誰のものであれ、ニュースや何かで「人の死」を知るとき、
私達はもっと具体的なカオを思い浮かべて、その人の人生を想像してもいいと思う。
繰り返されて欲しくないと微塵でも願うなら、尚更のことだ。
何故って、「知ること」と「感じること」は全くもって別モノで、
私達は「感じること」なしに行動はできないだろうから。


ここに、京大の岡先生が訳した文章を、一つ貼り付けておきたいと思う。
世界のどこかで攻撃が行われるとき、発生するかもしれないストーリーを。
2014年8月、東京都23区よりも狭いパレスチナ・ガザで、実際に起こった出来事を。

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ぼくは、イブラーヒーム・イスマーイル・アル=グール。
左の写真がぼく。ぼくには、双子の弟がいた。

ぼくたちはいっしょに生きてきた、ママのお腹のなかで9か月、それから外に出て10日間だけ。
ぼくたちはずっと一緒に生きていくのだと思ってた。
一緒に遊んで、一緒に幼稚園に行って、それから一緒に学校に行って、
大学に行って、友だちも一緒。ぼくたちは永遠に親友だと思ってた。
ぼくの双子の弟は、殺されてしまった。
もうちょっと成長して、外の世界の生活を見ることもなく。
ぼくは、ぼくの分身、ムハンマドを亡くした。

ぼくが亡くしたのは双子の弟だけじゃない。
ぼくはママも亡くした。パパも、お兄ちゃんのワーエルも。
ぼくにはもう、ママともパパとも、
お兄ちゃんとも知り合うチャンスがないんだと思うと、
ぼくはとっても悲しい。
それから、ぼくの2人のすてきなお姉ちゃんたち、ハナディとアスマーも。
二人も殺されてしまった。

ぼくのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、アイスクリームの冷凍庫の中にいる。
右側の写真がそれ。病院はいっぱいで、
もうそれ以上、死んだ人たちのための場所がなかったから。
それ以上の痛みの場所も。


(翻訳:岡真理先生、原文はこちら
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原文と、彼らの写真は、International Solidarity Movementのウェブサイトにある。
ISMと約されるこの団体についての議論はさて置いても、
事実は事実として受け止められるべきだと、私は思う。

肝心なのは、私達が何を感じ、「これから何を目指したいか」だ。
HOW、は、目を凝らせば沢山あるのだ。たぶん人の数だけある。
だから、まずは軸を創り、自分に刻み付けることが大事だ。流してしまわないように。
そこからでいいんだと思う。


サン・テグジュペリは「人間の土地」という作品の中で、こう綴っている。

『人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。…人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。』
——サン・テグジュペリ「Terre Des Hommes(人間の土地)」
  新潮文庫、堀口大學訳 57ページより