点の意見をメモしておく。

1)選択肢が3つしか無いのが理不尽だ。
縛りをかけるからこそゲームが面白いのと同じように、
縛りがあるからこそ、盛り上がったんじゃないかなぁ。
それにプログラム仕立てじゃない「人間」を媒介にする以上、
選択肢は3つしか無いように見えて、実は無限なんじゃない?
考えて、4つめの選択肢を創ればいいし、嫌なら放り投げればいい。
チェーンメールを受け取った時と同じように。
自分の健康状態と天秤にかけるのも、もちろん自分でやるべきだと思う。
国家権力に強制されているわけじゃないんだから。

2)寄付がどう使われるのか分からない。情報が足りない。
ALS関連の団体は海外から国内まで幾つもある訳だから、
納得の行く団体を選べばいいんじゃないだろうか。
情報は取りに行けばいいし、無い・けど欲しい、なら求め続けていい。
営利だろうが非営利だろうが、同じシビアさで求めていいし、
使われる先を見届けるために監視し続けていいと思う。
面倒かもしれないけれど、寄付者、団体側、双方のために。
で、納得がいく情報が出てきた時点で寄付、というのもアリだと思う。
(でもどうせ、皆そこまではしないんだろうね…。)
ちなみにJALSAには1,550万円が集まったらしい。すごい。

3)国によっては難病指定されていて支援を受けているのに、更に寄付?
これは、「マジョリティ」「強者」が言ってはいけない言葉じゃないだろうか。
自分の傲慢さや無知さをひけらかすだけの言葉だと思う。
言うなら、複数の当事者に意見を聞き、状況を彼らの視点から認識して咀嚼し、
自分なりの考えを深めてから、にしたらどうだろう。

私達「マジョリティ」が創る社会は、本当に彼らに対して公正なんだろうか。
お金だけ出して「底上げ」した気分になってないだろうか。
弱者一人一人の人生の質を、マジョリティのそれと同じくらいに引き上げただろうか。
それを問う人々が、
ALSだろうがどの難病だろうが障害だろうが貧困だろうが、同じように居て欲しいなと思う。

4)死人が出たね…。
うん、これはとても残念だと思う…。
命が失われたこと自体も、そしてキャンペーンにとっても。
語学力も土地勘も実地経験も無いのにいきなりシリアに行く邦人がいたことと同じ位
予想のナナメ上であるような気がする。
亡くなった方のご冥福と、周りの方がじきに心の平安を取り戻されるように祈ります。
命を失うに値する啓発キャンペーンなんてものはこの世にないはず。


*  *  *

関連として、ガザで「がれきバケツ」を被ったニュースがあった。
(以下、ニュースリンク)


常にシュールなジョークが溢れるパレスチナらしくって、
ちょっと笑ってしまった。笑
ガザにはかぶる水も氷を作る電気も無いそうです。


※本ブログの記事内容や自分の意見はあくまで個人としてのもので、
 所属団体には一切関係はありません
「ああ! 家のありがたさは、それがぼくらを宿し、ぼくらを暖めてくれるためでもなければ、またその壁がぼくらの所有だからでもなく、いつか知らないあいだに、ぼくらの心の中に、おびただしいやさしい気持を蓄積しておいてくれるがためだ。人の心の底に、泉の水のように夢を生み出してくれる、あの人知れぬ塊を作ってくれるがためなのだ。」サン・テグジュペリ『人間の土地』


* * *


エルサレムから、家屋破壊のニュースが届く。
自分の家が建っていた場所が突然「建設禁止区域」やら「国立公園」やらになって、
ある日突然ブルドーザーが来て、家をすべて壊し更地にしていく、
ということが何故か起こるのがこの地域だ。

壊されるのは、例外なくアラブ人のお家で、
壊すのは、例外なくイスラエル当局で。
残念ながら、目を付けられてしまったらほぼ回避ができない。
裁判所に訴えようが、裁判の前に業者が無理矢理家を壊してしまうし、
裁判所が違法という判決を下したって、結局壊されてしまう。


「どうして家を壊すのか」というのは高度に政治的なお話で、
ブログ記事で書くなら数本を要すだろうけれど、

家を壊されたひとの心がどうなるのか、ということは
サン・テグジュペリの言葉が示唆してくれるような気がする。




そんなことされたら、「共生」なんて大きな夢を描くエネルギーは
心の中から消え去ってしまうだろう。

外野の私達は、「どうして紛争は終わらないの?」と呑気なことを言う。
暮らしをめちゃくちゃにされたことの無い私達は、
十分守られて、「泉」を持つ余裕があるのだろう。


「どうして紛争は終わらないの?」という問いができることは、
安らげる家があって、家族がいて、温かさにくるまれていて、
初めて言えることなのかもしれない。
まるで空気のように、ある者から見たら贅沢な、
安心に包まれている証拠なのかもしれない。
誰のものであれ、ニュースや何かで「人の死」を知るとき、
私達はもっと具体的なカオを思い浮かべて、その人の人生を想像してもいいと思う。
繰り返されて欲しくないと微塵でも願うなら、尚更のことだ。
何故って、「知ること」と「感じること」は全くもって別モノで、
私達は「感じること」なしに行動はできないだろうから。


ここに、京大の岡先生が訳した文章を、一つ貼り付けておきたいと思う。
世界のどこかで攻撃が行われるとき、発生するかもしれないストーリーを。
2014年8月、東京都23区よりも狭いパレスチナ・ガザで、実際に起こった出来事を。

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ぼくは、イブラーヒーム・イスマーイル・アル=グール。
左の写真がぼく。ぼくには、双子の弟がいた。

ぼくたちはいっしょに生きてきた、ママのお腹のなかで9か月、それから外に出て10日間だけ。
ぼくたちはずっと一緒に生きていくのだと思ってた。
一緒に遊んで、一緒に幼稚園に行って、それから一緒に学校に行って、
大学に行って、友だちも一緒。ぼくたちは永遠に親友だと思ってた。
ぼくの双子の弟は、殺されてしまった。
もうちょっと成長して、外の世界の生活を見ることもなく。
ぼくは、ぼくの分身、ムハンマドを亡くした。

ぼくが亡くしたのは双子の弟だけじゃない。
ぼくはママも亡くした。パパも、お兄ちゃんのワーエルも。
ぼくにはもう、ママともパパとも、
お兄ちゃんとも知り合うチャンスがないんだと思うと、
ぼくはとっても悲しい。
それから、ぼくの2人のすてきなお姉ちゃんたち、ハナディとアスマーも。
二人も殺されてしまった。

ぼくのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、アイスクリームの冷凍庫の中にいる。
右側の写真がそれ。病院はいっぱいで、
もうそれ以上、死んだ人たちのための場所がなかったから。
それ以上の痛みの場所も。


(翻訳:岡真理先生、原文はこちら
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原文と、彼らの写真は、International Solidarity Movementのウェブサイトにある。
ISMと約されるこの団体についての議論はさて置いても、
事実は事実として受け止められるべきだと、私は思う。

肝心なのは、私達が何を感じ、「これから何を目指したいか」だ。
HOW、は、目を凝らせば沢山あるのだ。たぶん人の数だけある。
だから、まずは軸を創り、自分に刻み付けることが大事だ。流してしまわないように。
そこからでいいんだと思う。


サン・テグジュペリは「人間の土地」という作品の中で、こう綴っている。

『人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。…人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。』
——サン・テグジュペリ「Terre Des Hommes(人間の土地)」
  新潮文庫、堀口大學訳 57ページより
前編集長が亡くなってから3年、やっと発行できました!!



あぁ、やっと世間様に顔向けできる。
そしてやっと前編集長の供養ができる。
この3年、楽しくも苦しかったです。周りの方々も苦しめてしまいました。
でも本当に、多くのプロやボランティアさん、パトロン様に支えていただきました。
一人じゃ何もできないのだ、と改めて思い知らされました。


コンテンツはこちら。



販売ですが、2014/8/15現在、以下のお店で販売していただいています。
納品してくれたAちゃん、M先生、Yくん、
快く受け入れてくださったお店の皆様、
本当にありがとうございます。
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エルスール・レコード
東京外国語大学生協「ハッチポッチ」
模索舎
ケトル
ティラキタ
★中野ブロードウェイ「タコシェ」
★西荻窪南口「旅の本屋のまど」
★吉祥寺北口「はるばる屋」
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もしくは、私から直接ご送付させていただいています。
namiki.oar★gmail.comまでご一報いただければ幸いです。
(★をアットマークに変えてくださいませ)
銀行振込をお願いしています。
子育ての合間に、コンビニに走ってメール便で発送します。
雑誌は1冊500円(税込)です。

「お店に置いてやっても良いよ!」という方からのご連絡も
大大大歓迎です!!!!! むしろ全力でお願いします。(ジャンピング土下座)


8/15追記:
それから、野上くんがボーカルを務めたバンド「Pandora's Beatbox」が
野上くんの最後のレコーディング音源を曲に仕上げています。
こちらのリンクからどうぞ。2分過ぎくらいから彼の声が入っています。
"We have decided NOT TO DIE" by Pandora's Beatbox


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以下、雑記。


野上くん(前編集長)が三鷹の旧我が家にやってきたとき、
ITベンチャー勤務だった私は、Oarの販売方法をアドバイスしたことがあったのでした。

フリーのシステムを使えば、いちいちメールをやり取りしなくても
簡単にデータ管理・発送できることとか。
仮アカウントまで作って、実際にやってみせたりしました。

本人はといえば、
「最近は便利な世の中になりましたねぇ」とか何とかいいながら
しみじみとお茶をすすっていました。


今あの時のことを振り返って、想像できることが2つあります。



一つ。
彼が欲しかったのは「便利なシステム」じゃなくて、
「自分がやるよ!まぁ任せなさい」と熱意を持ってガツガツやって来る仲間だったってこと。

二つ。
彼は、直接「Oarが欲しい!」と連絡をくださる方々とやり取りするのが
きっと血管が破裂しそうなくらいエキサイティングで嬉しかったであろうこと。



編集長、どうですか? 当たっていますか?



あのとき、
「私が細々したことはやるから、編集長は創作に驀進しなよ!
 ちゃんと情報シェアするから、気にすんな。」
と手を挙げなかったことを、少し後悔しています。

そしてその数年後に君が亡くなった時、
何かの巡り合わせで2代目編集長になったことは、
いま、後悔していません。



次も出したいな。また2、3年掛かりかもしれないし、
私は編集”長”は出来ないかもしれないけれど、次も出したいです。
次の特集はどこにしよう?